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中国とローマを結ぶ絹の道、ラクダの隊列が逆光の中で砂丘を歩いて行く、こんな光景が日本人の「シルクロード」イメージとして定着し憧憬の念をかきたてるようですが、絹の交易は後のイスラーム・ネットワークによる交易の規模から見れば、ごく細々とした前段階、あるいは一支流であると言うべきでしょう。イスラーム教徒たちは、アフロ=ユーラシアを横断して、物資・情報を交換し、商人・軍隊・知識人が定期・不定期に往来できる壮大なネットワークを成立させたのです。
イスラームは「砂漠」の宗教ではなく、むしろ「都市」の宗教であり、都市の存立に欠かせない通商・往来を保全する性格が強いことがつとに指摘されています。イスラーム世界の拡大は、一方ではイスラーム法の支配する「イスラームの家」をひろげることでしたが、もう一方では気候風土や文化慣習の異なる諸地域間のネットワークの確立を目指すことでした。「イスラームの家」の領域内では幹線道路、駅、隊商宿(キャラヴァン・サライ、フンドゥク)などの施設と治安組織が整い、公正な取引が可能となる、と考えられており、イスラーム法支配領域の拡大と通商路の確保は結びついていたのです。
栄華を誇ったアッバース朝の都バグダードでは日用品から奢侈品にいたるまで多様な「商品」が取引されていました。第三代カリフの時代のバグダードの市では、エジプトのリネン、装身具、シリアのガラス器、金属器、ペルシアの絹、中国の陶磁器、絹、香料、中央アジアの瑠璃、織物、奴隷、北欧・ロシアの琥珀、蜂蜜、毛皮、奴隷、などが集められていたといいます。「奴隷」には驚くでしょうが、奴隷身分出身の軍人がスルターンになった例(マムルーク朝)などもあります。食料品についても、穀物、種々の果実、ナツメヤシ、オリーブなどが商われていました。
これらの商品取引の媒体となったのはディーナール金貨とディルハム銀貨でした。銀はマー・ワラ・ン=ナフルやホラーサーンで採掘して精錬し、金はナイル川上流のヌビア地方やスーダンから入手しました。また、アラブの商人たちはアフリカ西海岸で栄えていたガーナ王国にも達し塩と交換に金を得ていました。これらの貨幣の流通範囲は広範で、スウェーデンにあるヴァイキングの遺跡からもザクザクでてくるそうです。
ラクダなどを利用した陸上輸送は沿岸都市からは海上交通(Q40参照)と、また、ユーラシアの内陸部では川を利用した運輸とリンクしていたようです。毛皮や琥珀などはヴォルガ川やドニエプル川を下って、ロシア深奥部・バルト海沿岸、さらにはスカンディナヴィアからイスラーム世界へもたらされたのです。
イスラーム・ネットワークはその末端で非イスラーム教徒の支配する「異域」と接することで物流を豊かにしていたわけですが、イスラーム世界の領域内でも非イスラーム教徒(ユダヤ教徒やキリスト教徒)はネットワークの構成員としてなくてはならない存在でした。カイロで発見されたゲニザ文書はユダヤ教徒たちがいかにイスラーム世界で活躍していたかを教えてくれます。
アッバース朝の衰退後ほつれかけていたネットワークは13世紀に登場した新しい勢力(モンゴル)によって再編されました。しかし再びネットのあちこちがほころび、ヨーロッパ人による新しい航路の確保と産業革命にともなわれた「大転回」にのみこまれていったのです。 |