共同研究プロジェクト
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人類社会の進化史的基盤研究(1)
研究実施期間 : 2005年度〜2009年度

主査  河合 香吏

概要

 本研究プロジェクトは、人類社会を霊長類から現生人類に至る進化の軸上で比較考察し、人類学における社会理論の新たな展開をめざそうとするものである。それによって人類の「文化」が社会形成にいかに関与しているかを再考する。

社会理論のなかで第一に問題となる「集団」に焦点を当てる。「集団」の概念を霊長類進化史上におくことにより、この概念の自明性を崩し、個体レヴェルの自他認識を越え「他集団」なる抽象的な他者の生成に到る「集団」の成りたちをふくめ、「集団」の認識(perception)の生成と展開を進化史的な視点から検討する。これにより、他者認知やアイデンティティといった個体間関係、およびテリトリーの生成とその認知、規則の発生と定着の過程といった個体間関係を超えた社会事象に至る問題群に迫る。

社会事象にあって、「集団」は比較的顕在化(目に見えやすい)したものである。したがって「人類社会の進化史的基盤研究」というときに、広く霊長類学的知見を含めて、人類史的規模での比較の橋頭堡が築きやすい。長期的なプロジェクト研究としては、継続的に「所有」、「制度」などを扱ってゆく予定であるが、その第一歩として、今回のプロジェクトを位置づけている。

共同研究員として、霊長類学の分野からは霊長類社会学および霊長類生態学の専門家、人類学の分野からは生態人類学、文化・社会人類学、人類生態学の専門家を加えている。これに社会思想史の専門家に参加してもらうことにより、霊長類から人類への架橋の理論的意義を考察する示唆を得たいと考えている。

 また副次的な効果として、近年、社会生物学、行動生態学への理論的特化という傾向を強めつつある霊長類学研究を、人類との関係に再び位置づけることにより、日本における霊長類学(および生態人類学)の創成契機であった人間存在の根源的かつ多元的理解という学的動機を回復しうることが期待される。


2006年度

 
研究会

 2006年度第5回(予告)
 日時 : 2006年1月27日(土) 13:00-19:00
 場所 : AA研小会議室(302室)
 プログラム :
  黒田末寿(滋賀県立大学)
  杉山祐子(弘前大学)

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 2006年度第4回(予告)
 日時 : 2006年12月23日(土) 13:00-19:00
 場所 : AA研小会議室(302室)
 プログラム :
  内堀基光(放送大学教養学部教授)
  西田正規(筑波大学)

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 2006年度第3回
 日時 : 2006年11月23日(木) 13:00-19:00
 場所 : AA研小会議室(302室)
 プログラム :
  船曳建夫(東京大学大学院総合文化研究科教授)
   「人間関係の場と構造 ―集団の成立について」
  西田利貞(日本モンキーセンター長)
   「チンパンジーの政治学、その後の発展」

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 2006年度第2回
 日時 : 2006年7月8日(土) 13:00-19:00
 場所 : AA研小会議室(302室)
 プログラム :
  伊藤詞子(京都大学大学院理学研究科)
   「チンパンジーの単位集団:マハレのM集団の事例から」
  寺嶋秀明(神戸学院大学人文学部)
   「『集団』の確定と平等性」

【報告の要旨】

1.チンパンジーの単位集団:マハレのM集団の事例から(離合集散するチンパンジー〜マハレの事例)

