共同研究プロジェクト
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ムスリムの生活世界とその変容 ―フィールドの視点から
研究実施期間 : 2005年度〜2009年度

■中東イスラーム研究教育プロジェクト

主査  大塚 和夫

概要
 本共同研究プロジェクトは、世界総人口の2割ほどを占めるとされる世界各地のムスリム(イスラームの信者)の生活世界の実態を民族誌的アプローチから探るとともに、比較を通してそれらに見られる共通性・普遍性と地域ごとの特殊性の双方を明らかにすることを主な目的とする。 
 対象とする地域は、これまでのイスラーム研究において中心とみなされてきた中東のみならず、サハラ以南アフリカ、南アジア、中央アジア、東南アジア、東アジアを含み、さらに欧米などのムスリム・マイノリティ社会も視野に入れる。
 主要な研究テーマとしては、衣食住をはじめとする、ムスリムの日常生活に見られる些細な社会的・文化的現象の検討を出発点とし、それから国家や国際レベルにおける政治・経済的大状況を考察するというボトムアップ的視点、すなわちフィールドの現実を重視する社会・文化人類学や地域研究的な方法を重視する。それと同時に、イスラーム学の専門家にも参加してもらい、ローカルな場における民族誌的事実とより普遍的なイスラームの法学・神学的解釈との異同も検討する。また、今日のムスリム社会が、一方ではイスラーム復興のさまざまな兆候を見せているとともに、他方では近代化・世俗化・グローバル化などの影響を強く受けていることを考慮し、その現代的変容のあり方にも注目しつつ研究を進める。
 なお、本共同研究プロジェクトは、AA研が主体となり本年度から発足した拠点形成事業「中東イスラーム研究教育プロジェクト」の一環である。



2006年度

 
研究会

 2006年度第2回
 日時 : 2006年11月4日(土) 13:30〜18:00
 場所 : AA研マルチメディア室(304室)
 プログラム :
  13:30−14:30「新中間層知識人の間で深まりゆくインドネシア・イスラーム」 倉沢愛子(慶応義塾大学)
  14:30−15:30質疑応答
  15:30−15:45休息
  15:45−16:45「地域研究と生活世界――中東・イスラーム地域から考える」 小杉泰(京都大学)
  16:45−17:45質疑応答

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 2006年度第1回

 日時 : 2006年7月17日(月) 13:30〜18:00
 場所 : AA研セミナー室(301室)
 プログラム :
  村上薫(アジア経済研究所)
   「トルコの『新しい貧困』と家族主義的な連帯の変容」
  鷹木恵子(桜美林大学)
   「マグリブにおける開発NGOの活動と国家」
  千田有紀(東京外国語大学)(研究協力者)
   コメンテーター

【報告要旨】

1.研究会の概要

 今回は二人の中東研究者の方から発表していただいた。一人は、トルコで女性労働者のフィールド調査を行い、ジェンダーの議論などにも関心を持っている村上薫さん(アジア経済研究所)である。村上さんは、ネオリベラリズム経済の浸透の中でトルコでは「新たな貧困」が生まれているという仮説を検討しつつ、人々の間にみられる相互扶助や政府主導の扶助制度のあり方の具体的分析を通して、人々のアイデンティティや帰属意識がいかに変容したか、それともさほど変容しなかったかという点をめぐる議論を展開した。
また、チュニジアの聖者信仰研究で大きな業績をあげた鷹木恵子さん(桜美林大学)は、近年マグリブ3カ国の草の根レベルに浸透しているといわれる「マイクロクレジット」の実態調査を進めており、その成果をもとにチュニジア、アルジェリア、モロッコの事例の比較を発表した。そして3カ国におけるマイクロクレジットの普及度の相違を、それぞれの国家の関与のあり方やNGOの組織や実践に関する具体例を通して分析したものである。
今回の研究会は、トルコとマグリブの事例に基づき、ジェンダー、家族、NGO、開発、国家政策などの要素を重視した、ムスリムの生活世界の社会・経済的側面の解明を目指したものであった。お二人の発表はその期待に十分に応えてくださった。また、ジェンダーに基づく生活領域の区分が強い中東社会において、女性研究者の視点からの資料提示や立論は、研究会に出席した男性研究者にはきわめて斬新かつ刺激的なものと映ったことであろう。
なお、コメンテーターとして、ジェンダー、家族などのテーマでお仕事をされている社会学者の千田有紀さん(東京外国語大学)にお引き受けいただいていたのだが、ご事情でそれがかなわなくなった。千田さんからは社会学の理論的側面からのコメントをしていただこうと思っていただけに残念であった。                                      (大塚和夫)

