日本人来賓と共に「バンザイ」をする在京タタール人(1934年6月)
小野 亮介
(2024年4月研究機関研究員着任)
私はロシア革命など20世紀前半の政治的変動により亡命者や難民として中央ユーラシア各地から流出したテュルク系の人びとに関心を持って研究をしてきました。当初よりトルコやヨーロッパに逃れた人びとを研究の主題としていますが,日本や満洲でコミュニティを築いたタタール人についてもここ数年取り組んでいます。
これまでも在日・在満タタール人については様々な研究がなされてきましたが,彼ら自身による定期刊行物は十分に活用されてきませんでした。ある時,奉天で発行されていたタタール語紙『民族の旗』(1935-1945)を読むことになりました。一つ一つの記事は短いながらも,日本や満洲で宗教的・民族的マイノリティとして暮らした彼らの等身大の姿を伝えるものばかりで,その魅力に一気に引き込まれました。
『民族の旗』では極東各地からトルコへ移住した人びとに関する記事が散見され,その中にはコミュニティのメンバーが駅や埠頭での見送りの際,タクビール,つまり「神は偉大なり」と斉唱した事例がいくつかあります。トルコやロシアの研究仲間に尋ねてみましたが,同様の慣習が今でも残っているのかはっきりしません。トルコでは兵士を見送る側がタクビールを唱えることが今でもあるようですが,上記の事例と起源を同じくするテュルク的・イスラーム的慣習なのか偶然の一致なのかはわかりません(他地域・他民族も含め類例をご存知の方はご教示ください)。そこで私が考えたのが,極東で日本人と関りを持つ中で日本人の作法を真似た,つまり彼らなりのやり方でホスト社会に適応しようとしたのではないかという可能性です。
しかし問題はそれほど単純ではありません。『民族の旗』のグループと敵対関係にあった東京のタタール人コミュニティが刊行していた雑誌『新日本通報』(1932-1938)では,彼らがタクビールではなく「バンザイ」そのものを実践している事例が確認されます。在京タタール人は日本人の来賓があった時はバンザイをする傾向にあったようです。日本人の視線を意識してそうせざるを得なかったのかもしれません。更に同誌には,紀元節当日の集会でタクビールが3度唱えられたという記事があります。もちろんこれが万歳三唱の置き換えとして昭和天皇に捧げられたものであることは明白です。この集会に日本人は参加していなかったようですが,にもかかわらず在京タタール人はクルアーンが禁じる多神崇拝(4章48節など)に手を出したことになります。
解釈は容易ではありませんが,いずれにせよこれらの事例は,『民族の旗』と『新日本通報』が映し出す,そして日本人側の視点からは窺うことのできない在日・在満タタール人の諸相のごく一部に過ぎません。これらの定期刊行物を足掛かりとして,極東におけるタタール人のあり方とその意義を多面的に考察していきたいと考えています。なお本エッセイの内容は2025年に英語論文として刊行される予定です。
Copyright © 2010 Research Institute for Languages and Cultures of Asia and Africa. All Rights Reserved.