共同研究プロジェクト
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「植民地責任」論からみる脱植民地化の比較歴史学的研究
研究実施期間 : 2004年度~2006年度

主査  永原 陽子

概要
 本プロジェクトは、ヨーロッパ諸国とアフリカを中心とする旧植民地との歴史的関係において、植民地支配および奴隷貿易のもたらした損害に対する補償や謝罪の問題が双方の当事者の間でどのように論じられ扱われてきたかを検討することをつうじ、脱植民地化過程の段階・特質を明らかにすることを目的としている。そのさい、日本=アジア関係などを念頭においた比較史的観点を重視しながら、戦争責任論の中から生まれた「人道に対する罪」概念を援用し、「植民地責任」概念を提起しようとしている。アフリカにおける植民地支配はその前史としての奴隷貿易の歴史と不可分であるため、「植民地責任」概念は、必然的に、奴隷貿易の歴史にもかかわって敷衍されることになる。最終的には、この概念を用いて近代世界史の構造の中での脱植民地化過程とそれをめぐる歴史認識をアジア・アフリカの側から照射することを目指している。

 本プロジェクトは、研究所のすすめる三つの研究内容のうち、「地域生成に関する研究」にかかわるものであるが、「地域」を一つの限定された領域としてではなく、関係性の概念としてとらえようとしている。近年の旧植民地地域からの「補償要求」などの運動は、当該地域の人々の植民地支配の歴史についての認識を示すものであり、それは旧植民地領有国における歴史認識との相互関係の中で形成されている。本プロジェクトは、アフリカ旧植民地を中心に据えつつ、日本=アジア関係を重要な参照枠とすること、また奴隷貿易をも射程に入れた長期の歴史的視点をもつことで、従来の地域研究でともすれば後景に退きがちだった世界史の構造の問題に意識的にかかわり、また現代世界の中で具体的な解決を求められているテーマについて、歴史学的な立場から認識を深めようとするものである。
 そのような意図から、本プロジェクトではアフリカ史研究者、ヨーロッパ帝国史研究者、ラテン・アメリカ史研究者、日本・アジア史研究者を糾合した「地域研究」の新しいスタイルを試みている。また、若手研究者、とくにPD層から大学院生を含む研究者を目指す人々を中心に組織し、プロジェクトをつうじて若手研究者を育成しつつ新しい共同研究の成果を挙げることを目指している。
 本プロジェクトは科研費プロジェクトを兼ねており、年4回の研究会のほか、共同研究員の現地調査も平行して進めている。最新の現地調査の結果を持ち寄って研究内容を豊かにすることは、本プロジェクトの重要な内容である。最終的には、成果を商業出版で公表することを目指している。



2006年度


研究会

 2006年度第4回(予告)
 日時 : 2006年12月10日(日)

 2006年度第3回
 日時 : 2006年10月14日(土) 13:30~18:00
 場所 : AA研マルチメディアセミナー室(306室)
 プログラム :
   小山田紀子(新潟国際大学)
   「アルジェリアの独立と引揚げ者の歴史―脱植民地化とフランス・アルジェリア関係―」
   前川一郎(創価大学)
   「イギリス植民地問題終焉論と脱植民地化」
 
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 2006年度第2回
 日時 : 2006年7月15日(土) 13:30~18:00
 場所 : AA研マルチメディアセミナー室(306室)
 プログラム :
  津田みわ(アジア経済研究所)
   「ケニア植民地解放闘争と補償問題―元「マウマウ」闘士による英国提訴」
  渡辺司(共同研究員、東京農工大)
   「アルジェリア戦争と脱植民地化―エヴィアン交渉を中心にして―」

