第4回コロキアム「文理越境型フィールドサイエンスの可能性」

「生態的参与観察:霊長類学と人類学を架橋する方法」
 黒田末壽(滋賀県立大学人間文化学部教授)

1. 生態的参与観察

日本の霊長類学は、霊長類の社会進化の方向を探り出し人間社会の成立過程を復元することを目標に(今西1961)、人間社会のアナロジーから霊長類の文化や社会に関する仮説を作り、長期観察で検証し、理論を修正してきた。この文脈での観察はサルを一目で識別し個体間交渉を詳細に見る能力を要求するが、それはサルを人格的に認識することで可能になる(黒田1986)。つまり、サルを一目で個体識別できるようになった時点で、観察者は心理的にサルの世界に参入している。さらに観察者は、サル(私の場合は類人猿)に追随して生活の一部始終を知ろうとする。私は、一人で森を歩き、類人猿とともに叫び、同じものを食べ、同じ姿勢で森に休み、ディスプレイを真似、ビクッとすれば同じ方向を伺い見るようなことを繰り返した。心理的参入とこのいわば生態的接近を併せて、生態的参与観察と呼ぶ。これは、A:「観察対象の世界を経験し相手に自己を重ね合わせてみる」、B:「そこでの同化・異化作用を対象化する」方法で、その結果「人間を相対化する」。Aは類人猿を見る眼を鋭敏にする。しかし、Aが強いほど対象への重ね合わせの微妙な違和感に敏感になる。じっさい類人猿の表情や動きがよく見えるほど彼らの「意図」の読み取りに限界を感じ、解釈の行き詰まりを実感する。そこで生じる客観化作用と見ること自体の対象化がBである。

2. 霊長類学と人類学の架橋

霊長類学から人間社会の成立過程に言及するには、霊長類の意図や社会意識の存在形態を明瞭にしておかねばならないが、この認識の希薄さが霊長類学と人類学の共同作業を阻んできた。生態的参与観察の内部観察的性格はここに挑む。例えばボノボの観察で、交尾の誘いに視線を落として「無視」するとか、誘っていない相手が来てあわてたとかが見えてくると、個体関係の意識的選択、信号の多義性や誤解の存在、新たに当事者となった組み合わせで信号の意味が修正される、などとわかってくる。ボノボが手にした食物を他個体に取らせるとき、小さい方・不味い方を取らせる消極性を「惜しみ」ととらえて「意識的」な食物分配として再定位したのもその延長にある(黒田1999)。そこから彼らの食物分配は、「価値あるものの独占を断念し他者と共有する行為」で「他者の慮り」の始原形態であり、すでに「所有」の萌芽形態があることなどが帰結でき、人間社会のいくつかの要素を関連づけてその起源に言及できるのである。

  • 今西錦司「人間家族の起源:プライマトロジーの立場から」民俗学研究25(3):119-138,1961.
  • 黒田末寿「全体から部分へ」浅田彰ら『科学的方法とは何か』中公新書1986.
  • 黒田末寿『人類進化再考:社会生成の考古学』以文社1999.