河合 文
(2020年4月助教着任)
私はマレーシア半島部で調査を行い、人と環境の関係について研究してきました。主に対象としてきたのは、半島部の先住民であるオラン・アスリの「バテッ」という人びとです。森での生活を基本とする彼らは、川に沿って資源のある場所へ移動する暮らしを送っていましたが、アブラヤシ・プランテーションの開発が進むにつれて、政府が設置した村に滞在するようになってきました。現在彼らが食べ物を得る場所は、村の近くにあるタマン・ヌガラ自然公園と、その周辺の熱帯林が中心です。
国際社会に「地球環境問題」を提起し、地球温暖化や熱帯林の重要性を訴えたリオ・サミットの開催された1992年、私は小学生でした。1960年代に人類が初めて「宇宙から目にした」地球は、80年代には気温の上昇や熱帯雨林の減少が問題として語られるようになっていました。気温の変化を示すグラフや森林被覆エリアの変化を示した世界地図など、二次元で提示される地球の状態を「みる」ことは、地球環境問題の認識に大きな役割を担っています。グーグル・マップも普及した現在、視覚は、知覚のなかでも特異な地位を占めていると感じます。
地図が普及した社会では、点が地図上を動くように「移動」がイメージされると思います。しかし熱帯林を移動するバテッのナビゲーションは、それとは異なります。木々の成長が早く変化の激しい環境でも確かな目印となる河川に、彼らは細かく名前をつけて記憶しています。そして視覚だけでなく、「上る(登る)」や「下る」という語で表される身体の動きを通じて地形を把握しつつ、それを河川と結びつけて自分の位置を確かめます。また川を「上る・下る」という語も頻繁に使われます。重力と起伏ある地球の特徴を生かした彼らのナビゲーションにおいては、環境は自然公園のような領域ではなく、河川を中心とした立体的広がりとして認識されています。
こうした人びとの認識枠組みを知り自らの「当たり前」について考えることは、人類学の醍醐味のひとつだと思います。バテッの環境認識をふまえると、「自然公園」が「領域的な環境」を前提としたものであることや、自分が地図を「みる」ときに等高線をいかに意識していないかということに気がつきます。また頻繁に耳にする「先住民の土地権」についても、バテッのような先住民の実態には合致しないことが予想されます。
一定領域にかんする排他的権利を特定の主体に認める土地権は、社会制度によって保障されています。しかし分業が進んだ社会では、制度化された枠組みが人びとの実態を反映しているとは限りません。フィールドの日常を観察することで得られる視点は、既存の枠組みにたいする内省を促しますが、今後もこうした視点を大切に研究を深めていきたいです。
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