 共催:科研費基盤研究B 『植民地責任』論からみる脱植民地化の比較歴史学的研究」

【報告の要旨】

1.ケニア植民地解放闘争と補償問題―元「マウマウ」闘士によるイギリス提訴

イギリス植民地期のケニアでは、「マウマウ」と呼ばれるキクユ人武装組織が誕生し、1950年代前半から、白人入植者と親植民地派のアフリカ人に対するゲリラ闘争を開始した。イギリス側は、正規軍5万人、戦車、爆撃機などを投入し1959年までに軍事的勝利をものにしたものの、白人入植者の死者は90人を超え、6万ポンド(ケニア植民地予算の4年分に匹敵する)という巨額の戦費支出を余儀なくされた。「マウマウ」による苛烈な反植民地闘争は、ケニアを早期の独立へと導く主因の一つとなったといってよい。
その「マウマウ」――植民地期には「ケニア土地自由軍」が自称だったといわれる――の元闘士による集団対英訴訟がこの数年でにわかに現実味を帯びつつある。元「マウマウ」闘士の団体が、イギリス人弁護士を雇用し、イギリス政府を相手取って、植民地期の捕虜の待遇に関するジュネーブ条約違反への補償を求める訴訟を準備しているのである。なぜこの2000年代という時期になって、提訴の動きが本格化しているのだろうか?
その重要な背景として、第1に指摘できるのは、ケニア政府側の「マウマウ」に対する姿勢の転換である。1963年の独立以来、歴代のケニア政権は「マウマウ」について、独立に貢献した団体としてプラスに評価することを回避してきた。親植民地派の流れをくむ初代大統領ケニヤッタは、「マウマウには逮捕されることを怖れて森に逃げ込んだ犯罪者が含まれている」などと述べて「マウマウ」を解放闘争の担い手と承認せず、元闘士を一貫して冷遇した。植民地政府による「マウマウ」非合法化(1952年)は、独立後もいっこうに解除されなかった。この姿勢は基本的に第2代大統領モイ(1978年就任)にも踏襲された。
ところが、2002年の総選挙で誕生したキバキ政権は、「マウマウ」をむしろ積極的に評価する姿勢をとってきた。総司令官とされる元闘士(故人)の名誉回復のための再埋葬計画を発表したり、司法大臣などがイギリス政府に対し「マウマウ」弾圧への謝罪と補償金支払いを求めたのはその一例である。提訴との関連では、2003年8月に「マウマウ」非合法化が正式に解除され、11月に元「マウマウ」闘士の団体の結社登録申請が受理されたことが特に重要である。これにより独立後初めて「マウマウ」が団体として合法的に活動することが可能になった。
対英訴訟の動きの第2の背景として、50~60年間の非公開資料とされた「マウマウ」関連資料が次第に公開される中で、2000年代になってケニア植民地統治を再考する研究成果が次々と出版されたことが指摘できる。その代表がC.エルキンスの『Britain’s Gulag: The Brutal End of Empire in Kenya』(2005年)である。エルキンスは、「マウマウ」弾圧のためにおこなわれたイギリスによる組織的な拷問、強制労働、劣悪環境下の長期拘束などを、歴史学の手法を使って丁寧に跡付けており、ピュリッツァー賞を受賞するなど同書は大きな話題となった。ケニアでも彼女の本の出版記念パーティがキバキ政権閣僚を招いて盛大に開催され、席上、副大統領がイギリスに対しケニアへの謝罪を求めたほか、司法大臣がイギリスに対し、元マウマウ闘士とその家族に補償金を支払うべきだと発言している。植民地支配における拷問の問題が、時を経て脚光を浴びただけでなく、あらたな資料的裏付けを獲得しつつある。
最後に、対英訴訟の背景としてもう一つ指摘すべきであるのは、対英訴訟を引き受けている在英弁護士事務所リー・デイ社Leigh Day & Coの動きである。同社のウエブサイトでは、1999、2000年にドイツとイギリス政府を相手取り第二次世界大戦時の強制労働に対する補償金の取り付けに成功したといった業績が高らかに宣伝されている。同社をケニアで一躍有名にしたのは、ケニア北東部での不発弾被害訴訟であった。2002年7月にリー弁護士(同社のシニア・パートナー)がイギリス政府から取り付けた補償金は、軽傷でも一人1,500ドル(ケニアの貧困層にとっては年収に匹敵する)、手足切断には46万ドルという巨額なものであった。数ヶ月後の10月、リー弁護士は、イギリス人兵士によるケニア人女性レイプ問題の訴訟を引き受けている。元「マウマウ」闘士の団体(当時はまだ非合法)がリー弁護士を対英訴訟のために雇用したのはその翌月だった。リー・デイ社の存在が、「マウマウ」による対英訴訟の具体化に及ぼした影響を無視することはできない。
「マウマウ」が評価を受けることなく無視されてきたという経緯は、独立後ケニアの政治における消えないシミであり続けてきた。キバキ政権による「マウマウ」非合法化取り下げと、「マウマウ」元闘士による対英訴訟の行方は、ケニア独立運動史における武力闘争の再評価につながるのはもちろんのこと、独立後の政治・経済運営への批判を再燃させる強力な論拠となる可能性さえ持つ。にもかかわらず、訴訟が「不発弾問題で巨額の補償金を取り付けたリー・デイ社と組んだ元『マウマウ』」という体裁で進められつつあることで、そのような歴史の再認識の可能性をよそに問題が金銭に「矮小化」されかねない状況がつくられている。すでに元「マウマウ」団体と関係のない集団が、10,000シリング(約15,000円)もの大金を「マウマウ訴訟団への登録金」として集金する事例が報告され始めている。今後も金銭が重要なファクターとなりつづけるのか、あるいは同時に「マウマウ」再評価や歴史の書き直しといった動きが顕著になっていくのか――訴訟が実現されるかどうかを含め、今後も事態の推移が注目される。  (津田みわ)


