連続ワークショップ第1回
「データと論文の間―フィールドサイエンスにおける論証とは」

「フィールドにおける調査と分析の「その場での」往還」

木村 大治(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

 「データと論文の間」というのがこの回のタイトルである。フィールドのデータを論文にするのにどういったやり方があるのか,フィールドワーカーはつねにそのことに悩んできた。最近はフィールドワークの方法論に関する本がたくさん出版されているし,私自身も,大学院生の教育では「どうやってフィールドワークをするのか」に関して教えてほしいという学生諸君の気持ちをひしひしと感じるのである。

 しかし,「フィールドワーク」の「やり方」と言われると,つねにある種の違和感を感じてしまうのである。この両者は形容矛盾ではないのか,という気さえする。そのときいつも思い出すのが,川喜田二郎氏の『発想法』に書かれている次のくだりである。「『こういう情報がほしいのだ。それがどこかにないか』という,はじめから探しものがわかっている立場なのではない。探しものがわかっていて,それだけを探しにゆくならば情報の『探索』という言葉でよいのであった。ところが,そういう魂胆をあらかじめ決めてかかってはいけないというのが,『探検』の段階である。(p.32; 太字は木村による)」。川喜田のフィールドワーク観には,「最初から頼れるやり方は何もない」という徹底したradicalismが見て取れるのである。

 あらかじめの枠組みがないとするならば,「フィールドワークを学ぶ」ということはそもそも可能なのだろうか。このことを考えるヒントとして,グレゴリー・ベイトソンの学習理論を参照してみたい (『精神の生態学』所収「学習とコミュニケーションの階型論」)。ベイトソンは以下のような階型を考える。

  • ゼロ学習: 刺激に対して,固定的な反応がある (自動販売機など)
  • 学習I: 刺激に対して,取る行動の選択が変化する (通常の学習; パブロフの犬など)
  • 学習II: 刺激に対して,取る行動の選択肢集合(カテゴリー)自体が変化する。学習Iの進行プロセス上の変化
  • 学習III: 信仰上の目覚め,性格の根底的な再編など
  • 学習IV: 地球上の生物の進化

学習III,学習IVはレベルが高すぎるので置いておくとして,ここでは学習Iと学習IIについて考えてみたい。学習Iとは通常の学習であるが,学習IIは,「どう学習するかということの学習」(つまり「メタ学習」と言ってもいい)のことである。私がここで主張したいのは,フィールドワークとは学習IIだということである。そうであるならば,そこでは具体的に「こうやれ」と指示することはできないことになる。なぜなら,「こうやれ」と指示した瞬間に,学習者がやっていることは学習IIではなく,学習Iに退行してしまうからである。こういった事情が,「フィールドワーク」を「教える」ことの困難さの中心にあると考えられる。

 それでは,具体的な指示をせずに,学習することの学習法を「教える」ことが可能なのか。「こうやれ」という指示ができないのだから,そこで可能なのは,「それはだめだ」と言い続けるとか(私が大学院生だった頃のゼミを思い出す),あるいはフィールドに放り込んで自分で考えさせる,といったことであろう。ベイトソンの言うように,論理階型を一段上がらせるためには,ある種のダブル・バインド的な緊張状態が必要なのである(若干大げさだが,禅の公案に似ている)。「そのようなスパルタでは今日日やっていけない」「地域研究の合理的・体系的な教示法を開発しなければならない」というのは,私の所属する研究科でもずっと言われ続けてきたことだが,それがもうひとつうまくいってない,その根本的な原因はこのあたりにあると思われる。

 しかし,学習Iからの離脱そのものは本人が成し遂げるしかないにしても,クラーク『幼年期の終わり』のオーバーロードがしたように,それを見守り,そして加速してやる工夫は可能であろう。ここでは,私自身のフィールドでの経験からそのひとつの方法を提示したい。それは,フィールドで得たデータを分析し,仮説を構築し,その仮説に基づいて追加のデータを収集し,あるいは必要なら方法を変更する…というサイクルを,フィールドでin situに回すというやり方である。私自身は,このサイクルを回すのにコンピュータを活用した。当時私の指導教官であった伊谷純一郎先生は,私がコンピュータを持参することにはかなり否定的な意見であった。私がコンピュータに入るような,アンケート的な決まり切ったデータを取ってくるのではないかと危惧されたのであろう。しかし私は,植物名,親族関係,畑の空間的配置,村の人々の発話などのデータを,その場での工夫をしながら取ることにとりあえず成功した。(この要旨では紙幅の関係上,具体的な話は省略する。)

 このように具体的に分析を加速する工夫をすると同時に,「やり方は工夫するものなのだ」「その場で変えてもいいのだ」ということを粘り強く教えるというのもまた,必要なことだろう。私はかつて,研究室の先輩の「(分析に使う)指数なんか自分で考えたらええんやで」という言葉に目を開かれた記憶がある。もちろん,学生の適性にあわせて考えないといけないことだが,教える側も,学習IIの困難さにもかかわらず,それでも何か工夫はあるという信念をつねに心に抱いておくべきだろう。