チンパンジーは騒々しい。体重40〜50kgにもおよぶその大きな黒い身体から発せられる大きな声(時には2km先まで届く、パント・フートと呼ばれる特有の声がある)などは、瞬時に感じる、わかりやすいチンパンジーの騒々しさの一面だろう。初期の頃から、チンパンジー研究者たちは、チンパンジーたちが次々に繰り出す多種多様な社会交渉や複雑な個体間関係に魅了され続けてきた。こういった社会交渉もまた騒々しいというイメージに当てはまるだろう。
 次から次へと様々なことを「する」、このようなチンパンジーの騒々しさの一方で、あまり取り上げられることはないが、「なにもしない」、「なにも起こらない」ことも多々ある。森の中を一頭でしばらく行動しているチンパンジーを追跡していると、ふと他のチンパンジー出会った。「何が起こるだろ
う?」と観察をしていると、ちらりと一瞥してそのまま通過して行ってしまったり、あるいはその場でじっと立ったままでいることもある。待てども暮らせども何も起こらない。通常の霊長類の社会学的研究では、こうしたできごとは扱われないのがほとんどだろう。何も起こっていないのだから。しかし、こういったできごとは稀なことではないし、むしろチンパンジーの特質の一面を表していると思われる。このできごとを理解するには、チンパンジーのもう一つの大きな特徴である離合集散という現象の理解が不可欠である。
 チンパンジーは単位集団という、例えばニホンザルの群れに相当するような社会をもつ。霊長類学では、こうした単位は単位集団のメンバーなり、関係なりをくまなく囲い込み、俯瞰できるような全体として取り扱われる(足立2003)。しかし、彼等はずっと同じメンバーで固まって行動しているわけでは
なく、こういった意味での単位集団を視覚的に捉えることはできない。私がチンパンジーの観察をおこなうときには、大抵は一頭のターゲットを決めて可能な限り朝から晩まで追跡する。平均的には4〜5頭でその場の行動をともにしているが、メンバーは固定しておらず様々な個体と出会っては別れる。ワカモノ、オトナ、コドモ、オス、メス、性も年齢もいろいろである。同じ個体と繰り返し接触・分離することもある。新しく接触した個体だけに限って累積的に見ていくと、ある時点で観察者が単位集団として囲い込んだメンバーのセットと一致する。現実には観察者が事後的に設定する「全体」としての単位集団を個々の場面から感知することは困難である。しかし、それを支えているチンパンジーの実際の行動による働きとしての「全体性」は、離合集散することの連なりとしてその場で感知される。
 ここでいう全体性は、例えば、単位集団の全体ではない。例えば、「遊び」はその定義の困難さでよく知られる現象であるが、Hayaki(1987)は個々の行動によって遊びになっているのではなく、「これは遊びなのだ」と解読する一連のプロセスこそが遊びを遊びたらしめている、としている。先の全体性とはこの一連のプロセスと言い換えることができるだろう。そして、遊びの例で明らかなように、個々の部分をすべて把握していなくとも、観察者にすら、始まった途端それが遊びだとわかるような、「遊ぶ」という全体性が部分と同時に立ち現れていると言えるだろう。もちろん、この全体性はその都度、部分とともに現れる不確実なものであり(遊びが実際に喧嘩になってしまうこともある)、現実に起こる部分以外のどこにも支えはないものである。離合集散についても同様で、部分としての<接触/分離>と同時に、部分がつらなることによって、「離合集散する」という働きとしての全体性がそこに同時に立ち現れているのである。
 ところで、この接触から分離の間には、同じ木で食べる、毛づくろいする、遊ぶ、挨拶する、時には喧嘩する、など様々な交渉が見られる場合もあるし、はじめに述べたように明示的に記述する形では何も起こらない場合も多々ある。この何も起こらなさが、私にとってのチンパンジーが騒々しさの大きな比重を占めている。接触してじっと相手を見るけれどそのまま立ち去る、特に何をするでもなく近くに行ってごろりと横たわる。その相手が私であることもある。何をするでもなく、誰がということでもない。しかし、された方はやはりチンパンジーも気になるようである。単に相手が通過するだけの場合でも、例えば深い藪の中でこういうことが起こると、チンパンジーは食べる手を休めて、深く屈みこんで藪のわずかな隙間から覗こうとする。その意味では、接触と分離の狭間で「何も起こっていない」のではなく、精確には「始まっているのに決着がつかない宙ぶらりんの状態」のまま分離に至ってしまうということが起きていると考えることができるのではないか。何も起こらない騒々しさとは、したがって、対面レベルではその場のできごとが何かを決められないという不安定な瞬間がもたされることによる騒々しさと言えるのではないだろうか。離合集散と結びつけて考えると、<接触/分離>の繰り返しがすなわち全体性の働きである、その限りにおいて、接触から分離に至る過程で何も起こらないことは、交渉しないというできごとではなく、一つの交渉のやり口として見えてくるのではないだろうか。
 「チンパンジーの単位集団はある」と我々研究者は言ってしまうのだが、その「ある」の具体的な中身とはいったい何であろうか。すべてをくまなく囲い込むような外部から設定した集団概念と、チンパンジーが現に生きて活動することが全体性を作り上げるようなできごとの間には、ずいぶんと大きなずれがあるように思われる。あるいは、研究者たちが「ある」と言ったときに思い浮かべるイメージも、個々人によって異なるだろう。本発表では、とにかくチンパンジーが何をしているのかということと、観察者が現場で見出す全体性に焦点をあてたのであるが、その上で、チンパンジーたちが再度この全体性を利用するような局面にも今後は焦点を当てる必要があるだろう。

