Part 1-3 :: Islam, Religion of Unity by Prayer

16世紀までのエチオピアのイスラーム


 イスラームの聖地メッカ、メディナを擁するアラビア半島と、紅海を挟んで対岸に位置するエチオピアは、早い段階からイスラームと関係を持ってきた。ムハンマドがイスラームを創始してしばらく後、メッカで多神教徒たちから迫害を受けると、一部のムスリムはエチオピアに逃れ、そこでアクスム王国の王の庇護を受けた。それに恩義を感じたムハンマドは、エチオピアの人々への無用な干渉を禁じたと伝えられている。実際その後ムスリムがアラビア半島周辺地域を次々に征服していくなか、エチオピア高原のキリスト教徒は長きにわたって攻撃を受けなかった。

 エチオピア高原から海に出るためには、主に2つのルートがあった。1つは北に向かい、紅海に面した港マッサワに出るルートである。もう1つは、東に進んでアデン湾を臨む諸港に出るルートである。10世紀までエチオピア周辺におけるムスリムの居住地は沿岸部に限られていた。10世紀以降、後者のルートを通じて、ムスリム商人がエチオピアの内陸部を訪れるようになった。その後エチオピアの中央部から東部にかけていくつものムスリム諸侯国が成立した。

 13世紀後半にエチオピア高原の中央部にソロモン朝エチオピア王国と呼ばれるキリスト教王国が成立すると、14世紀からムスリム勢力とキリスト教徒勢力がエチオピア高原の中央部で一進一退の攻防を行うようになった。16世紀に入ると、ジハード(聖戦)を唱えるアフマド・グラニ(アフマド・ブン・イブラーヒーム・アル=ガーズィー)に率いられたムスリム軍の大攻勢により、ソロモン朝エチオピア王国は滅亡寸前にまで至った。しかし大航海時代に入ってエチオピアを訪れるようになっていたポルトガル人の助勢を得てキリスト教徒軍が反撃に転じ、アフマドは戦死してしまう。その後ムスリム側もキリスト教徒側も、第2部で解説するオロモの大移動がもたらした混乱によって打撃を受け、16世紀末になると両勢力の抗争は終息に向かった。