新入所員自己紹介・思想研究者の軛

思想研究者,と言っても哲学や宗教に関わる思想を研究する者に限った話であろうが,彼らには「永遠」への志向が断ち難く存在すると思う。人類史の中でいっとき流行しても,百年もすれば誰も見向きもしなくなるような思想。思想研究者は普通そんなものには関心を示さない。研究者である以上,自己の研究対象が語るに値しないと考えている者などいないのかもしれないが,それにしても思想研究者は特別なのである。思想研究者は,自身が真理と考える思想を己よりも高いレベルで展開した思想家か,自分の環境・才能からは決して生じ得ないであろう思想の持ち主に憧れる。わかりやすい思想家は駄目なのである。存在とは何か,世界とは何か,そんな問題に関心を持ち,研究者にまでなってしまう人間は,この上なく傲慢であると言ってもいいのかもしれない。

大学2年の時,途方もない誤解からアラビア語を始めた。当時は哲学かバルカン・東欧史を学びたいと思っていたのだが,前者はともかく後者はどこから手をつけていいものか皆目見当もつかない。そんな時,1年時に東欧のユダヤ人問題を講じていた西洋史の教官がゼミを開くと知った。なぜそのゼミがアラビア語なのか不審に思わぬわけではなかったが,東欧史研究の糸口が見つかれば,と出席したわけである。問題の教官が中東専攻だったことは間もなくわかる。一方,中途でやめるわけにいかなくなったアラビア語の予習はキツ過ぎた。怠け者は考える。これだけ苦労したアラビア語・・・・アラブ史でも専攻しようかな,と。

しかし,1982年は特別な年であった。日本初のイスラム学科が東大文学部に開設された。必修のアラビア語は一応やってあるし,自分が入る年に学科ができるというのもアッラーの思召しかもしれぬ。行き当たりばったりの性格そのまま,進学を決断するのは早かった。当時も今も,東大には歴史は東洋史,人類学は文化人類学といった役割分担がある。イスラム学は専ら思想関係を扱うことになっていた。思想研究者になったきっかけも,こうしてふりかえってみると偶然に過ぎない。

卒論を書く頃になってあたりを見回すと,周囲は人類の知的遺産と言っていいような大思想家たちと格闘を始めていた。もともと哲学を専攻しようと思ったくらいだから,こういう話は嫌いではない。しかし,時はちょうどイスラム復興運動台頭の真っ只中。現代のイスラムにも関心があり,卒論では近代エジプトの改革思想家を扱うことになる。しかし,彼の思想は中世の大哲学者などに比べるとわかりやす過ぎた。冒頭述べた通り,わかりやすい思想は思想研究者を魅きつけない。故井筒俊彦教授は,近代以降真に独創的なイスラム哲学者は現れなかったと言い切ったが,これは事実である。自分の進む道に確信が持てないまま,エジプトへ向かったのは1988年春であった。

Hに会ったのは,その年の秋だったと思う。当時,アラブ世界最大のイスラム復興組織ムスリム同胞団の若手幹部だった彼は,初めて会った時からその独特の人なつこい笑顔で迎えてくれた。当時から今まで,同胞団は体制に取り込まれてしまったが故に研究に値しないとする説があるが,現実にHと付き合ううち,彼らが明日投獄されるかもしれぬ身で運動を続けていることを知った。なぜ,そうまでして彼らは戦うのか。思想研究から宗教社会学的関心へ移行したのは,おそらく同時代人としてそれを見極めたいという思いからだったと思う。さして新味もなく独創性もない現代イスラム思想のために,なぜ人は戦えるのか。思想に対する問い方が転回した瞬間であった。

むろん,思想研究者の軛から解放されるにあたって,Hとの出会いが決定的だったなどと言えば嘘になろう。現代イスラム運動への関心が最初から存在しなかったなら,Hと出会うこともなかったはずなのだから。しかし,現代イスラム思想研究の意義について「思想研究者」に尋ねられる時,思い出すのはきまってHのあの笑顔なのである。

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