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新任スタッフ紹介 57

利根川からナイルへ!

熊倉 和歌子
(2018年4月助教着任)

私はエジプトのナイル流域をフィールドとして,土地制度や灌漑システム,そこで営まれる農業について研究をしてきました。今思えば,このようなテーマを選択してきた背景には幼少時代の経験が深く関わっているように思えます。私はベッドタウンであった茨城県取手市に生まれ,利根川のそばの住宅街で育ちました。歩いて5分の距離に利根川があったので,遊ぶといえば川沿いの土手で花を摘み,虫を追いかけ,水路でオタマジャクシをとったりしていました(なぜか今は大の蛙嫌いですが…)。当時,大雨が降るたびに利根川が増水したので,そのような時には父と一緒に土手に行き,水位を観察したものです。土手と川の間にはゴルフ場が広がっているのですが,それが今や遊水池となって,水かさが日に日に増していく様子を見て,幼心に恐怖と(不謹慎ながら)興奮が入り交じった感情がこみ上げてきたことをよく覚えています。

話はエジプトに転じて,ナイル川が自然のままに流れていた中世においては,ナイルは時に水勢を増し,以上な増水を見せて人々を恐怖させたのでした。単一の河川で灌漑されているといっても過言ではないエジプトにおいて,堤防が決壊し,ナイルが氾濫すれば,さぞ甚大な被害をもたらしたに違いありません。私が感じたのとは比べものにならないほどの恐怖心を人々は感じたでしょう。されば,人々はその自然の脅威にどのように抵抗したのか,そしてどのように利用したのか?しかし,1970年にアスワン・ハイダムが竣工して以降,ナイルは完全に人間の手で制御され,ナイルの氾濫はすっかり過去のものになってしまいました。そこで,この疑問の解を研究文献に求めてみましたが,満足のいく説明を提示してくれるものはありませんでした。

このことに気づいたのが,中世エジプトの土地制度に関する博士論文を提出し,次のテーマを探していたときのことでした(2011年頃のことです)。そのときから,カイロの文書館で『灌漑台帳』なる史料をひたすら解読し,そこから得られた文字情報をより具体的に理解すべく,デルタ地域やカイロ郊外の田園地帯に中世の土地改変の痕跡を探しに行くという作業を進めていきました。努力の甲斐あって,まだ残されている課題はあるものの,中世の灌漑については自分なりに何とか理解できる程度にまで知識を得ることができました。

現在は,よりマクロな視点からナイルをめぐる様々な問題について考えたいと思っています。例えば,ナイルの灌漑システムが古代王朝期から近代にかけてどのように変化したかという問題や,中世における黒死病の影響がエジプト経済にいかなる影響を与えたかについての再評価,また近代における植民地政府の灌漑技師たちの鋭意とその後グローバルに及んでいった彼らの影響についてなど,疑問はつきません。これからここAA研で,関心の赴くままに,納得のいく答えを探していくのを楽しみにしています。


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