2.アルジェリア戦争と脱植民地化―《エヴィアン交渉》を中心にして―

(ⅰ)「はじめに」でまず報告にあたっての問題意識と課題の限定を行った。なぜアルジェリアでは旧宗主国との関係で、例えばハイチのように「植民地責任」や賠償問題が鋭い形で提起されないのか?今日フランス=アルジェリア関係はむしろその対極にあって、フランスを特権的パートナーシップとする友好条約の調印の動向がみられたり、大規模な投資の受け入れが行われたりしている。
 この落差の解明には旧宗主国からの独立のありようの差異に着目する必要がある。予め、理論仮説を立てるとすれば、アルジェリアの独立は、民族解放闘争史観にいう武力抵抗運動の勝利による<完全独立=分離>といったものではなく、むしろ外交交渉を通じた<独立プラス協力>という規定によって総括されるものであった。エヴィアン合意の射程は、たんなる停戦の追求だけでなく、独立主権国家として経済協力関係の維持を行うことにあった(焦点の一つは言うまでもなくサハラの石油問題であったが、ここでの経済協力は従属関係の再生産を行うことをも意味した。)そしてアルジェリアは独立後も資金援助をフランスから受けており、今日「賠償」を要求したりする立場には必ずしもない。戦争末期(1961~62年)におけるエヴィアン交渉への着目は以上の点から行われなければならない(40年ぶりに公開・公刊された外交文書によってこの過程への内在が可能となった。本報告もこの文書の活用によって行われた。)またこの<合意>は停戦を可能としたが、協力関係の確立はFLN内部での対抗勢力の胎動によって果して実現されえたのか。以上の点を歴史的に検証する必要がある。

(ⅱ)エヴィアン交渉の展開――交渉の開始の契機となったのはドゴールのかの「自己決定(自決,autodetermination)」演説であったが、この演説後ドゴール=ドゥブレは「フランスのアルジェリア」から「アルジェリア(人)のアルジェリア」へと軸心を変化させており、フランスとアルジェリアとの「連合」ないし「協調」を模索していた。第一次エヴィアン会談は、1961年5月から行われたが、ドゴールの先の演説をめぐる理解も異なり、民主的な選挙の方式と解釈するフランス側と人民の自決権(→独立)と考えるアルジェリア側とで理解の差異が見られたが、以降の会談では両者のすり合わせにより、<独立+協力>という定式=合意に至ることになる。サハラの石油に関して、領土の一体性を主張するアルジェリア側とサハラをアルジェリア北部と切り離そうとするフランスとの間で主権論争が活発に行われた。交渉は一次会談で平行線をたどったため、1961年7月以降ルグリン会談が行われた。そこでは、ジョックスとクリムの間で平和と協力をめぐる争点が明らかにされた他、トリコによる「自決」の保障と適用領域に関する発言、ロテン・ブリコールによる「協力」概念の具体化、ジョックスによる発言(主権は我々にとって最重要な問題ではない。両者の友好関係を通じた富の開発の問題が最重要。)などが注目される。次いで両者の溝を埋めるためロビー活動を含めたルッスの秘密会談があり、その性格からいって議事録は残っていないが、その後のエヴィアン合意の骨格はこのプロセスですでに確認されていた。
 第二次エヴィアン会談(1962年3月)ではそれを前提にして、「自決」の具体的段取りに終始し、<行政のアルジェリア化>、<警察のアルジェリア化>等を通じて地方勢力への対応を行った。「合意」の最終版は、原則宣言(独立+協力)を行った後、諸領域での協力関係の具体化がなされ、財政、経済協力では、アルジェリアの社会・経済発展へのフランスの寄与、貿易に関してはフランスは二国間の協力関係に照応した特別な地位を享受するとされた。そしてサハラの天然資源の開発に関する協力では、アルジェリアの主権の範囲内で、両者はサハラの天然資源の開発を継続すべく協力を行う、とされた。即ち、サハラに対する主権がアルジェリアに保障されたのである。

