第12回コロキアム 「紛争状況下における/のフィールドワーク:人類学・地域研究の現場から」

「やるせない紛争調査─ 東アフリカ牧畜民のフィールドワークから ─」
 湖中 真哉(静岡県立大学・国際関係学部)

 本報告は、東アフリカの牧畜社会におけるある紛争とそのフィールドワークについて報告し、臨地研究による紛争研究の意義と方向性を考察することを目的とする。なお、本報告は、深刻な人権侵害を受けている人々を対象としており、彼らに及ぼす影響に配慮し、民族名、国名については、仮名を用いて表記し、あえて明示しない。

 東アフリカのC国では、2004年から2009年にかけて、民族集団AとBの間で紛争が発生し、殺人、傷害のほか、家畜の略奪、家屋や家財の焼き討ち等、多大な被害をもたらした。紛争による死者の総数は550人を数え、22,000人以上の国内避難民が発生した。当該国メディアや国際機関による報道や報告は、この紛争の主因は、民族紛争や環境悪化であると主張しているが、報告者による臨地調査の結果、民族集団Bの政治家が集票目的で地域住民を先導したことが主因であることが判明した。

 報告者は、この紛争のフィールドワークを継続的に実施してきたが、フィールドワークが深まったある段階から、紛争の様々な「情景」が、強い映像的イメージとなって、報告者の脳裏に再現されるようになった。そのため、本報告では、未明の襲撃、選挙公約、自然保護区、木陰の密偵、焼き討ち、決戦の丘、拷問、肉屋、虐殺、難攻不落の集落、占い師、武装解除、平和構築の13の情景を提示することによって、民族誌的な報告を行った。

 その結果、得られた結論は、以下の5点に集約できる。

(1)報告者は、文化人類学から出発したが、紛争のフィールド・サイエンスを突き詰めた結果、「文化相対主義」を含めて、文化人類学の諸前提となる概念を内破する必要性を感じた。もし、フィールド・サイエンスの「愚直なリアリズム」を突き詰めれば、おのずと各学問領域の前提となる諸概念の内破に至るのであれば、フィールド・サイエンスには、この意味において、学際的な融合をもたらす研究領域としての可能性がある。

(2)報告者は、紛争のフィールドワークを通じて、紛争によって生命の危機に陥りながらも、様々な知略により、なんとか生き残った人々の生命に触れるうちに、対象社会の「文化」のみならず、「生命」を表現する民族誌の必要性を認識するに至った。

(3)紛争の調査研究は、「やるせなさ(=ニヒリズム)」を伴う。それは、紛争のやるせなさ(「どこまで行っても人間の愚行と悲惨さの累積」)、調査のやるせなさ(「調査したところで犠牲者が生還するわけではない」)、研究のやるせなさ(「もはや学問的諸価値では太刀打ちできない」)の3つの意味に分類できる。

(4)しかし、フィールド・サイエンスの価値を、専門領域的、政治的、実用的な価値に求める考え方は、それに対するもうひとつの「ニヒリズム」に過ぎない。「フィールド・サイエンス」は、いかにやるせなくとも、専門領域的、政治的、実用的に価値がなくとも、「フィールドの現実から目を背けない」ということ自体に価値がある。

(5)紛争調査の「やるせなさ」から目を背けた地点から、様々な国際会議で議論されるようなグローバルな綺麗事と既存の価値観による「浅い希望」が始まる。そして、その「浅い希望」によって実際に世界は動いていく。これに対して、紛争のフィールド・サイエンスの意義は、「やるせなさ」から目を背けず、紛争地とそのやるせなさを「共有」することによって、浅い希望ではなく、「絶望の果ての希望 = 深い希望」に触れることにある。

(6)紛争のフィールド・サイエンスは、調査対象との距離を保ったまま、その生を否定して「浅い希望」を見出すのではなく、むしろ紛争や紛争後の貧困を生きる生をささやかながら「共有」することによって、その生自身が見出した「深い希望」に触れる必要がある。