飯塚正人(いいづかまさと)プロフィール

専攻分野: イスラーム学、中東地域研究
専攻地域: アジア・アフリカを中心としたイスラーム教徒の居住地すべて
取得学位: 文学修士(東京大学)
TEL: 03-5974-3475(研究室直通)
FAX: 03-5974-3838(飯塚宛て明記願います)
E-mail: masato@aa.tufs.ac.jp


1960年9月26日 神奈川県平塚市の病院で生まれる。
*生後間もなく同県秦野市の実家に定着。丹沢山麓に広がる水のおいしい町で、かつての産業はたばこと落花生の栽培だった。最近ではカーネーション栽培が盛んである。つまり、神奈川県と言ってもチョー田舎。
1965年4月1日 私立西秦野幼稚園入園。
*基本的に対人恐怖症の幼稚園嫌いで、しばしば登園拒否を起こすも、なんとか卒園。ただし、対人恐怖症は小学校3年くらいまで続き、学級会で「賛成です」と発言しただけで、担任教師が両親に報告してくるほどだった。先生、ご心配をおかけしました。
1967年4月1日 神奈川県秦野市立西小学校入学。
1973年3月31日 同小学校卒業。
*この間、日本商工会議所の珠算検定1級と他団体の初段位を取得(伯父が珠算塾を経営していたため)。競技会を荒らしまわって、賞状だの賞品だののコレクターとなる。6年時には、公式に暗算で神奈川県の小学生ナンバー1に.....生涯で最も輝ける時代だったかもしれない。ちなみに、30歳を過ぎて知能に限界を感じるまでは、6桁までなら暗算でいけたため、ほとんど電卓を持ったことがなかった。トシによる衰えは、まずこのあたりから感じるものらしい。

なお、4年生の頃、王・長島に果敢に立ち向かう平松政次のピッチングに魅せられ、以後かなり熱狂的な大洋ホエールズ(現横浜ベイスターズ)ファンとなる。この時から優勝まで苦節28年。耐えることを覚えた。
1973年4月1日 神奈川県秦野市立西中学校入学。
*ほとんど卓球部にいただけの三年間。朝と放課後、さらに土日にも練習があった。この頃の生活スタイルが影響しているのか、今でも遊ぶのはあまり上手でない(と思う)。ふつうの人の5倍くらい酒をたしなむ程度で、休みはたいてい家で寝ている。
1976年3月31日 同中学校卒業。
1976年4月1日 「名門」神奈川県立平塚江南高等学校入学。
*友人に恵まれ、理想的な学園生活を送る。ただし、この頃からどうも理科系の勉強にアレルギー症状が出始め、改善を見ぬまま今日に至る。

なお、1978年のスペイン・ワールドカップ「イタリア−ブラジル戦」をテレビ観戦して以来、フットボールの魅力にはまる。
1979年3月31日 同高等学校卒業。駿台高等予備校に進学(?)し、受験浪人生活に入る。
*家からお茶の水までおよそ2時間。毎朝6時10分の小田急電車に乗って通った。会社員になったら悲惨だな、と思い始めた直接のきっかけはまさにこれ。非人間的な小田急の混雑がなかったら、研究者になっていなかったかもしれない?
1980年4月1日 東京大学教養学部文科3類入学。
*蓮實重彦助教授(現東京大学総長)がたまたまフランス語初級の担当だったのだが、同じクラスにもうひとり「飯塚」という名の女子学生がおり、同助教授は学生を当てる時すべて「君」づけで呼ぶことから、私だけが他の学生の2倍当てられる羽目になり(「飯塚君」と呼ばれても飯塚さんは答えない!)、予習がたいへんだった。そのわりに、フランス語が上達しなかったのはなぜ?
1981年4月1日 川崎市多摩区生田で趣味のひとり暮らしを始める。
*学部2年の時に東欧史研究を志し、当該分野を専攻する教官のゼミに参加したつもりが、なぜかアラビア語を学ぶ羽目になった。要するに、無知による勘違いである。いかに勉強していなかったか一目瞭然だが、人生何が幸いするかわからない(拙稿「思想研究者の軛」を参照)。
1982年4月1日 東京大学文学部イスラム学専修課程進学。
*新設の学科だったため圧倒的に文献資料が不足しており、手に入ったのはイスラーム思想史上の超大物による著作のみであった。この結果、あまりアラビア語も読めないのに、卒業論文段階からイスラーム思想の超大物と向き合わざるを得ず、膨大な数の先行研究と格闘、四苦八苦する。アラビア語とペルシア語、さらに英仏独語の研究文献を使った演習もあり、ほとんど遊ぶ暇はなし。週に1〜2日は徹夜で予習していた覚えがある。ろくなもんじゃなかった。
1985年3月1日 初めてエジプトに行く。
*研究対象にほとんど悪い印象を持たなかったため、大学院進学を最終的に決意。
1985年3月31日 東京大学文学部卒業(文学士)。
*卒業論文は「ムハンマド・アブドゥフ神学における自由意志と行為」。正統的なイスラーム神学史研究だった(と当時は思っていた)。

