第11回コロキアム 「人類学における自然/環境研究の可能性」

「世界制作の機械(ムンディ・マキーナ)のダイナミクス
「自然=社会・文化人類学」の方法における矛盾とジレンマと決定不可能性」
 大村 敬一(大阪大学)

 この発表では、昨今「存在論的な転回」と呼ばれている人類学の動向を1970年代以後の極北人類学(主に北米大陸極北圏および亜極北圏)の在来知研究の学史に位置づけながら、在来知研究の方法について考察した。

 北米大陸における在来知研究は、古くはボアズの『セントラル・エスキモー』やモースの『エスキモー社会』を源流とし、1950年代以後の認識人類学を直接の祖とする。この分野は、1970年代に北方先住民、なかでも極北圏と亜極北圏の狩猟・採集民の野生生物管理に関する調査を端緒にさかんになり、1980年代以後には数多くの調査と研究が行われてきた。さらに1990年代後半以後には、地球温暖化をめぐる気候変動に関する先住民の在来知の研究もこれに加わり、今日の北米大陸北方先住民研究における大きなテーマの一つになっている。

 この在来知研究には二つの研究テーマがあった。その一つは知識や世界観などの観念体系に関する研究で、在来知と近代科学の比較研究が含まれる。1990年代に、在来知研究の成果の一つとして、野生生物をはじめとする静態環境の管理と開発に先住民が政府と対等な立場で参加する共同管理制度が整備されるようになると、このテーマでは知識をめぐる権力関係に議論が集中するようになる。もう一つは、生態環境と政治・経済的な環境に対する先住民社会の適応に関する研究で、先住民社会の生産システムが極北圏と亜極北圏の生態環境のみならず、産業資本制経済の世界システムや近代国民国家にいかに適応してきたかが調査、研究されてきた。

 1990年代後半になると、1980年代にはじまる科学人類学からの影響を受けつつ、これら二つのテーマが合流し、在来知は先住民社会の観念体系と生産システムを綜合した「生き方」としてとらえられるようになる。そして、観念体系と生産システムの綜合体としての先住民社会が、極北圏や亜極北圏の生態環境はもちろん、産業資本制経済の世界システムや近代国民国家という政治・経済的環境にいかに適応しつつあるか、今後、先住民社会が存続するためにはどのような環境を整備すればよいかに調査と研究の焦点が集まっている。

 昨今、存在論的転回と呼ばれている人類学の潮流は、こうした在来知研究の流れが科学人類学と合流して生じた動向として解釈することが可能である。とくに、在来知や近代科学を観念体系としてばかりとらえるのではなく、観念体系と生産システムの綜合体としてとらえ、知識制作の過程を政治・経済的な過程と一貫して記述、分析するとともに、その記述と分析をもって現状に潜在している可能性を拓いてゆこうとする姿勢など、存在論的転回には在来知研究の進展の帰結として考えることができる部分が多い。この発表では、こうした存在論的転回と在来知研究の共通点と相違点を考察してこの二つの潮流を学史のなかに位置づけるとともに、発表者のフィールド調査に基づいて、今後の在来知研究と科学人類学に求められる記述と分析の方法について次のような提案を行った。

 まず、在来知についても科学技術についても、それぞれの生活世界を生成する一つの機械(世界制作の機械:ムンディ・マキーナ)としてとらえる視点を提案した。そのうえで、イヌイトの在来知と近代科学技術を事例に、観念体系と生産システムから組み立てられているそれぞれの機械の構造を分析するための方法について検討した。たとえば、どちらの機械でも、あるべき世界を構想する世界観を駆動力に人間と非人間(社会の要素と自然の要素)が組み上げられ、それぞれの機械が稼働することで、それぞれの生活世界が意味に溢れた物質的な現実として生成されている。しかし、他方で、それぞれの機械の構造には大きな違いがある。外部に対して閉じつつ開いた循環的なシステムであるイヌイトの在来知とは対照的に、近代科学技術は外部を次々と呑み込みながら際限なく拡張してゆくネットワークになっている。こうした比較によって、それぞれの機械の構造に迫るとともに、それぞれの機械が人々にどのような生活世界を生成しているか、そのメカニズムを解明する可能性を検討した。