連続ワークショップ第1回
「データと論文の間―フィールドサイエンスにおける論証とは」

「マサイにとっての野生動物の問題とは?―『緑の失楽園』にはじまる名づけの問題」

目黒 紀夫(AA研)

 報告者は環境社会学・地域研究を専門としており、東アフリカ・ケニア共和国の南部に位置するマサイ社会において野生動物保全をめぐるポリティクスを研究している。そこはアフリカのなかでも野生動物保全の最前線といえる場所であり、1990年代以降は政府や援助機関、NGOによって「コミュニティ主体の保全(community-based conservation, CBC)」がさかんに取り組まれている。そんなフィールドは報告者にとって、訪れるたびに想定外の出来事に遭遇する場であり予想も理解も困難な対象である。今回の報告では、フィールドで直面してきた予想外の「問題」について、何が、どのように、誰にとって「問題」なのかを報告者がいかに調査し、どのように研究としてまとめてきたのかを説明した。

 はじめに、報告者が専門とする環境社会学の説明をおこなった。環境社会学は「環境と社会」の関連を考える領域横断的・学際的な学問であり、その特徴としては科学(者)の客観性や学問(学者)の中立性を強く疑う姿勢と、「被害(者)」や「生活(者)」を重要する視点がある。報告者がこの学問を自らの専門とする理由としては、それが個別性や身体性、倫理性や実践性を強く志向する点がある。ただし、大学院生として調査を開始したときに報告者が関心をもっていたのは、CBCがその目標である「持続可能な発展=開発と保全の両立」を達成できているのかという、環境社会学よりも開発学に近い点だった。

 調査を開始するにあたって報告者は、歴史的な経緯から地域社会はCBCに賛同していないのではないかという仮説を抱いていた。しかし、実際に調査をしてみるとCBCが喧伝していた「コミュニティの完全な参加」は住民自身によって放棄されていた。また、多くの住民は「保全」は重要なことと答えCBCの取り組みを増やすことにも賛同していたが、そこで住民たちがいう「保全」の中身はCBCの目的や意図とは異なっていた。結局、報告者の学位論文のなかで中核を占めたのは、野生動物保全(CBC)の現場で「地域」と「外部」のあいだにはどのような認識のズレがあるのかという点だった。その結果から報告者は、開発学や政策論でいわれるような「どうすればいいのか」ということを考える以前に、現場が「どうなっているのか」を理解することが必要と考えるようになった。

 学位論文の提出後も、報告者はフィールドがこれからどうなっていくのか、現状の関係が維持されるのか何か新しい活動がはじまるのかよく分からないと感じていた。そうしたなかで予期せず遭遇した出来事として、数百人のマサイが白昼堂々と野生動物を狩り殺した事件とマサイ・オリンピックと題した陸上競技大会があった。発表の後半では、これらの事例を報告者がどのように研究してきたのかを説明した。前者の事例は放牧中の青年がバッファローに襲われたことを端緒とするが、政府との話し合いの場が設けられるなかではマサイの政治家や運動家も事態に介入していた。そうした状況を研究としてまとめるなかでは、「被害者」の声が無視されている状況への疑問・違和感を強調した。一方、後者の事例は慣習的なライオン狩猟を止めさせるために白人が設立した動物愛護系NGOが主催する企画である。当日はマサイもマサイでない人もイベントを楽しんでいた様子であり、競技に参加した青年たちのリーダーは主催団体および企画を称賛していた。だが、狩猟を一概に否定する一方で獣害について対策を講じない主催団体を批判する意見も地元にはある。報告者は、動物愛護の影響下、かつてのマサイと野生動物との共存関係が忘れられ/消されようとしていることの問題性を研究としての結論のなかで指摘した。

 これらの事例を踏まえて最後に報告者は、環境や開発をはじめとする社会「問題」の現場でさまざまな主体や意見、見方が交錯しているとき、そこにおける「問題」をどのように名づける(ネーミングする)かが実践的な研究においては重要になってくることを述べた。そして、自らの感想として、ネガティブな言葉よりもポジティブな言葉の方が受けがよい気がすること、しかし、過度にポジティブな表現を用いることでローカルな現場に暮らす「被害者」の声や「生活者」の論理が見落とされることになるのではないかという危惧を抱いていることを述べた。こうした報告者の発表・問題提起を受けて、その後の質疑・討論ではフィールドワークにおよぼす調査者の個人的な問題関心の影響や学問分野ごとの名づけにたいする姿勢のちがい、今日の環境保全をめぐる議論においてドミナントな言説の検討などを参加者とともにおこなった。