共同研究プロジェクト
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タイ文化圏における山地民の歴史的研究

      ―総合的概念を確立するための手法開発
研究実施期間 : 2006年度〜2010年度

主査  ダニエルス・クリスチャン

概要

 中国西南部から大陸東南アジア北部に跨がるタイ文化圏の歴史においては、タイ系民族の盆地政権がその周辺の山岳地帯に居住する山地民を緩やかに「統治」した。19世紀以降、タイ文化圏は中国、ミャンマー(ビルマ)、タイ、ラオス、ヴェトナム及びインドの六ヶ国に組み込まれて、盆地政権は消滅した。盆地政権の領民はこの六つの近代領域国家に同化を強要されはしたものの、タイ文化圏はなお存続している。これまで研究者は、盆地政権中心にこの地域全体の歴史を再構築してきたが、山地民が盆地政権の存続を揺るがす存在であるにもかかわらず、山地民の歴史的役割を重要視してこなかった。本プロジェクトの目的は山地民の歴史的役割を明らかにして、その役割を総合的に概念化することによってタイ文化圏の歴史的形成を再解釈することである。

 このような再解釈によって、これまでタイ系民族側から叙述されたタイ文化圏の歴史がもっと公平に見られるようになると期待できる。これまで山地民が果たした歴史的役割を重視しなかった理由としては、以下の二点が挙げられる。第一に歴史家は、この六ヶ国における近代国家の建国に貢献した文化や民族が果たした役割を強調する視点から歴史を再構築してきたが、山地民は貢献度が少ないため等閑視されてきた。第二に、研究者は各民族集団の固有な文化と歴史の解明を目的に、個別的に研究してきたため、山地民が共通に経験してきた歴史という視点が見落とされてしまった。夥しい数の民族集団が居住する地方はそれぞれ異なるが、その歴史体験の共通性を明らかにする視点を採用する手法によって、タイ文化圏の歴史に対する統一的な理解を深化させることを、本プロジェクトは目指している。
 山地民の歴史研究には史料的な制約があり、先行研究も乏しいため、プロジェクトの運営上以下のような措置をとる。山地民の多くは自己の文字を有しないので、盆地のタイ系民族や、中国とビルマ王朝の史料、及び西洋人など、外部の人間の手による資料に依存せざるを得ない。そのため歴史学者以外にも言語学や文化人類学などの専門家の参加によって学際的なアプローチを採用する。さらに、一年目ではコアメンバーの共同研究員で、山地民の歴史を構想する枠組みを作り上げ、二年目以降その枠組みに沿う形で共同研究員を増やして研究を進行させる。なお、本プロジェクトは、昨年度から開始された科研費基盤研究B「言語・文化調査に基づくパラウン史の解明」と連携し、現地調査を踏まえた事例研究の分析も行なう。


2006年度

 
研究会

2006年度第3回
日時 : 2006年9月30日(土) 14:00-18:00
場所 : AA研セミナー室(301室)
プログラム :
 樫永真佐夫(国立民族学博物館助手)
  「他者として表象される山地民―黒タイ語資料と現地調査からの分析を中心に」
 ダニエルス・クリスチャン(AA研)
  「来年度の企画について」

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2006年度第2回

日時 : 2006年7月23日(日) 14:00-18:00
場所 : AA研セミナー室(301室)
プログラム :
 片岡樹(目白大学人文学部非常勤講師)
  「19世紀中緬辺彊地域の「ラフの国」について―清朝期雲南のチベット・ビルマ語系山地民の政治統合の一例として―」
 ダニエルス・クリスチャン(AA研)
  「13世紀〜17世紀におけるモン・クメール系民族の政権―メコン河以西の事例」

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2006年度第1回
日時 : 2006年4月15日(土) 14:00-18:00
場所 : AA研セミナー室(301室)
プログラム :
 ダニエルス・クリスチャン(AA研)
  「本プロジェクトの趣旨説明」
  「13世紀-17世紀におけるモン・クメール系民族の政権−サルウィン河以西の事例」

