『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』
1. 世界中に広がるイスラーム ----- 紛争の種をまいているのか
Q15: 旧ユーゴスラビアの内戦で話題になったモスレム人というのは、どういう集団なのですか。

A15: 内戦前の旧ユーゴスラビアには、あわせて400万近いイスラーム教徒(ムスリム)が住んでいました。その約半数は、新たな内戦の勃発によって,現在世界中の注目を集めているコソヴォ(欧米諸国による和平案をセルビア側が拒否し続けたため、1999年3月25日からNATO軍のユーゴ空爆が始まっている)などに住むアルバニア人ですが、残りの大半はモスレム人です。彼らはセルボ=クロアチア語を話し、外見もセルビア人、クロアチア人と変わりません。実際、彼らはセルビア人、クロアチア人と同じ祖先を持つ「兄弟」なのです。にもかかわらず、モスレム人はムスリムとして独自のアイデンティティーを形成してきました。それゆえ旧ユーゴスラビア当局も彼らの独自性を認め、セルビア人、クロアチア人とは異なる一つの「民族」として遇してきたのです。イスラーム信仰だけを根拠に、しかも他のムスリムとは別個の存在として、国家が「民族」を認めた例は世界でも稀で、類似の存在としては中国の回族があるに過ぎません。

セルビア人やクロアチア人など南スラブ諸族が旧ユーゴスラビア地域に定住したのは、6世紀末から7世紀前半のことと言われています。もともと共通に近い言語を持つこれらの民族が、それぞれのアイデンティティーを得たきっかけは、9世紀末にキリスト教に改宗したことでした。クロアチア人はのちのカトリックに、セルビア人は東方正教にそれぞれ改宗したのです。しかし、彼らの一部はさらにその後、イスラームへと改宗することになりました。15世紀にセルビアとボスニア=ヘルツェゴヴィナがオスマン帝国に征服された結果です。オスマン帝国はイスラーム法に則って信仰の自由を認めましたが、特にボスニアに住むセルビア人、クロアチア人の間から自発的にイスラームに帰依する者が続出しました。ムスリムには免税特権があった上、オスマン帝国の支配層として出世することもできたからです。ここに、セルボ=クロアチア語を話すムスリムが生まれました。

1878年にボスニアがオーストリアに併合されてからも、ムスリムの多くはこの地に残りました。折から南スラブ民族主義が全盛を迎え、20世紀に入ると、セルビア人やクロアチア人はムスリムを自民族内に取り込もうとします。これに対しムスリムはあくまで自己の独自性を主張し、宗教面・文化面での自治を要求しました。もっとも、こうした要求に周囲は耳を貸さず、第二次世界大戦の初め、ボスニアはセルビア、クロアチア両勢力により事実上分割されてしまいます。さらに大戦中ナチスの後押しで樹立されたクロアチアのファシスト政権は、ムスリムにセルビア人33万人を虐殺させました。セルビア人勢力もこれにテロで応え、数十万人に及ぶクロアチア人とムスリムが殺されています。

大戦後に成立した新生ユーゴスラビアは、民族間の怨念を克服すべく、諸民族の平等に基づく連邦制を採用しました。この過程で、セルボ=クロアチア語を話すムスリムは「モスレム人」という民族名を与えられ、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの多数派となったのです。92年3月に内戦が勃発するまで、ボスニアではモスレム人(44%)、セルビア人(31%)、クロアチア人(17%)が互いの文化を尊重し合い、うまく共存してきました。しかし、クロアチア内戦から転戦してきたセルビア人私兵よる「民族浄化」の蛮行は、「殺さなければ殺される」極限状況を生み、血で血を洗う三民族の領土争奪戦が250万を越える難民、20万の死者を出してきたことは周知の通りです。モスレム人自身も一枚岩ではなく、北西部のビハチを拠点とするアブディッチ派はセルビア人勢力と結んでボスニア政府に対抗しました。95年の和平協定に基づき、現在は停戦が実現していますが、集団レイプを含め激しい殺し合いを繰り返した民族間の怨念は深く、NATO軍の駐留によってかろうじて平和が維持できている状況です。
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