『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』
1. 世界中に広がるイスラーム ----- 紛争の種をまいているのか
Q5: ユダヤ教とイスラム教はなぜ千年以上も敵対しているのですか。

A5: 結論からいうと、ユダヤ教とイスラームが千年以上も敵対してきたというのは、今世紀最大の大嘘です。こんな嘘を本気で信じているのは、多分「人の好い」日本人と欧米の一般大衆くらいのものでしょう。そもそも「ユダヤ人」自身がこんな嘘を信じてはいません。イスラエルのテルアビブ大学付属ディアスポラ博物館は、「ユダヤ人」の苦難の歴史を伝える世界最大の展示機関ですが、そこでも「ローマ帝国やキリスト教徒に比べれば、イスラーム教徒(ムスリム)ははるかに寛容な支配者であった」旨の解説を読むことができます。「ユダヤ人」を差別・迫害してきたのは誰よりもヨーロッパのキリスト教徒だったのです。

「ユダヤ人」の苦難の歴史は、古代ローマの手で聖地エルサレムを追放された時に始まります。四世紀に入ってローマ帝国がキリスト教化されると、彼らはいよいよ厳しい迫害にさらされることになりました。キリスト教徒にとって「ユダヤ人」はイエスを殺害した仇敵にほかならず、最も忌むべき存在だったからです。そこでは「ユダヤ人」憎悪に基づくさまざまな嘘や噂がデッチあげられ、彼らに対する差別・迫害が心理的に正当化されました。十字軍華やかなりし頃、「ユダヤ人」はイスラームのスパイとして迫害されたのです。「ユダヤ教とイスラーム千年の戦い」どころではありません(ちなみに「ユダヤ人」という呼称自体、人間を「ユダヤ人」とそれ以外とに分けて考えるキリスト教的世界観の反映です。ムスリムは彼らをユダヤ教徒としか考えません)。

これに対し、イスラームとユダヤ教はすっとそれなりの友好関係を維持してきました。ムスリムはユダヤ教徒が人頭税(ジズヤ)さえ納めれば、信仰の自由を認める政策を採ったからです。ムスリムが大征服に乗り出しエルサレムを奪ったことにより、ユダヤ教徒は聖地に戻ることができました。エルサレムはメッカ在住の預言者ムハンマドが一夜にして訪れ天に昇った(ミゥラージュ)場所とされ、イスラームにとっても第三の聖地ですが、ムスリムはエルサレムを独り占めしませんでした。エルサレムはユダヤ教徒の魂の故郷ともいうべき「神殿」の建っていた場所であり(「嘆きの壁」はその遺構だといわれます)、キリスト教徒にとってもイエスの十字架の死と復活の聖地です。イスラームはエルサレムを三つの宗教共通の聖地と認め、居住と巡礼の便宜を図ったのでした。

しかし、こうした状況は一九世紀に入ると一変してしまいます。当時、ヨーロッパにシオニズムという運動が現れました。「故郷パレスティナ」に植民地建設を夢みる「ユダヤ人」の運動です。ヨーロッパ列強はこれを後押しし、やがてイスラエルを建国させました。「ユダヤ人」の植民地さえあればヨーロッパの「ユダヤ人」を追い払うことができる。さらに中東におけるヨーロッパ支配の拠点にもなるだろう。そう考えられた結果でした。しかし「ユダヤ人」が大勢やって来れば、現地住民との間に土地や職をめぐるトラブルが起こります。また、狂信的ユダヤ教徒がエルサレム、特に旧神殿地域の独占を図り、アクサー・モスクに放火したりしたこともムスリムの反発をかいました(近いうちに地図を掲載します)。「ユダヤ教とイスラーム千年の戦い」というプロパガンダは、こうしたトラブルの真相を隠し、あたかも対決が必然であるかのごとく見せかけるために考案された世紀の大嘘だったのです。そしてこの嘘はいまも、パレスティナ問題の本質を隠蔽する装置として執拗に唱えられ続けているのです。

アルメニア教徒(おまけ):東方教会の一つアルメニア教会の信徒。教義的には単性論派。カルゲドン公会議を欠席。典礼にはアルメニア語を用いる。およそ350万人がアルメニア共和国とその近辺に、50万人が中東諸国にいるといわれる。
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