AA研トップ > 読みもの > 新任スタッフ紹介 > 新任スタッフ紹介 55
文字の大きさ : [大きく] [標準] [小さく]

新任スタッフ紹介 55

言葉でのやりとり以外,私たちの身に起きていること

吉田 優貴
(2017年11月研究機関研究員着任)

こんなことを書いてしまうと,着任早々退任しなければならなくなるかもしれません。私は語学がまるでダメです。ケニアのナンディ県に所在する初等聾学校に住み込んでいくらか経ってから,聾学校のスタッフにこんなことを言われました。「ユタカはここに来たとき,英語すらしゃべれなかったよね」。これは決して過去形ではなく,今も自在に操れるわけではありません。しかしそのとき続けて「今では英語もスワヒリ語もナンディ語も,そして手話もできる」と言われたのです。

私は言語をうまく運用できないにもかかわらず,彼らと一緒に暮らすことができたのはなぜなのでしょうか。上述の言葉を「社交辞令」として片づけるのはたやすいけれど,私は一体何ができるようになっていたのか,そんなことを日本に帰ってから考えるようになりました。

考え始めると今度はあれもこれも関連しているような気がしてきました。いじめに遭ったことを家族にこう訴えたとしましょう,「××ちゃんに・・・と言われた」。でも,「そんなことを言われたくらいで」と慰められモヤモヤした辛い気持ちが続いてしまうのはなぜなのでしょうか。通所施設を利用していたいわゆる「知的障害者」とされる女性と1日一緒に過ごした翌日,私は職員の方に「◯◯さんは,昨日とても楽しかったみたいだと家族が話していた」と言われましたが,彼女と私との間に何が起きていたのでしょう。認知症の人同士の「偽会話」と呼ばれる現象では,「各自が好き勝手にしゃべっている」(「意思疎通」は全くできていない)けれど,お互い相槌を打ちながらいかにも楽しそうに会話が展開するようですが,そこでは何が起きているのでしょう。

そもそも,複数人が居合わせた場においては言葉でのやりとり以外のことがたくさん起きているはずです。それを,コード・モデルの言語世界を前提にして分析するのではなく,その場に居合わせた身体群の共振として捉えてみよう,というのが私の研究テーマです。

具体的には,日頃からダンスをダンスとして練習することがほとんどないなかで,音に頼ることのないケニアの聾の子供たちはいかにして複数人一緒におどってしまえるのかについて探究しています。特に「ケニアの聾の子供たちがおどっているときに何が起きているのか」に着目しながら,現地で撮影したビデオデータに基づきヴィジュアルな表現/分析を積み重ねています。その際,子供たちのその営みをダンスとして日常生活から切り離すのではなく,「身体の動き」に着目し日常会話の展開の仕方などとの比較を行っています。

音声言語である以前に「声」であり,手話言語である以前に「手の動き」であり,そしてそれらをいつも取り巻く顔・身体の動きがある,そのような視点で研究に取り組んでいます。「おどる」事象から「話す」事象を眺め直したら何が見えてくるのか,考えていきたいと思っています。


Copyright © 2010 Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa. All Rights Reserved.