『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』
3. 経済と社会のモノサシ ----- 開発を妨げていないか
Q42: ドイツでのトルコ人襲撃がニュースになりましたが、ヨーロッパのイスラーム教徒の現状は。

A42: 旧ソ連とトルコのヨーロッパ領を除いても、ヨーロッパには一六〇〇万〜一七〇〇万人のイスラーム教徒(ムスリム)が住んでいます。このうち八〇〇万〜九〇〇万が東ヨーロッパ、残りが西ヨーロッパの住民です。東ヨーロッパに住むムスリムの大半は、数百年にわたるオスマン帝国のバルカン支配期(Q15参照)に改宗したムスリムの子孫で、バルカン諸国独立後もこの地に留まった人々です。今日でもアルバニアやボスニア=ヘルツェゴビナではムスリム住民が多数派ですが、ほかにも、たとえばブルガリアに八〇万のイスラーム教徒がいます。彼らは土地のキリスト教徒と長い共存の歴史を築いており、ボスニア内戦のような悲劇は起こり得るにしても、比較的うまく土地の空気になじんできたと言えるでしょう。キリスト教徒の方も、むやみにムスリムを恐れたり、差別したりすることはないようです。

一方、西ヨーロッパに住むムスリムのほとんどは、中東やインド亜大陸、アフリカからきた出稼ぎ労働者とその家族です。一九五〇年代以降、西欧先進国は高度成長期を迎えましたが、そこでは第二次世界大戦の影響などから労働力が著しく不足しており、外国人労働者が組織的に導入されました。フランスには北アフリカの、ドイツにはトルコの、イギリスにはインド亜大陸のムスリムが大勢やってきます。彼らは製造業のほか、特にヨーロッパ人の嫌がる建設業や清掃業に従事しました。西欧諸国から見ればムスリムは安価な労働力であり、ムスリムの側も本国よりはるかに高い賃金で働くことができたため、このシステムは両者にとって好都合でした。

しかし、ムスリム出稼ぎ労働者を取り巻く環境は、一九七三年の第一次オイルショックを境に激変します。長びく経済不況の中で、西欧諸国は外国人労働者の受け入れを停止したのです。ムスリム労働者に残された道は帰国するか、ヨーロッパに留まるか、どちらか一つでした。そしてこの時、彼らの多くは定住の道を選び、家族呼び寄せを始めたのです。この結果、西欧には突然巨大なムスリム・コミュニティーが出現することになりました。今日では、フランスの二五〇万を筆頭に、ドイツに一八〇万、イギリスに一五〇万、その他いくつかの国々にも数十万単位のムスリムが住んでいます。

ムスリムに定住を選ばせた最大の理由は、本国の経済不況でした。一九六〇年代以降、彼らの母国は軒並み激しい人口爆発に見舞われており、彼らが帰国しても就職できる保証はなかったのです。もっとも、西欧諸国に残ったムスリムを待っていたのも楽な生活ではありませんでした。彼らの大半は低賃金の肉体労働者に過ぎず、低収入ゆえに劣悪な生活を強いられたのです。やがて彼らは、開発から取り残されヨーロッパ人が住まなくなった都市の一角に集住するようになります。子供たちが成人すると、今度は彼らの就職難が問題になり始めました。貧困、失業、ヨーロッパ人によるいわれなき差別と偏見。こうした状況の中で、「第二世代」からは非行や犯罪に走るものも出てきます(実際、西欧諸国民の多くは「ムスリム=テロリスト」と固く信じているのです)。

このままではいけない、という激しい危機感を背景に、八〇年代以降は、イスラーム道徳を強調するタブリーグなど諸組織が急速に勢力を拡大します。すでにムスリムの集中居住区にはモスクが建てられ、情報交換や相互扶助、イスラーム教育の場となっていましたが、この頃になるとモスクの周辺にイスラーム関係の書店や食料品店も立ち並び、イスラーム的な生活を実践する条件が整いました。パリのアラブ・ストリートはその典型といえるでしょう。さらにイスラーム的生活への欲求は、ついに公立学校でのイスラーム教育を望むまでになります。

この時期はちょうど、西欧諸国の失業問題が悪化した時期にあたりました。「イスラームが好きなら国に帰れ。ムスリムがいなければその分雇用も増える」。そんな排外的風潮が人々の間に広がります。もともと民族意識が強いうえ、冷戦後旧東ドイツ人とトルコ人が職を奪い合う羽目になったドイツでは、特にこうした主張が支持されやすく、襲撃事件にまで至ったのです。
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