(ⅲ)エヴィアン合意への批判と「トリポリ綱領」――エヴィアン交渉を行ったB.クリムを含め代表団はFLN内の臨時共和国政府派であった。他方国外にいたベンベラや軍参謀ブーメディエン等、後に党政治局を形成するグループはトリポリで全国革命評議会を開催し、トリポリ綱領と呼ばれることになる「人民民主主義革命の実現のための綱領」を満場一致で採択し、激しいエヴィアン合意批判を行った。後者は「合意」は「新植民地主義の綱領」、「フランスの支配の新しい形態」であり古典的植民地主義を新植民地主義へ交換するもの(例えばコンスタンチーヌ・プラン)であるとした。そしてアルジェリアの二重の性格(植民地国+半封建的国家)を踏まえ、人民を主体とする社会主義の実現を主張し、権力の人民による掌握により、国民経済の樹立の必要と二元的植民地経済の克服を主張した。そして何よりも農地改革や農業の近代化等を提案した。

(ⅳ)エヴィアン交渉は実現されたのか? ――アジュロンの時期区分によりつつ、1962年~69年のドゴール在任の期間フランスは協力依頼に基づき援助を行ったことを明らかにした。1962~63年の時期は、アルジェリアの対応と補償なき国有化に失望、1964~65年の時期には、若きブーテフリカが、ドゴールとベンベラの間を取りもち工業化と石油問題での交渉は続く。1965年7月~69年4月は、「合意」に批判的であったブーメディエンの登場。後者はフランスの援助は社会主義建設の足かせになると主張したが、ブーテフリカの仲裁でもって困難な交渉は続けられた。アルジェリアは多様な要求(アルジェリア移民の増大、フランスの協力者の地位、アルジェリアぶどうの輸入増大…)を出していった。しかし、ブーメディエンは、1966年5月フランスに属する鉱山、保険会社等の国有化を行い、1971年2月にはフランスの石油権益の国有化に踏み切る。それはドゴールによって望まれた特権的な協力関係に終止符を打つものであった。            

(渡辺 司)


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 2006年度第1回
 日時 : 2006年4月15日(土) 13:30~18:00
 場所 : AA研マルチメディアセミナー室(306室)
 プログラム :
  舩田クラーセンさやか(東京外国語大学外国語学部)
   「ポルトガルにおける『植民地戦争』への眼差し」
  永原陽子(AA研)
   「2年間の共同研究の到達点と今後の研究会の方向について」

 共催:科研費基盤研究B 『植民地責任』論からみる脱植民地化の比較歴史学的研究」

【報告の要旨】
1.2年間の共同研究の到達点と今後の研究会の方向について

 第3年度(最終年度)最初の研究会にあたり、これまでの到達点と今後の見通しについて、主査から報告を行なった。
 「植民地責任」の概念は、本プロジェクトの構想段階ではあくまでも試論的に打ち出したものであったが、この間、世界の各地で植民地支配の歴史をめぐって起きている様々な現象は、この概念がそれらの問題をとらえる上で有効であり当を得たものであったことを示している。実際、”colonial responsibility” ”colonial guilt”という、数年前までは耳にすることのなかった言葉が、かつて植民地であった地域の人々によって使われる例が見られるようになってきている。
 植民地支配の「責任」をめぐる問題を最も目に見えやすい形で表わしているのが、植民主義の被害に対する補償を旧宗主国やその企業に求める訴訟である。代表的には、100年前の植民地戦争における大量虐殺の被害についてのナミビアの「ヘレロ」の訴訟、ケニア独立期の「マウマウ」運動の元闘士たちによる対英訴訟の動きがある。また、植民地支配の直接の前史としての奴隷貿易・奴隷制にかかわるものとして、ハイチの元大統領による対仏賠償金(独立時にフランスに奴隷主への「補償」として支払われた賠償金)の返還要求も挙げることができる。これらの動きの背景には、世界の各地で進んでいるマイノリティの権利の回復(カナダ、アメリカ合衆国、オーストラリアなど)や、ホロコースト被害者への補償の拡大、また、国際人道法の広がり(たとえばジェノサイド条約の締結、国際刑事裁判所の設立)などがある。フランスの場合には、最近の植民地支配の歴史への取り組みが、ナチス犯罪の追求の副産物として生まれてきた、という直接的なつながりが研究会の中でも確認されてきた。
 
