小倉 智史
(2017年4月助教着任)
インド・パキスタンが相次いで核実験を敢行した1998年当時,私は中学生でした。連日の報道を見ていると,どうやらカシミール地方の帰属問題というのが両国間の争いの主要因であり,その地方は中心都市を含む大半の土地がインドの領土となっているが,住民の圧倒的多数派ムスリムであるというところまでは分かってきました。しかし,歴史の教科書を見ると,南アジアの「イスラーム化」として説明されるのはデリー・スルターン朝やムガル帝国の歴史です。一方地理の教科書を見ると,王朝の首都が置かれていたデリーやタージ・マハルのあるアーグラのあたりではムスリムの割合はそれほど高くなく,住民の多くはヒンドゥー教徒だとあります。ムスリム王朝の中心地でもヒンドゥー教徒の方が多いのに,なぜ辺境のカシミールではムスリムがこんなに多いのか,宋疑問に思ったのが,カシミール地方の歴史に関心を持ったきっかけでした。
学部生のときにパキスタン側カシミールを訪れ,そこで報道では単に「ムスリム」とひとくくりにされてしまう,様々な宗派に属する人々が谷ごとに暮らしているのを目の当たりにし,そこから着想を得て,卒業論文・修士論文では住民のイスラームへの改宗や異なる宗派集団の形成を促した,14-16世紀に中央アジアからカシミールに到来したスーフィーたちの活動を取り上げました。
カシミール地方では14世紀前半にムスリム地方王朝が興り,1586年にムガル帝国に併合されるまで独立王朝として同地を支配しました。しかし,カシミールのムスリム宮廷において,同時代史はペルシア語ではなくサンスクリットで編纂され続けました。ペルシア語による史料編纂が始まるのは16世紀のことです。そういった次第で,サンスクリットとペルシア語,2つの言語で書かれた史料を読みながら研究を進めていたわけですが,あるときふと双方の間で記述のパラレルがあることを発見しました。「この著者は今の自分と同じように,サンスクリット史料を読んでいたのか?」という興味から世界各地の図書館に眠っている写本の複写を集め,カシミールのサンスクリット史書『ラージャタランギニー』から,そのペルシア語訳を経由して,ムガル朝時代のペルシア語史書につながる歴史情報の伝承過程を復元しました。この成果が博士論文の骨子となっています。
サンスクリット,ペルシア語は時に「ヒンドゥー」「イスラーム」と安易に結び付けられ,南アジア史は「ヒンドゥーの古代」「ムスリムの中世」「大英帝国の近代」といった本質主義的かつ乱暴な三区分によって語られていた時期もかつてはありました。多言語・他宗教の接触の記録である翻訳文献は,そのような史観を修正し,新しい南アジア史を描く可能性を提供してくれます。ここAA研でどのような仕事ができるか,自分でも今から楽しみです。
Copyright © 2010 Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa. All Rights Reserved.