2. トルコの「新しい貧困」と家族主義的な連帯の変容

トルコでは、公的な社会保障制度(フォーマルセクター労働者の社会保険)から実質的に排除された都市貧困層は、住居や職の確保をはじめとする生活の保障を、地縁血縁原理にもとづく互酬的なネットワークに依存してきた。互酬的ネットワークを通じた相互扶助という、国家/市民社会の二分法では捕捉できない残余的な領域をいかに概念化するかという点については、近代化論的な「伝統の残滓」という見方のほか、「トルコ的なモダニティ」だとする見方もある。報告者は、互酬的ネットワークがもつ資源再分配という機能と、「誰を頼りにするか/ケアするか」という感覚、そしてそのような感覚を支える人々の結びつきを説明するために、互いの生を保障するために人々が形成するつながりとしての「連帯」の概念が有用と考える。この概念を用いるなら、トルコでは、家族主義的な連帯(互酬的ネットワーク)が、市民的な連帯(福祉国家)を補完・代替してきたといえる。
都市社会学的研究は、都市の移動者社会の互酬的ネットワークについて、均質な社会集団ではなく、親族を中核とし同郷出身者がその外部に位置する同心円状に展開し、利害の種類によって道具主義的に分裂・統合すると指摘している。互酬的ネットワークは、産業化と都市化が急激に進行した1960〜1970年代の開発体制下で、人々が都市生活のリスクから身を守るため、身近な社会関係である地縁血縁関係を利用したものであり、「創られた伝統」といえる。
都市貧困層にとって、互酬的ネットワークは資源の分配とともにアイデンティティや帰属意識を獲得するための基盤として重要である。男性にとって妻子の扶養、女性にとっては家庭の運営と家族の社会的地位の維持というジェンダー役割は、ネットワークを通じた同性との相互扶助や社交によって可能となる。とくにスクウォッター住民にとって、ネットワークは匿名的な都市的環境のなかで適応するためのエスニックなアイデンティティを獲得する基盤でもある。また、互酬的ネットワークは国家資源(公有地・公共部門雇用)のインフォーマルな再分配という国家のクライエンタリズムを媒介してきたが、これは公的な社会保障制度から排除された人々を開発体制に統合する役割を果たしたと考えられる。
しかし1990年代後半以降、互酬的ネットワークが消失していること、そのため貧困からの脱出が困難になり、貧困層が固定化する「新しい貧困」が発生していることが指摘されてきた。背景としてあげられるのは、ネオリベラリスト経済政策への転換による競争の激化、とりわけ民営化や財政赤字補填のための公有地売却などによる国家資源の枯渇とこれをめぐる競争の激化である。ネットワークの衰退は果たして経済的な要因だけで説明できるのか。そもそもネットワークの衰退はどれほどの規模で起きているのか。先行研究は、失われた互酬的ネットワークにかわる公的扶助制度の制度設計をめぐる実践的な議論に集中する傾向にあり、これらの疑問に応える実証的な研究はほとんど行われていない。これらの疑問の解明は今後の課題とし、ここで注目したいのは、互酬的ネットワークの衰退と公的扶助制度の導入は、人々の帰属意識やアイデンティティにいかなる影響を与えるか、という点である。
報告者は、この点について予備的な考察を行うため、90年代半ばから本格的運用が開始した連帯基金制度にかんする実地の調査を行った。既存の調査によれば、連帯基金制度は、明確な運用ルールを欠き、受給者・当局の双方において、市民権にもとづく支援としてよりも、父性主義的な国家による恩恵ないし伝統的なイスラム的相互扶助として捉えられているという。報告者は申請者の大半が妻であることに注目し、連帯基金の申請と受給を彼女たちがどのように経験しているのか調査した。暫定的な結論は以下のとおりである。@妻は互酬的ネットワークを通じた他の女性との社交により、夫から自律的な活動領域を維持してきた。互酬的ネットワークの衰退により、これを失ったとしても、当局との交渉という新しい役割を果たすことを通じて、これにかわる新たな自律的な活動領域を手に入れることが予想された。しかしそのような変化は見られなかった。Aこれは、妻が申請するのは、「女性は夫に扶養されるべき弱い存在」というジェンダー規範を申請者側も当局側も共有しているという事情による。申請という行動は、むしろそのような規範の強化につながっているのである。          (村上薫)

