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ダウ船とよばれる平底の帆船があり、大いに利用されていました。ダウ船はモンスーンなどの季節風を利用して航海していました。冬は北から南へ(中国→東南アジア、ペルシア湾→アフリカ東岸)、東から西へ(東南アジア→アラビア半島)、そして夏はこの逆方向で航海し、往復していたのです。港湾都市ではこの季節のリズムにあわせて市がたち、そこから海で運ばれてきたモノ・人が陸路へと向かいました。
主要な航路としては、アラビア半島からインド洋を東に向かい東シナ海に到達するルート、インド洋を南西に向かいアフリカ東海岸に到達するルート、地中海東岸からイベリア半島に到達するルート、があげられます。
インド洋は長い間イスラーム教徒たちが支配していたと言っても過言ではありません。
9世紀の文書ですでに、ペルシア湾を出てセイロン、マレー半島、インドシナ半島東部を経て中国の広州へいたる航程が記されています。遠距離海運に成功した商人は巨万の富を築いたともいわれ、海運業者のサクセス・ストーリーと船乗りたちのほらをまじえた自慢話の上に『千夜一夜物語』の有名なシンドバードの冒険が構想されたのだと思われます。海のシルクロードともいわれる中国とアラビア半島を結ぶ航路はまた、香辛料の道(スパイス・ロード)であり、陶磁の道でもありました。多数の中国陶器の名品が今日イスタンブルのトプカプで見られるのもこの航路があったからこそ可能なのです。
東アフリカのタンザニアなどで話されている言語にスワヒリ語というのがありますが、この「スワヒリ」はアラビア語で沿岸を意味するサワーヒルという語に由来すると考えられています。アフリカ産の象牙、乳香などの香料、そして「黒人奴隷」がダウ船に載せられてアラビア半島まで運ばれました。象牙などはさらに東の中国方面へも売られ、黒人奴隷はアッバース朝の時代には南イラクで農業労働に携わっていました。
アフリカ東海岸とアラビア半島をつなぐルートはさらにアフリカとインド亜大陸を結ぶルートとなりました。ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰からインドに到達した時も船にイスラーム教徒が乗り組んでいたといいます。そして19世紀になるとこの航路は大英帝国の蒸気船が植民地アフリカとインド間を往来するところとなりました。
地中海は古代ギリシアやローマの時代から海上貿易が行われ、さまざまな海戦の舞台となっていることはご存じでしょう。イスラーム教徒は、キリスト教徒やユダヤ教徒と入り交じってネットワークを構成していました。近代までは、地中海を航行し交易していた商人・船乗りたちに、信仰にかかわらぬ共通のメンタリティーや商慣行があり、造船技術なども共通でした。ボッカチオの『デカメロン』からもこの様子がうかがわれます。
海運の発展は交易ルートのみならず巡礼(Q66参照)路の確保と拡大につながりました。ことに東南アジアからは船に乗らずに巡礼をすることは不可能でした。マラカ王国の年代記には15世紀末にメッカ巡礼をした伝説的主人公がでてきますが、近代に入りイギリスやオランダの汽船会社が便船をだすようになると東南アジアからの巡礼者の数は飛躍的に伸びました。イスラーム暦1332年(西暦1914年)には巡礼者の半数がオランダ領東インド(今日のインドネシア)からやってきたというほどです。皮肉なことに、オランダの汽船会社が巡礼でもうける一方、聖地で仕入れた物品を販売して得た利益やアラビア半島でのワッハーブ主義との接触がインドネシアの反植民地運動や民族主義運動を直接・間接に助長してもいたのです。 |