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【報告の要旨】

2006年度第1回(4月15日)

1.13〜17世紀におけるモン・クメール系民族の政権―メコン河以西の事例

 この度の研究会の共通課題は山地民の政権であり、本発表では、事例として雲南西部において13世紀から17世紀の間栄えたモン・クメール民族による政権を取り上げた。19世紀以来研究者は、焼畑を営む山地民の「しょぼくれた」様子を目の当たりにして、山地民が政権を運営する能力に欠けていると考えがちで、山地民が自身の政権を有した時代など想定しないで来たきらいがある。これはタイ文化圏の歴史を再構築する妨げとなっている。本発表においては、史料が断片的ではあっても、山地民が政権を建てた事例を提示することによって、山地民が果たした歴史的役割を少しでも明らかにすることをめざした。歴史的に政権を営んだ史実は、山地民の自己のエスニック・アイデンティティの象徴にもなるので、現在的な意味もあると考えられる。
先ず、従来の研究において、地域のidentityの指標として政治組織に関する議論を概観する。1954年にリーチが提示したgumsaとgumlaoという二つの政治組織の概念を紹介し、1982年Nugentが、リーチのgumsa/ gumlao周期説が成り立たないと論じた批判を検討する。しかし、歴史事実として中国西南部において、gumlaoが盟約による社会組織として、また、gumsaが非漢族による政権、タイ系民族のムン政権や中国歴代王朝によって任命された土司・土官としてそれぞれ存在したことを指摘する。
本発表で明示するように、13〜17世紀のモン・クメール系民族の政治権力はいずれも雲南西部に位置していたが、それを詳述する前に、13世紀以前にも、同じ地域でモン・クメール系民族の政権があった仮説を提示する。それは『南詔圖傳』図像巻・文字巻を利用して、「忙道の大首領李忙霊」はモン・クメール系民族の首領であるとの推定による仮説である。図に銅鼓を叩く場面があるが、銅鼓は村人を集める用途に使用されているので、盟約による社会組織の象徴として描かれている。このような社会組織は、款という誓約行為を通じて村落と村落の同盟関係を結ぶこともあったが、これは原理的には王朝国家ほどの政治的安定性を保全できなかった。現在、中国政府が公式認定モン・クメール系民族としてワ族(Wa)、プラン族(Plang布朗)及びドゥアーン族(De’ang徳昂)があり、さらに帰属未確定エスニック・グループとしてクム人(Kemuren克木人)マン人(Mangren莽人)がある。「忙道の大首領李忙霊」は、この広義でいうモン・クメール系民族に属していたと推定される。
13〜16世紀の間に政治権力を運営していたモン・クメール系民族は明王朝の史料で蒲蠻、蒲人や蒲などと表記されているが、中国の研究者はそれをプラン族とドゥアーン族の両方を指す総称としている。これらの政権は現在の保山県、施甸県及び鳳慶県に位置していた。元王朝が統治をしていた1330年代において、蒲蠻の政権は永昌の南窩、枯柯甸、祐甸及び慶甸と漢字表記されていたが、明王朝になるとこれらは五つの政権となって土官として中国の間接統治下に組み込まれた。すなわち、順寧府土知府(「慶甸」)、施甸長官司土官正長官、鳳谿長官司土官正長官、甸頭巡検査司土巡検及び水眼巡検査司土巡検である。
  蒲蠻の政権は自身の史料を残していないが、断片的な中国史料から以下の政権の特色が窺える。第一に、世襲の首領(酋長)が存在し、その首領は刑罰を与える権限を有する。第二に、首領が鉄鋤の生産・管理を把握していることから、その権力は金属・鍛冶技術と関係があると推測される。 第三に、首領は兵を動員することができた。第四に、首領は明王朝に協力的であった。蒲蠻は、1582〜1584年の対ビルマ作戦で明王朝の間諜として活躍した。以上から、蒲蠻の政権はGumsa(階層的な社会)であったと推測されるとの暫定的な結論が出された。                                 (唐立)