3.マグリブにおける開発NGOの活動と国家

 市場経済のグローバル化に伴う経済格差の広がりは、南北問題としてばかりでなく、一国家内においても深刻な社会問題となりつつある。そうした貧富の格差是正や貧困削減に向けた政策のひとつとして、バングラデシュで1970年代に考案されたマイクロクレジット(MC)は今や世界各地で試みられるようになっており、中東・北アフリカ諸国でも、特に1990年代後半以降、実施する国々が増えつつある。マグリブ三国でも、1999年の同年にMC法が制定され、国家の政策としてMC融資プログラムが推進されるようになっている。本報告は、マグリブ三国におけるMC融資プログラムを具体的事例としつつ、MC融資などの開発政策推進過程でNGOが果たす役割やNGOと国家との関係性に焦点をあてて、三国のアソシエーション法の歴史なども辿りながら、検討を試みたものである。
マグリブ三国でのMC融資プログラムについては、モロッコでの著しい成功やチュニジアでのかなりの成果の一方で、アルジェリアでは開始後4年足らずで返済率の低迷からプログラムが一時停止となるなど、明暗を分ける状況となっている。ほぼ同時期に開始されたマグリブ三国での開発プログラムのその成否を分けることとなった要因は何であったのか。MCプログラムの設計立案やプログラム内容における問題点に加えて、プログラムの実施過程におけるNGOの関与の在り方も検討に値するものがあると考えられる。すなわち、特にMC融資の場合、融資前のサーベイや融資受け手への事前オリエンテーション、融資後のモニタリングやアドバイズィングなど、きめの細かいサービスが必要であり、それが収入創出活動の成否や返済率を高める鍵ともなることから、官製の一律プログラムではなかなか手が行き届かない部分をNGOが補うという意味では、市民社会やNGOの関与はこのプログラムの鍵ともなる要素と考えられるからである。
 実際にマグリブ三国でのMC融資実践を比較してみると、モロッコでのMCプログラムはもともとNGOが開始し、現在、12のNGOがMC全国連合を結成し、その連合が持続可能なMC融資事業の環境整備に向けての研究や情報交換、キャパシティ・ビルディングとしてのスタッフ養成、講習会の開催、インパクト調査や評価に基づく提言などを行っている。こうした市民による自発的な連合組織の下で、モロッコでは中東諸国で最大のMC受益者数とそして100%にほど近い返済率という驚異的成果が生み出されている。MC法自体も三国のなかでは最も規制が緩く、NGOと国家との関わりは、市民社会の側から組織を拡大していく「ボトム・アップ型」あるいは「下からのリンク・モデルの形成」と呼び得るものであり、国際NGOとも連携が多い点では「国際パートナリア型」としても特徴づけられるものである。
 チュニジアにおいても、MC融資は当初、一NGOによって開始されたが、それに加えて、90年代後半には国家がMC専門の国立銀行を設立し、その傘下で現在180以上ものNGOが政府機関と連携しつつMC融資プログラムを展開している。それらのNGOは国家主導で開設されたものが多いという点では「トップ・ダウン型」の開発活動で、組織形成の在り方についても「上からのリンク・モデルの形成」と捉えられるものである。しかしまた、国家が巧みにNGOとも連携を図っているという点では「国家とNGOのパートナリア型」として特徴づけられるものである。
 他方、アルジェリアに関しては、独立以降、1989 年の憲法改正までFLN単独政党の社会主義体制で、アソシエーションの活動もかなり規制されていたという歴史的背景もあり、今日、NGO の数は増えつつあるが、その活動は未だ脆弱で、開発活動はMCプログラムも含め、「トップ・ダウン型」で、国家とNGOのパートナリア型もごく僅かしかみられない。今後、国際的な協力や連携をも含めたNGO活動の活発化が期待されるところである。
 健全な民主主義社会を支える柱として、A.ギデンズは「政府」、「市場」、「市民社会」の三つを挙げており、そしてそのいずれかが欠けたり突出しても、国家はうまくいかないと指摘している。この指摘を踏まえるならば、マグリブ三国におけるMCプログラムの成否や開発の実施過程の考察において、NGO(市民社会)と国家(政府)との関係性に注目してみることは、研究意義のある課題であるように思われる。                                     (鷹木恵子)


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プロジェクト・メンバー
[主 査] 大塚和夫
[所 員] 
宮崎恒二、黒木英充、飯塚正人、真島一郎、床呂郁也、近藤信彰
[共同研究員] 青柳かおる、赤堀雅幸、石原美奈子、臼杵陽、宇野昌樹、大坪玲子、大稔哲也、奥野克己、菊地滋夫、小杉泰、小牧幸代、坂井信三、澤井充生、清水芳見、鷹木恵子、多和田裕司、東長靖、外川昌彦、中田考、長津一史、縄田浩志、子島進、信田敏宏、花渕馨也、堀内正樹、三尾稔、村上薫、山岸智子、吉田世津子、中山紀子、高山峰夫