【引用文献】
足立薫. 2003. 混群という社会. In:『人間性の起源と進化』西田正規、北村光二、山極寿一(編著). 昭和堂. 京都. Pp: 204-232.
Hayaki H. 1987. Social play of juvenile and adolescent chimpanzees in the Mahale Mountains National Park, Tanzania. Primates 26(4): 343-360.
(伊藤詞子)


2.集団の確定と平等性

@)行為としての平等
――本報告では,集団と平等性とのかかわりについて考察した。平等や不平等と いったものはこれまで社会状態として考えられるのが一般であったが,ここで は新しい視点として「行為としての平等」を提唱した。すなわち,問題とされるのは,平等であるか否かという状態ではなく,平等化しようというプロセス あるいは運動である。世の中にはさまざまな集合が考えられるが,その個々の 要素はけっしてみな同等ではない。しかし,相互に異なっているだけでは,それらは不平等ではないし,もちろん平等でもない。ある意図のもとに,あるい は無意識的にそれらの諸要素を「平等化」あるいは「不平等化」することに よって,「平等の状態」あるいは「不平等の状態」が形成されるのである。ここでいう「平等化」とは,諸要素を平等視できるような視点の創出であり,結果として,そこには諸要素の「平等ネットワーク」が形成される。

A)平等の形式と意義
――レヴィ=ストロースは「互酬性こそ自己と他者を統合させるもっとも直接的な形式」であるとした。しかし,平等性はもっと直接的に自他を一致=統合させるものであると考えられる。行為としての平等は「○○を等しくする」とか 「共に○○する」という形式において実行される。たとえば,ある人々が同じ 空間にいっしょに存在するならば,そこに相互に特別の関係がなくても,それ だけである種の「平等感」を得ることができる。もちろんその場合の平等感の度合いは,かなり希薄なものでしかないが。一方,男女の心中などは「共に ○○する」ことの極限的な場合として,強烈な平等感とインパクトをもつ。それらの両極端の間に,共食すること,共感すること,共有すること,協同すること,などのいろいろな活動が存在し,それぞれの度合いの平等感をもたらし,自他の統合に寄与している。自他の統合こそ,人々の間につねに存在する 平等への強い欲求の基盤なのである。

B)シェアリングと平等
――食物の分配(シェアリング)の日常化と共食習慣の確立は人類の進化におい てきわめて重要なできごとであった。大人のオス同士の間で食物の分与がおこなわれるのは人間以外にはチンパンジーの類だけであり,また,以下に述べる 十全な意味でのシェアリングは,ほとんど人間に限られた行動様式である。 シェアリングは,それにかかわる人々の集団において,食物消費の平等化に貢献していることはまちがいない。それは一見「分与する者」と「受け取る者」 との間の互酬的関係による食物消費の平等化のように見えるが,そうではない。シェアリングの基本構造は,「分与する者」は与え「受け取る者」はもらうという両者の行為の一致によって平等化がなされる点にこそある。与える者はもらう者に個人的に与えるのではない。また,もらう者も与える者から個人的にもらうのではない。与える者は「与える者」と「もらう者」を要素とする集団に与え,もらう者は,やはりその集団からもらうのである。つまりシェア リングとは個人と集団との問題であって,個人と個人間のやりとりではないことをまず確認しなければならない。

