第9回コロキアム 「人類学における文理越境的アプローチの可能性」

「霊長類学としての人類学」 曽我亨(弘前大学教授)

 我が国では、文化人類学と自然人類学は異なる学部におかれてきた。また、かつては日本民族学会と人類学会の連合大会も開かれていたが、現在では両者の交流は限定的になってきている。こうした状況を考えると、生態人類学と霊長類学が一緒になって研究を進めてきた京都大学理学部の人類進化論研究室は、希有な存在であるといえるだろう。私たちは、人類学を霊長類学の一部として(あるいは霊長類学を人類学の一部として)、さまざまな問題に取り組んできた。霊長類学者と一緒に研究をすることで、生態人類学者はどのような視点をもちえているのであろうか。本発表では、文化人類学者にも採用できそうな視点を考えていこう。

 まず進化論的視点があるが、これは外そうと思う。世間には執拗に「サルがヒトに進化した」とする誤った概念が流通しているが、共同研究などで文化人類学者と話していると、なかなかこの考え方を脱することは難しいようである。進化論的視点としては、主として種内の進化を考える社会生物学的視点と、異なる種の共通祖先が持ちえた能力を推測する進化論的視点の二つがあるが、どちらもヒトにまで応用するには、専門的なトレーニングが必要で、簡単には採用できそうにないからだ。

 一方、身近なところに霊長類学者がいるという環境は、なかなかありそうにないが、霊長類学者になりきって自分の研究課題を見直してみることは意義深いことかもしれない。コメンテータの河合香吏さんが主宰するAA研の「人類の進化史的基盤」研究会では、霊長類学者とともに「集団」や「制度」など、これまで自明視されてきた概念を捉えなおしてきた。たとえば霊長類学者にとって、集団とは目に見えない何かではなく、観察可能な事象である。サルと比べたとき、ヒトの最大の特徴は言葉を話すことであるが、あえて霊長類学者のようにヒトが話す言葉を括弧に入れ、その行動にのみ焦点をあてることで、人類学的概念を捉えなおしていくのである。

 「言葉ではなく行動に焦点をあてる」を具体的な行動に移すと、それはインタビューではなく観察を重視する、ということになる。人類学の分野では、インタビューについては洗練した方法論が確立されている。しかし、観察についてはさほどでもない。ここですこし観察について考えてみよう。

 インタビューは、調査者とインフォーマントとの二者関係のなかで作り上げられていく。かつてインタビューは、インフォーマントの脳のなかに格納された知識を取り出す作業と考えられていたが、今は調査者とインフォーマントの共同作業と考えられている。これに対し観察は、対象者とモノ、あるいは対象者と他の個体との相互作用に注目する。近年、知識は脳のなかに格納されているのではなく、環境との相互作用のなかにあるとする見方が広まっているが、観察は、まさにその部分に焦点をあてたデータの収集方法であったといえるだろう。インタビューと違うのは、知識が調査者とのあいだで構成されるのではなく、モノや他者とのあいだで構成されるということである。観察をフィールドワークの手法として積極的に採用することで、人間とモノのネットワークを明らかにすることが可能になるかもしれない。

 もっとも、生態人類学者の観察は、霊長類学者の観察ほどの水準を保持している訳ではない。また観察のやり方にも違いがある。最後に両者の違いについて考えておこう。霊長類学者の観察場面において、観察者はサルとのコミュニケーションを積極的にとらないことで、サルのネットワークから自らを切り離す。サルも、観察者の存在を知りつつも、日常的にはその存在を無視する。両者の切り離しによって、観察者はサルをあらゆる角度から観察することが可能になる。これに対し、生態人類学者の観察では、コミュニケーション可能な相手を(というよりも、観察者にとって一番コミュニケーションをとる相手をしばしば)観察の対象とする。観察者の立ち位置は、観察の内容にもよるが、基本的に対象者の斜め後ろである。対象者がモノに対峙したときの距離感や「見え」を、観察者の身体に写し取っていくのが、生態人類学者の観察なのではないだろうか。

 いわばそれは、対象者の身体に自分の身体を重ね合わせる作業である。対象者に見えているモノが観察者には見えなかったり、対象者にはその距離から操作できることが観察者にはできなかったりする。身体を重ねることで、それがよくわかる。観察者の身体は、異なる「人間とモノのネットワーク」を相互に比較するための拠点として必要不可欠なのではないか。これを本発表の暫定的な結論としたい。