『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』
3. 経済と社会のモノサシ ----- 開発を妨げていないか
Q43: 今度赴任する海外支店には、イスラーム教徒の職員も多いようです。職場での注意事項は何ですか。

A43: たいていの日本人は、中東にでも赴任しないかぎり、イスラーム教徒の部下を持つことなどない、と考えているようです。しかし現実には、たとえば東南アジアのマレーシアやインドネシアだけで1億数千万人のイスラーム教徒がおり、これらの国に赴任すれば、確実と言っていいくらいイスラーム教徒と共に働くことになります。また、アメリカやヨーロッパでも、さまざまな生産・ビジネスの現場でイスラーム教徒の移民が働いており、気づいてみればイスラーム教徒が自分の下で働いている、ということも珍しくありません。インドにしても同様です。

いわゆるバブルの時代には東南アジアや世界各地に多くの日本企業が進出しましたが、バブル崩壊後は、生産規模の縮小や撤退といった話題ばかりが取り上げられるようになりました。特に1997年の「アジア通貨危機」以降は、マレーシア、インドネシアに代表される東南アジア・イスラーム世界の事務所や工場をたたみ、プラントを白紙に戻す企業も増えているようです。とはいえ、今後のことを少し長いタイムスパンで考えるなら、日本がこれらの国々と生産・通商にわたる関係を全面的に絶ってしまうことはまずあり得ないでしょう。また、日本の規制緩和が進めば、国境を越えた人の往来がより活発になり、オフィスに座っていても、前や隣の席でイスラーム教徒の仕事仲間が働いている、という光景が稀ではなくなるかもしれません。

それはさておき、ご質問の、イスラーム教徒の多い職場での留意点とは何でしょうか。

手前味噌で恐縮ですが、いちばんいいのは、この本全体を熟読していただくことだと思います。本書には、イスラームの教義から日常生活の細部(特にVVII章)に至るまで、可能なかぎりの情報が網羅してあります。イスラーム教徒が相手となれば、彼らの考え方、生活様式を知ることが第一ですから、まず本書を熟読して下さい。

ただ、職場でイスラーム教徒と向き合う場合には、特に知っておいた方がいい情報もあります。以下では、日本企業に限らず、イスラーム教徒を雇用した企業で実際に起こった事例を参考に、職場での注意事項を考えてみましょう。

ふつう多くの日本企業が心配するのは、断食と一日五回の礼拝が生産性に与える影響です。実際、ラマダーン月の断食は作業効率を20%程度下げてしまうとも言われています。これは、断食のために休日を取る社員がいること(インドネシアの例)、空腹の結果集中力が低下することなどによります。フランスの自動車組み立て工場では、かつてアラブ人出稼ぎ労働者から「ラマダーン月にはベルト・コンベアの速度を落としてほしい」旨の要望が出され、経営者側もこれを認めました。結果としてはサボる人間がいなくなり、作業効率が上がったそうです。これなどは参考になる対応例でしょう。

一方、礼拝は作業にあまり影響しません。日本では、礼拝時間になるとイスラーム教徒が一斉に礼拝するという誤解がありますが、実際の礼拝時間には相当なはばがあります。(Q63参照)。職場内に礼拝所を設ける必要はあっても、作業効率に関する心配は無用でしょう。

次に、労働者個々との関係では、相手のメンツを潰さない配慮が必要になります。よくキリスト教世界は罪の文化、日本は恥の文化などと言われますが、イスラーム世界も恥の文化です。人前で恥をかくことは耐えがたい苦痛を当事者に与えますので、大勢を前に罵倒するようなことは避けて下さい。いらぬ怨みを買うだけです。

また、イスラーム教徒は往々にして仕事より家庭を大事にしますが(Q89参照)、この点は彼らの方がむしろ人間的と考えて、快く認めてあげるべきでしょう。部下を招く時も家族ごと招待し、家族ぐるみの付き合いをしておけば、いざという時に助けてくれるはずです。

マレーシアなどでは、工場労働者の多くが若い農村女性なので、多くの工場が専用バスによる送迎を行っています。これによって両親も安心し、労務管理も楽になるわけです。もちろん、工場内でのセクハラは大きなトラブルを生みます。厳しい監督が必要でしょう。

以上いろいろと書いてきましたが、現実には「案ずるより産むがやすし」とも言います。実は、日本人にとって初めから違うことがわかっているイスラーム教徒相手の方が、価値観が同じと考えがちな仏教徒相手よりトラブルは少ないのです。あなたの海外勤務が実り多きものとなることを願ってやみません。
line
Q&A TOP第1章目次第2章目次第3章目次第4章目次第5章目次第6章目次第7章目次