第1回コロキアム「フィールドサイエンスの手法構築に向かって
--臨地研究の実践と理論」
「人類学はフィールドサイエンスたりうるか?」
松井 健 (東京大学東洋文化研究所)
フィールドサイエンスを「フィールド」と「サイエンス」に分けて、そのおのおのについて考えると、フィールドサイエンス自体がきわめて可塑的な概念であることがわかる。サイエンスも、狭義の自然科学、すなわち反復可能な実験から導かれる結果によって構成される科学から、論理学や数学のような形式科学まで多層であろうし、実験室においてなるべくノイズをすくなくしておこなわれる実験を中心手法とみるものから、自然現象の観察を重視するものまで方法上も多様である。ときに、自然の観察のための方法開発のために実験が用いられることもあろう。
一方フィールドについても、単に観察の対象が自然現象であって、実験室内ではらちがあかないから野外でおこなわれるということもあれば、自然科学とはまったく別に、地理学でいう巡検や人類学のフィールドワークのように、人文社会科学において重視される方法に組み込まれていることもあろう。歴史学などでは、時間差はあっても、出来事の現場に立つことの重要性が述べられとき、やはりこのフィールドという語が想定されているとみてよい。 一般には、しかし、フィールドサイエンスというと、実験室内での研究によって十分に明らかにならない現象を追うために、野外で(ときには、実験的手法や計測を用いて)おこなわれる研究がイメージされるといってよいであろう。海洋や陸水、生物の生態の研究などがこれである。補食者と非捕食者間のポピュレーション生態学が、簡単な水槽内の実験の結果に全面的に依拠できないのは、単純に、自然は水槽よりも複雑にできているためだが、フィールドサイエンスの必然性はまさにこの点に求められるといってよいであろう。
人類学の基礎的方法がフィールドワークにあるという見方に立つならば、人類学の学問構成そのものに、興味深いパラドックスがあることを認めざるをえない。まずフィールドワークの体験は、いかに人類学者が強弁しようとしても、実に時間的空間的に限られたものでしかない。たとえそれが数年に及ぶとしても、人類学者の親しく知りあう人は数十人、通常の交際の及ぶ人も数百人にすぎないであろう。フィールドが空間的に広がれば、そこでの体験の密度は低くなっていく。しかし、一方で人類学は「人類」学であって、限られた民族集団やその一部についての学ではないという当然の含意があることだろう。
きわめて時間的空間的に限定されたフィールドワークの体験から、どのようにして、いたって総体的な人類学を構成するか。人類学はその学問としての構成のなかに、この難問をかかえ込んでしまうことになる。もっとも、それゆえに、人類学をフィールドワークの学ではない、と規定しようとする論者もいる。これは、人類学の不幸なのだろうか。たしかに、サイエンスとしての人類学の不幸であるかもしれない。しかし、この人類学の不可能性――限定されたフィールド体験を、包括的な人類学に鍛え上げること――は、別の方向へと考えれば、ひとつの可能性であるともいえるのではないか。
たしかに、フィールドワークでえられた限定された知見から、普遍性をもつとはいわないまでも、かなり一般的な射程をもつ人類学的理論をつくりあげることには、大きな困難が伴うことであろう。しかし、この大きな困難を克服するための営みには、研究者それぞれに大きな自由と裁量が認められていることだろう。とくに、対象としている人たちとのフィールドワークを通しての長時間に及ぶつきあいは、人類学を「研究する」学問であることから、研究者がそれを「生きる」学問へと変えていくように感じられる。学問を単に研究するという立場ではなく、それを生きることができるということは、研究者にとって、大きな幸せというべきではないのだろうか。