Part 2-5 :: Islam, Religion of Unity by Prayer

ボレリとそのエチオピア内陸部探検


 日本布教とほぼ同時期に行われたイエズス会のエチオピア布教が失敗に終わった1630年代半ばから約150年後の1770年に、スコットランド人探検家ジェイムズ・ブルース(1730~1794年)がエチオピアへの入国に成功した。帰国後にブルースが出版した旅行記は、エチオピアに対する関心をヨーロッパで呼び起こした。

 19世紀に入ると、ヨーロッパ諸国の人々が続々とエチオピアを訪れるようになった。ある者は君主が派遣した使節団の一員として、ある者は地理学上の発見のため、またある者は交易で一旗あげるためエチオピアを目指した。カトリックとプロテスタントの宣教師たちもエチオピアでの布教を試みた。『地獄の季節』などの作品で知られるフランスの詩人アルチュール・ランボー(1854~1891年)もその1人であった。

 19世紀後半には、エチオピアの内陸部へと分け入るヨーロッパ人も現れるようになった。エチオピアの西部に到達した彼らは、この地にイスラームを信仰するオロモの王国が存在することを知る。本展で展示するジンマ王国伝来イスラーム祈祷集の所有者であったフランス人探検家ジュール・ボレリ(1852~1941年)もその1人である。
 1885年9月にエジプトを出発したボレリは、アデン経由でエチオピアに入り、メネリク2世の統治下にあったエチオピア中央部のショア地方に向かった。1887年5月にボレリは武器取引のためメネリク2世の下を訪れていたアルチュール・ランボーとともにジブチ湾に面するタジュラまで赴き、さらにアワシュ川流域を踏査した。そして1887年11月にボレリはエチオピア内陸部に向けて出発し、1887年末から1888年初頭にかけてジンマ王国の都ジレンを訪れた。その後彼は南下してトゥルカナ湖に迫ったものの、そこに到達する前に熱病に罹って帰路に就いた。フランスに帰国後、ボレリはエチオピアにおける探検の記録をまとめ、1890年にパリで出版した。

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ボレリのエチオピア内陸部探検関連図