『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』
4. こころの飛翔、知識の伝統 ----- 科学と両立しないのか
Q61: イスラームは科学の進歩をどう考えているのですか。

A61: 今日では、イスラーム教徒(ムスリム)の大半が科学の進歩に条件つきで賛成しています。神が創造した宇宙を分析することは神の本質を知る道であり、科学技術の発展こそ神の意志と考える。けれども、イスラームの信仰や倫理を害するような科学の成果は絶対に認めない。これが現在、イスラーム世界の主流をなす立場と言っていいでしょう。

こうした態度をムスリムが取るようになった背景には、近代科学とイスラームの根本的対立を棚上げして、科学を受け入れてきた歴史があります。西欧近代科学はイスラーム文明の学習から始まりましたが(Q58参照)、両者が一九世紀に「再会」した時、すでに近代科学とイスラームの間には否定しがたい世界観の対立が生じていました。何より、近代科学はイスラーム信仰の根本とも言うべき「世界の創造と終末」や「来世」といった概念を認めてはいなかったのです。この世界(現世)には始まりも終わりもない。人類が生まれようが滅びようが、この世は永遠に続いていく。これが近代科学の時間観念です。最後の審判の日、現世が終わって来世がやってくると説くイスラーム思想(Q52参照)との対立は明らかでしょう。このため、一九世紀のムスリムにとって、近代科学を学ぶべきかどうかは大きな悩みの種となりました。

けれども、近代科学を拒否していたのでは、いつまでたってもムスリムが欧米に追いつくことはできません。やがて「理性と啓示、科学とイスラームは矛盾しない」と説く一群の思想家たちが現れ、彼らの努力の甲斐あって、二〇世紀半ばには科学の進歩を肯定するムスリムが多数派となりました。もっとも、先に述べたとおり、こうした思想改革はイスラームと近代科学の根本的対立を解消するものではなく、対立を棚上げしたまま科学技術の成果だけを取り入れる試みだったと言えます。この結果、近代科学の「真理」でも、明白にイスラームの教えに反する議論は認めないという態度が一般的となりました。ダーウィン進化論の拒否はその典型です。生命が数十億年前ある種の偶然によって生まれ、進化を重ねてヒトまで来たとする理論は、「神がアダムを創造した」というコーランの教えと真っ向から対立します。このため、イスラーム世界の多くの国々では、今日でもダーウィン進化論の教育・研究が許されていません(もっとも、多くの国々では進化論そのものを禁じながらも、ピテカントロプス以降のヒトの形態的変化や、進化論に基づく動物分類図などを教科書に載せています)。

進化論は、近代科学の「真理」をイスラームが拒否せざるを得ない例ですが、より現代的に、目下欧米や日本でも問題になっている科学の「進歩」について、イスラームはどう考えるのでしょうか。ここでは、特に人工授精や臓器移植など、医学に関わる問題を取り上げ、イスラームの立場を考えてみたいと思います。

医学の進歩に対するイスラームの基本姿勢は生命の尊重であり、世界の大勢と変わりません。したがって、輸血や心停止した遺体からの臓器移植はほぼ問題なく認められます。ただ、脳死を死と認めるかどうかは意見の分かれる所です。現在イスラーム世界で最も権威ある法学者集団はエジプトのアズハル機構ですが、その頂点に立つ現総長は脳死肯定派、他の指導者たちは否定派です。この一事をとっても、この問題の難しさが理解できるでしょう。けれども、この混乱はイスラームに根ざすものというより、脳死という新しい死の概念にとまどう世界共通の事態と考えた方がいいように思います。七世紀に下されたコーランは当然、脳死の是非になど触れてはおらず、現在の議論百出も無理からぬ所なのです。

これに対し、人工授精に関わる問題は、イスラーム特有の立場を示すものとして注目されます。一九七二年のリビア修正刑法は、人工授精を行った者への罰則を定めていますが、イスラーム世界の大勢は婚姻関係にある夫婦間の人工授精は認める方向にあります。問題は夫婦以外の精子や卵子を用いる場合と精子と卵子が夫婦のものであっても出産を妻以外の女性が行う場合で、こうしたケースについては、イスラーム法学者の大半が否定的なようです。これは、イスラーム法が血のつながりを重視し、血のつながりを持たない者、妻以外の女性から生まれた者を家族とは見なさない原則に立つためです(実際、イスラーム法は養子を固く禁じています)。

ここに見られるように、イスラームは今後も科学の進歩を肯定しつつ、個々の成果についてはイスラーム法に照らして判断していくものと思われます。
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