これらの事例を通じてわかることは、植民地支配の被害の問題が、戦争犯罪の問題と不可分の関係のものとしてとらえられおり、戦争責任論の歴史的展開の中で積み上げられてきた論理を重要な手がかりとすることができる、という点である。しかし、同時に、そのようにしてとらえられるのは植民地主義の歴史の一部にすぎず、「植民地責任」概念の射程について、より立ち入った検討が必要であることも明らかである。国際人道法等の法的基準によって扱うことのできるのが、その制定以後の時期の対象に限られる、という時間的制約は言うまでもないが、そればかりでなく、「被害」と「加害」の因果関係についての証拠に基づく証明、という手続きそのものがもつ限界を意識しないわけにはいかない。語るべき言葉や手段を持たない人々、「訴える」ことを可能にする教育的背景等において不利な立場におかれた人々の問題、すなわち階級・階層やジェンダー、民族的マイノリティ等の問題を考慮に入れるとき、また、個別の極端な「人権侵害」ではなく、体制として日常化された植民地状況を考えるとき、法的回路がその制度上の公平性にもかかわらず、ある種の排除の仕組みとなっていることも否定できない。
 私たちが「植民地責任」を歴史学上の概念として提示しようとするとき、それは、現代の国民国家や国際政治の制度的枠組みの中で承認されうる「被害」と「加害」を論じることが目的なのではなく、植民地主義の歴史を、当事者たち(植民地とされた地域の住民も、宗主国の国民も、また単純にどちらかに分類できない立場の人々も含め)がどのように認識しているかに着目して捉え直すことを目指しているのである。それは換言すれば、脱植民地化の過程を、歴史主体の問題として分析するということである。

 以上のように考えるならば、これまでの研究の中で取り上げられてきた奴隷貿易・奴隷制の歴史をめぐる問題も、「植民地責任」論の重要な要素であることは明らかだろう。国際法の歴史性そのものを問題化し、植民地化された地域からその考え方を根本から覆すことの重要性を一方で意識しつつも、私たちの課題は、むしろ、現在の国際法ではおおよそ議論の対象となり得ない、奴隷貿易や奴隷制の歴史にまで遡って非対称的な世界の歴史を主体的にとらえる視点を歴史学の問題として切り開いていくことであり、今後の共同研究においては、とくにその点を意識しながら進めていきたい。
 なお、本共同研究の提示した「植民地責任」概念と内容的にはほぼ重なるものとして、最近の東アジア研究の中で定着しつつある「植民地支配責任」概念がある。これらの用語とその内容についても、拙速に統一を図ることなく、引き続き検討の対象としていきたい。 (永原陽子)


2.ポルトガルにおける植民地認識―「Guerra Colonial (植民地戦争)」を中心に―
 報告者は、次の(1)から(4)について研究報告を行った。(1)ポルトガル植民地支配の特徴、(2)ポルトガル領アフリカの脱植民地化過程の特徴、(3)「Guerra Colonial(植民地戦争)」とは?、(4)現在のポルトガルにおける植民地認識の傾向である。
 