C)平等と集団について
――ある集団においてシェアリングがおこなわれた場合,その集団はたんなる諸 個人の集まりではなく,「平等化」という行為によって価値付けられた集団と なる。またそういった「平等的集団」が個人をして,シェアリングするべしと いう規則にしたがった行動をとらせると考えられる。ただし,その規則の存在 は不断の確認作業のもとにおかれる必要がある。日々のシェアリングは,その 平等化のプロセスにおいて規則の価値を維持し,一方,その規則がシェアリン グを介して集団を統合する。一般に集団がある規則を共有する場合,集団のメンバーはその規則に関しては,だれしもがその規則にしたがうべきという意味 で平等である。そこにおいて集団は,必然的に「平等集団」となる。平等をもたらす規則はさまざまであるが,シェアリングはその中でも進化的にもっとも原初的なものであり,チンパンジーやボノボなどの霊長類社会からの連続性をもって理解されるべきものである。人間はこのシェアリングを一歩発展させて 共食の習慣を確立し,家族や共同体といった高度な社会組織を作り上げるに至ったと考えられる。               (寺嶋秀明)



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 2006年度第1回
 日時 : 2006年6月17日(土) 13:00-19:00
 場所 : AA研小会議室(302室)
 プログラム :
  足立薫(立命館大学非常勤講師)
   「混群における棲みわけと社会」
  西井凉子(AA研)
   「関係を生きるームスリムと仏教徒が共住する南タイの日常的実践の場から」

【報告の要旨】

1. 混群における棲みわけと社会

混群とは異種の群れが、あたかも同一種の群れであるかのように寄り集まって、いっしょに移動し、採食する現象である。コートジボアール、タイ国立公園で観察されるオナガザル類の混群では、混群率(観察時間に対する混群形成時間の割合)が非常に高く、1種だけでいることはほとんどない。タイでは7種のオナガザル類が混群を形成するが、同種の群れを単位として、複数の種の群れが混群への参加と離脱を繰り返し、その種構成はつねに変動を繰り返していた。「集団」や「群れ」という言葉からからは、安定した固定的なメンバーシップがイメージされるが、混群はそうした典型的な「集団」のイメージとは異なり、安定した構成や固定的な輪郭をもたない。メンバーが変動し続け輪郭が変わっていくにも関わらず、混群という異種間の群れは、長時間にわたって継続して形成され続けるのである。
メンバーシップ、集団の輪郭がはっきりしないという混群の特徴は、社会が不断に生成され続ける動きであることを気づかせてくれる。組織化された集団では社会を関係の束のようにして把握可能だが、混群のように常に変化を続けていく集団では、固定した関係の束によって社会を説明することはできない。
コミュニケーションを構成素とし、コミュニケーションを次々に産出しつづけることで作動するのが社会システムである、というオートポイエーシス論を援用することで、混群の社会を特徴づけることができる。オートポイエーシス論における社会システムは、人間の言語コミュニケーションを対象としているが、群れを採食コミュニケーションの連鎖と捉えることによって、霊長類の混群に同様の議論が適用できる。
混群を形成する異種の個体同士は、系統的に近縁であり採食する食物に重複が多い。同じ採食樹で同じ食物を食べる場面では、異種の個体間で同じ資源をめぐる競争的な相互作用が観察される。競争的な相互作用は、直接的な食物の奪い合いとして起こることはまれであり、お互いに避けあって同じ採食樹での採食の時間をずらす、他の食物を探すなどの行動が見られる。一方で同じものを食べることは、協調的な相互作用としても働くことがある。一つの採食場所に大量に食物があるときには、先に場所を見つけた種のおかげで、他の種はその食物を発見できる。また、採食場所で捕食される危険のある場合には、異種と協同して警戒することで採食が可能になる。ある食物をめぐって異種間の相互作用が協調的になるか競争的になるかは、そのときの食物の状況や、混群を構成するメンバー構成、活動時間帯、場所などさまざまな要素によって異なる。
このような相互作用が繰り返し起こり続けていくことが、混群における採食コミュニケーションの連鎖である。ある種の個体の採食行動が、混群を形成する別の種の次の採食行動に作用するという現象が繰り返し起こる。協調的に採食を続けるような連鎖のパターンもあれば、競争的な相互作用によって、異種の個体どうしが離れて混群が分解することもある。
コミュニケーションの連鎖という視点に注目すると、社会は目に見える集団の集まりにとどまらず、そこから離れていくこと=離脱や、そこにいないこと=不在をも含んでいる。このように目に見える集団現象に限定せずに社会を構想したのが、今西錦司の「種社会」の概念である。種社会とは生活形を同じにする個体からなる社会であり、同種の個体がすべて入る。個体が集団的な生活をしているか、単独的な生活をしているかはどちらでもよく、それはすでに社会内の問題であるとされる。
生活形とは、単に形だけをあらわすのではなく、生活の場=環境と強く結びついた概念であり、生活の場と生活する主体とが結びついたものである。今西の言う生活の場とは、空間的な場所というだけではなく、生き物が生きていく現象を支える様々な環境の要素が含まれる。生きているという現象そのものの中に、主体と環境を不可分のものとして捉えたのが、生活形という概念なのである。混群においては、生きるために不可欠な採食現象において、主体とその環境(異種や同種の他個体、食物の状況、捕食者の有無など)が一体となった生活形があり、それを共有するもの同士(同種だけでなく異種の個体も含め)が、ひとつの社会を形成している。今西はコミュニケーションという言葉を使ってはいないが、社会の構成原理の中心に据えた生活形という概念によって、生活の場で起こる個体間での様々な相互作用とその連鎖こそが、集団の形成につながることを示していたのではないだろうか。 (足立薫)


