第13回コロキアム 「異分野間のフィールドワークの共通性と違いについて:政治学と霊長類学のフィールドワークの現場から」

「霊長類社会学において観察とはなにか-観察者の感情移入と霊長類社会の多重的「理解」について」
 黒田 末壽(滋賀県立大学名誉教授)

1 発表の趣旨

 日本の初期の霊長類学は、方法とも言い難いレベルの方法から仮説設定と目標まで、サルを<人間を見るように見る>ことが中心にあった。自然物や現象を<人間を見るように見る>ことは、人間に備わった普遍的な能力であり、相手を主体として<詳細に見る>ことを可能にする。しかし生物学化した今日の霊長類学では、そのように<詳細に見た>結果も数値に還元されないものは意味をなさない。だが、サルを主体としてみることは、元の目的のようにその社会を見ることにもっとも適した観察法である。以前の発表した<生態的参与観察論>では、サルを<人間を見るように見る>技法の獲得とその威力を述べたが、今回は、そうして得た結果で霊長類社会の複雑な相が記述できることをいくつかの例で示し、その豊かな可能性について議論した。

2 <詳細に見た>観察例

 生態的参与観察は、サルの感覚に自己を重ねる=感情移入して相手の世界に入り、その行為を詳細に見る方法である。その結果の例として、まず、多様な意味に使われるボノボのロッキング・ジェスチャー(Kuroda 1984)の分析と発達について述べた。
 つぎに、チンパンジー、ボノボの食物分与の観察に適用し、分与の消極性を「惜しみ」ととらえ返すことにより、彼らの食物を巡る交渉が理解できること、チンパンジーやボノボにすでに「価値」、「所有権」などの基本が備わっていること、食物分与と社会的地位とのリンクを明快に説明できることを示した(黒田1999)。

3 行為の意味の複雑性

 ほとんどの研究者は、生態的参与観察をおこなってサルを<詳細に見て>いるが、観察結果を繁殖成功度等に数値変換する過程で、その豊かな結果の多くを捨ててしまう。これに対して、伊谷純一郎は、個体の行為や交渉に社会集団の構造を見るという考え方で社会のレベルで観察結果の分析をおこなった。伊谷は社会構造を形成する行為として、とりわけ個体の<自制>を重視する。彼の平等原則論もチンパンジー社会論も<自制>概念なしに成立しない。こうした伊谷の議論を、<詳細な観察>の観点から補完する議論をいくつかおこなった。

3.1 平等原則社会の矛盾構造

 チンパンジーのアルファー雄の優位性は不安定で、不断の優位性の誇示をするだけでなく、自分の支持者をつなぎ止めるために劣位者にサービスをし、「公平に」接する。アルファー雄の優位さが不安定なのは、「劣位者が反抗する恐れ」があるということであり、それは個体関係の根本が対等であることを意味している。
 つまりチンパンジーのアルファー雄は、①優劣関係が根本で否定される場Eで、②その否定である優劣関係を作り維持する(Eの否定=A)、③そのために、劣位的サービスないし平等の確認行為をする((Eの否定)の否定=notA)ということをやっており、加えて優位のディスプレイも間断なくおこなう。
 したがって、優位を保つためには、優位性の誇示とその否定を不断におこなうことになる。A→A+notA。
 つまり、Eという場では、Eの否定を作り出すには、そのまた否定(すなわちnotA=E)とセットになって(あるいはそれを通して)しか出来ない。そのことはEの否定もEの影響から逃れられない、つまり、Eが全体の隅々も規定していることが再認できる。これが平等原則社会の性格であり、不平等原則社会では見られない矛盾の構造である。
 もし、目的は手段を包合するとすれば、
 E⊃ (Eの否定)(=A) ⊃((Eの否定)の否定)(= notA) 
 要するに、アルファー雄(の地位)の存続は自己否定を含むことで維持される。では、もし、A=Aで押し通すアルファー雄が出現したらどうなるか?E空間ではAは常にnotAでバランスがとられて安定する。したがって、Aのみのアルファー雄は存在できないと予測できる。それがE=平等原則社会である。タンザニアのゴンベストリームに出現した圧倒的な力をもつアルファー雄、ゴブリンが仲間に殺されたことは(Goodall1990など)、このことに適合する。

3.2 観察者のリアリティと対象にとってのリアリティの接近

 人間行為と同じくチンパンジーやボノボの行為も、その否定が含まれてはじめて成立するような矛盾に満ちている。そして、観察にも、観察のレベルで観察事項の意味を完成するために類似の構造がある。
 <詳細に見る>と、ボノボもチンパンジーも食物を他者に渡すことを<惜しむ>。多くの研究者はこの消極性ゆえに、チンパンジーやボノボの食物分与に大きな意味を与えない。しかし、<惜しみ>ながらそれでもなお、分与することに注目すれば、ボノボたちの自己の欲求の否定(断念)が見いだせるし、それによってその「社会交渉」が、研究者が考え出した架空物ではなく、彼らにとっても現実であることが認識できる。そうすると、<惜しみ>と評価する<否定性>は、かえって自己の手放しがたい食物を他者に与える決意(=自己の欲求の断念)を示し、ボノボやチンパンジーの「社会関係の開き」を示す能力の証拠に反転するのである。
 <逸脱>も同じような意義をもつ。
 ボノボチンパンジーの食物をめぐる交渉では、持たざる者が奪おうと思えば出来なくもないのに、それをしない。これは<自制>に他ならないといえそうだが、それだけでは明瞭ではない。また、伊谷によれば、自制こそが秩序を生み、社会構造が出現する。自制は、個体の様子をよく見ていると分かるようにもなるが、他人に伝わる観察データとして提示できない。そこで、私が頼った根拠が<逸脱>である。自制が出来ない子どもや低順位個体、さらには、日頃は他個体から奪うことがない個体でさえ、美味なものに「つい手が出てしまった」というような場面がある。そうして、自制の存在がその否定行為によって観察者の前に浮かび上がり、ボノボやチンパンジーは、普段は「我慢」しているのだと<意識>のレベルに接近することが可能になる。この自制が食物分与の交渉を成立させるのであり、「所有」といってよい「個体とものの関係の<社会的承認>」を出現させるのである。
 逸脱や自制はやはり、A=A+notAの構造をもつが、観察者にとっても同様の構造をもって<詳細な観察>を可能にするのである。同じようなことは、霊長類のある行為が手段と目的の位置を入れ替わるときにも生じる。
 このように、サルが意識する主体であることを前提にし、<詳細に見る>ことによって、霊長類社会は人間社会と同じく矛盾を含んで成立するシステムであることが帰結する。それによって、人間社会と霊長類社会の比較がいっそう進むと考えられる。