まず、(1)では、日本で一般に語られてきた「ポルトガルの海外進出は、商業的で平和なものであった」という神話が、実態とは乖離したものであることについて紹介した。つまり、15世紀に始まったポルトガルの「大航海時代」は、イベリア半島対岸の北アフリカ地域(現モロッコ近辺)への領土拡張を目的とする軍事侵略を契機としたものであったことを紹介した。そして、小国ポルトガルにとって、①非キリスト教地域への進出は、国家統合を推進するためにも、騎士団の資源獲得のためにも不可欠なものであったこと、②建国の14世紀の時点から、ポルトガルは海外領土に依存した形で国家運営を行ってきたことを指摘した。以上の点は、大航海時代を切り開いたとされるエンリケ航海王子が、そもそもはモロッコの侵略で名を馳せた人物であり、ポルトガル騎士団団長であったということによって象徴される。
 
つぎに、(2)については、「ポルトガル人はアフリカに一番早く来て、一番遅く撤退した」といわれるように、ポルトガル植民地帝国解体は長引き、戦争を伴ったものであったことを説明した。ポルトガルが、他の植民地保有国と比べてアフリカから最も遅く(1975年に)撤退した背景には、1930年代に本国で成立した独裁政権(サラザール政権)の影響が大きい。本国と植民地を一体化させることによって本国の経済的危機を回避してきたサラザール政権は、経済的にも政治的にも植民地を手放すことはできなかったのである。また、脱植民地化を目指す植民地住民の運動が、ポルトガル植民地支配に特徴的であった意図的な教育の遅れや秘密警察を利用した政治的弾圧によって、アフリカのどの植民地よりも遅れたことについても指摘した。
 (3)については、本国独裁政権のあり方として「植民地の死守」が政策的選択肢として不可避であったことが、ポルトガル領の植民地下の住民の運動を武力闘争に転化させたことを説明した。その結果戦われた戦争は、ポルトガルでは「植民地戦争」と呼ばれ、現在でも決して「植民地解放闘争」あるいは「武装闘争」とは呼ばれないことを紹介した。
 現在のポルトガルの植民地認識を考える際には、この「植民地戦争」の影響を無視するわけにいかない点について、(4)で検討した。なぜなら、本国の若年層の男性のほとんどが植民地の戦場に向かい、本国出身の兵士の実に
6000人近くが命を落としたである。戦争の悪化と、植民地帝国の解体により、1970年代以降にポルトガルに帰還したポルトガル入植者らの存在も、植民地認識を「植民地戦争」の経験に結びつける役割を果たした。つまり、ポルトガル植民地支配と現在の間をつなぐもの、それがこの「植民地戦争」であり、「植民地戦争」に関する認識が、ポルトガル人の植民地支配に関する認識や責任に関する理解を規定するのである。
 ただし、ポルトガル植民地帝国の解体は直接的には、「植民地戦争」を戦ったポルトガル国軍大佐による無血クーデターを契機として生じたものであり、植民地支配あるいは植民地時代の弾圧や抑圧、戦争の責任は、亡命した前政権関係者に転嫁された。その結果、1975年以降のポルトガルの歴代政権は、責任という枠組みで植民地支配や「植民地戦争」を考える傾向にはない。他方、「植民地戦争」に関わった多くの一般のポルトガル人男性は、クーデター直後の植民地支配や戦争を否定する言説の中で、また、悲惨な戦争経験の中で自らが犯した行為への配慮により、沈黙を貫いてきた。つまり、1975年以降、植民地認識はネガティブなものとしてポルトガル社会では語られてきたのである。
 
しかし、1994年にポルトガルがヨーロッパ連合(EU)に加盟すると、このような過去とは決別するかのような動き、欧州中心主義が復活する。植民地帝国とのつながりを重視する政策より、ヨーロッパとの関係を重視する政策が主流になると、年配のポルトガル人の間で、「ポルトガルらしさ」としての「植民地経験」「植民地戦争経験」の歴史的重要性が声高に叫ばれるようになり、植民地戦争に従事した多くの下軍人などが、回顧録を出し始めるようになる。その結果、近年、ポルトガルでは、「植民地戦争」植民地時代の写真集などが多数出版され、取り上げられている。
(舩田クラーセンさやか)



プロジェクト・メンバー
[主 査] 永原陽子
[共同研究員] 浅田進史、飯島みどり、大峰真理、小山田紀子、尾立要子、柴田暖子、清水正義、鈴木茂、高林敏之、旦祐介、中野聡、浜忠雄、平野千果子、舩田クラーセンさやか、前川一郎、真城百華、溝辺泰雄、吉澤文寿、吉田信、渡辺和仁、渡辺司