Part 2-2 :: Islam, Religion of Unity by Prayer

ジンマ王国成立前後のエチオピア


 オロモの大移動とそれに続く大小の民族集団の移動の結果、現在のエチオピアの領域では、北西部にアムハラを主体とするキリスト教徒、中央部の広大な領域にオロモ、東部にソマリやアファルといったムスリムの遊牧民、南西部にはカファ、シダマをはじめとする大小多数の民族集団が居住するという状況が生まれた。

 オロモの大移動によって生じた混乱の中で、キリスト教徒のアムハラを主体としたソロモン朝エチオピア王国の中心は、エチオピアの中央部から北西部のタナ湖周辺に移った。この地のゴンダールを都として王国はしばしの安寧を得るが、1770年代以降、ソロモン朝の君主たちが名目上の権威を保ちつつ、国政の実権は彼らを傀儡化した貴族たちが握る時代が続いた。この時代を「士師時代」(1769~1855年)と呼ぶ。

 1855年にテウォドロス2世(在位1855~1868年)が「諸王の王」と呼ばれる君主の座に就いた。しかし彼は外交上の軋轢からイギリス軍の侵攻を招いて自殺し、その後「諸王の王」となったヨハンネス4世(在位1872年~1889年)もスーダンのマフディー軍との戦いで戦死した。その結果「諸王の王」となったのが、メネリク2世である。彼は士師時代に勢力を強めた地方王朝であるショア朝の出身であった。

 この頃、アフリカ大陸ではヨーロッパ列強による植民地獲得競争が進行していた。19世紀末にエリトリアを植民地としたイタリアは、さらにエチオピアの征服を目論んだ。メネリク2世は1896年のアドワの戦いで勝利をおさめてイタリアの野望を挫き、エチオピアは独立を保った。その後メネリク2世はイタリアのエリトリア領有を認める一方で、エチオピアの南西部、南部、そして東部の征服を続けた。その結果、現在見られるようなエチオピアの国境が形成された。エチオピア西部もこの時期に帝国の支配下に入った。

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エチオピア帝国の拡大