なお、ムハンマド・アブドゥフについて知りたい方は  ココ  をクリック。
1985年4月1日 東京大学大学院修士課程入学。
*思わず苦笑いしてしまうほど、長い長い肩書き「東京大学大学院人文科学研究科宗教学宗教史学専修(イスラム学専攻)修士」を得る。ふつうの履歴書で、この肩書きが1行に収まったことはない(どうしようもなー)。生活は学部生時代と変わらず。
1988年3月31日 同大学大学院修士課程修了(文学修士)。
*修士論文は「ムハンマド・アブドゥフの「教育」思想」。ただし、この論文で扱ったのは「教育」という名の政治思想であった(拙稿「オラービー運動期のムハンマド・アブドゥフ」を参照)。

ところで、論文提出直前の2週間はほぼ完全な徹夜だったが、この間ちょうど14kg痩せたのには笑った。私の場合、1晩寝ないと1kgやせるらしい。もっとも、体重は修士論文提出後1週間で元に戻った。やはり無理なダイエットは身につかないということか。
1988年4月1日 東京大学大学院人文科学研究科第1種博士課程進学・休学。
1988年5月9日 在エジプト・アラブ共和国日本国大使館専門調査員として現地に赴任。
*上司と同僚に恵まれ、エジプト内政分析担当として快適な毎日を送る。当時も今もエジプト内政上最大の関心事はイスラーム運動の動向であり、この勤務をきっかけに現代イスラーム運動の研究を始めることにもなった。当時、私が夜な夜なカラオケ・パーティーを開いているという噂が学界で広まったらしいが、むろん事実無根である。確かに、アフリカ大陸に最初にレーザーデスク・カラオケを持ち込んだのは私だし、数年後ススキノのカラオケ・スナックで歌った時にはママが名刺を持って現われ、「ウチで歌手として働きませんか」と誘われる事件が起こった。しかし、これは努力の結果ではない。「天才」というものだと思う。
1990年4月1日 東京大学大学院人文科学研究科第1種博士課程に復学。
1992年4月1日 東京大学文学部助手に採用(イスラム学)。
*大学という所はふつうイメージされるよりもはるかに雑用が多い職場である。助手は一応文部教官ということになっているが、この職場にいた2年間は午前10時から午後6時までの勤務時間中に研究ができた日は1日もなかった。もっとも、基本的に週休3日、もとい自宅研修3日ではあったが。
1994年4月1日 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助手に異動。
*研究を主たる職務とする幸運に恵まれたが、この年までAA研の教官研究室にはエアコンがなく、我慢比べのような夏を過ごした。原稿の催促に来た編集者が長居できず、すぐに帰ってくれたこと、環境に同情して追及の手を緩めてくれたのには助かったけれど。
1994年11月11日 いわゆる「助手投入」制度により、エジプトへ出発。
*拙稿「イスラーム学研究者のエジプト調査雑感」を参照。
1996年9月1日 英マンチェスター大学に移動。
*同大学中東学科の客分となり、研究室をもらってイギリスの研究事情やマンチェスター大学所蔵写本などを調査する。

また、この間、マンチェスター・ユナイテッド・フットボールクラブのかなり熱心なサポーターとなる。ただし、レッズ(Man.Utd.の愛称)の地元だからマンチェスター大学を選んだわけではない。誤解のなきよう。
1997年4月1日 AA研に新設された情報資源利用研究センターの助手に配置換え。
1997年11月19日 日本テレビの『ルックルックこんにちは』に生出演。
*同月17日に起こったエジプト・ルクソールの外国人観光客襲撃事件(日本人10人を含む)を解説。なお、事件の背景などについては拙稿「1300の屍の果て。暴走したイスラーム集団」を参照されたい。
1998年1月1日 アジア・アフリカ言語文化研究所助教授に昇進。
1999年4月1日 同研究所言語文化基礎部門助教授に配置換え。
*年度初めにあたって「近現代アラブ・イスラーム研究ホームページ」を開設する。ただ、今のところ文字ばかりで色気も何もないのが、我ながら悲しい。近いうちに進化するといいのだが。
line