2.19世紀中緬辺疆地域の「ラフの国」について
  ―清朝期雲南のチベット・ビルマ語系山地民の政治統合の一例として―

 華南・東南アジア大陸部における民族分布の特徴のひとつが、平地と山地との民族の住み分けである。これは一般的には、平地(山間盆地)に文字文化や国家を有する民族が居住し、周辺の山地にはそれらをもたぬ山地焼畑民が居住するというパターンをとる。その限りでは、山地民とは国家や文明の対概念であり、事実これまでの研究ではそう論じられてきた。ただしこの二項対立図式からはみ出してしまう事例も多い。それはたとえば、平地国家から相対的に自立し、それと拮抗するような政治統合が山地で形成されるような場合である。本報告ではそうした例として、19世紀雲南西南部でのラフの政治的自立化を考察する。
 20世紀に採録されたラフの神話伝説は、彼らがかつて自らの王や国をもっていたが、異民族によって滅ぼされてしまったというモチーフを示している。これは平地国家権力の対比の上で自らを「国家と王をもたぬ民族」と位置づける論法の典型である。ではラフの人々が語るかつての「ラフの国」なり「ラフの王」がどのようなものであったのか。またそれはどのように成立し、解体されてきたのか。
 地方志等の記述からは、ラフの政治的自立化は19世紀に急速に進展したことが明らかになる。それを支えた主な要因は、18世紀以来の雲南西南部への漢人の流入と、猛猛、孟連などの盆地シャン土侯国(土司)の弱体化である。その過程を通じ、漢伝大乗仏教の受容や「漢奸」たちとの勾結により、ラフはシャン土司の統制を離れ、むしろ武力においてそれを凌駕するまでに至るのである。ただし、まさにこうしたシャン、漢人、山地民相互の勢力バランスの変化が、辺疆地区での政情の悪化を危惧する清朝の直接介入を誘発していく。嘉慶期や光緒期にくり返されたラフ山地の政治的自立化と清朝の直接介入は、そうしたサイクルをたどりつつ展開されてきた。
 以上の経緯が示しているのは、ラフは歴史を通じ「国家なき隷属民」であり続けたわけではないが、しかし「ラフの国」なる政治統合体があらかじめ存在し、それが異民族の干渉によって滅ぼされたのだとも言いきれないということである。現在の視点から言及される「ラフの国」とはむしろ、漢人の影響力の拡大が盆地シャンと山地ラフとの主従関係を流動化させるなかで、「漢奸」勢力との同盟によって形成されてきたものとみることができる。こうした政治権力が近代国家の成立過程で解体され、そこでようやく成立したのが、現在みるような「亡国の民」という自己規定である。(片岡樹)

各報告の後、活発な質疑応答が行なわれた。資質はラフ族とモン・クメール政権のあり方など詳細な点に集中したが、その後これからのプロジェクトの進み方に関する討論があった。その討論の中において、共同研究員から、両報告が対象とする時代が異なっている上に、山地民自身が残した史(資)料が非常に少なく、その史料だけで山地民の政権の歴史的性格を明らかにすることには自ずと限界があるという意見が出た。今後、他者、つまりタイ族、中国やビルマ王朝の史料も検討してみるべきとの発言が多かった。山地民に関する研究プロジェクトは立ち上がったばかりであり、今後の研究の方向性を探るために様々な角度から山地民の歴史と文化を考えていく必要がある点が確認された。   (唐立)



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プロジェクト・メンバー
[主 査] ダニエルス・クリスチャン
[所 員] 中見立夫、新谷忠彦、陶安あんど
[共同研究員] 飯島明子、樫永真佐夫、片岡樹、加藤高志、小柳美樹、山田敦士