2.関係を生きる―ムスリムと仏教徒が共住する南タイの日常的実践の場から

 本発表は南タイのムスリムと仏教徒が混住する地域における日常的実践の現場から、人間がいかに関係性を生きているのかの問いを立ち上げる試みである。まず出発点として、ムスリム集団と仏教徒集団という二つの異なった集団もしくは実体があり、それらがどのように共存しているのかという状況設定が誤りであるとした。
そこで、一つの予備的試みとして日常的実践の現場を「社会空間」を記述するという方法を考えてみる。社会構造は人類学者や社会学者たちが具体的な人びとの生と社会関係を還元し、抽象化したモデルである。他方、社会空間は逆に、具体的な人びとに生と社会関係が彼らの現実の行為(実践)によって築きあげられていく場を指している。つまり、社会空間とは、人間もその一部である自然的、物質的空間が人間の社会的実践と交錯したところに生成する場であると考えられる。
では、そのような社会空間を経由して、どのように人間の実践をとらえればよいのか。それを便宜的に次のように3段階に分けて考えてみた。

T 対面的関係―身体的交通の場 
U ネットワーク―関係性の持続
V 想像的関係―身体を超えて

 これらの間には錯綜した関係が見られる。
Tにおいてはムスリムと仏教徒の通婚者の実態からその関係性をみた。Uにおいては日常的な対面的関係はないが持続する関係性を、ある女性の授受した金銭関係のネットワークの事例からみる。Vにおいては主にムスリムと仏教徒をめぐる身体に関わりながら身体を超える関係性としてムスリムの(仏教徒としての)出家慣行といった儀礼をとりあげた。
 結論として、日常的実践の場において、人びとは身体としてさまざまな関係性を生きているが、その個々の身体をもった個人とその外にある社会の関係をみるというのもまた誤りであることした。つまり、本発表の探求の目的は、個人対社会の対立を前提とするのではなく、むしろ人間存在そのものが共同的、
社会的存在であることを出発点として、考察の対象とすべきはその人間の共同的あり方であるとした。よって、その問いは、人間の実践の場からたちあげられるべきで、あらかじめ仮定された集合意識を証明することではない。ここでは、経験の外にある超越的モデルを否定し、生きている人びとのアクチュアリティによりそった思考をめざした。                      (西井凉子)


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プロジェクト・メンバー
[主 査] 河合香吏
[所 員] 床呂郁哉、西井凉子、椎野若菜
[共同研究員] 伊藤詞子、今村仁司、内堀基光、梅崎昌裕、大村敬一、北村光二、衣笠聡史、黒田末寿、杉山祐子、曽我亨、田中雅一、寺嶋秀明、中川尚史、早木仁成、船曳建夫



2007年度


研究会

 


プロジェクト・メンバー
[主 査] 河合香吏
[所 員] 床呂郁哉、西井凉子、椎野若菜
[共同研究員] 伊藤詞子、今村仁司、内堀基光、梅崎昌裕、大村敬一、北村光二、衣笠聡史、黒田末寿、杉山祐子、曽我亨、田中雅一、寺嶋秀明、中川尚史、早木仁成、船曳建夫