『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』
2. 法と政治のしくみ ----- イスラーム体制は時代錯誤か
Q18: イスラーム世界にとって湾岸戦争とは何だったのでしょうか。

A18: 一九九〇年の夏クウェートに侵攻したイラク軍と、これに鉄槌を下すべく集結した多国籍軍が、翌九一年に戦った湾岸戦争は、イスラーム世界全体に多大な負の遺産を残しました。しかし、その大半はいまだ人々の内側にこもっている段階で、この戦争の意味を過不足なく指摘するにはなおしばらく時間が必要です。そこで以下では、イスラーム世界の多極化の露呈、パレスティナ問題の「終焉」、政治イデオロギーのインパクト喪失といった諸点に的を絞り、湾岸戦争の意味を考えてみたいと思います。

この戦争に至る過程で、イスラーム諸国会議をはじめ関係諸国・諸団体が行った調停はいずれも失敗し、武装した異教徒が聖地を擁するサウディアラビアに入ることの是非やジハード宣言をめぐっても(Q19参照)、イスラーム諸国の態度の多極化が表面化しました。イスラーム世界では、イラクの行為に当惑しながらも、イスラエルに対する大国のダブル・スタンダードへの批判が広がっていきます。イラクへの空爆が始まると、各国のイスラーム主義勢力は一斉に戦争反対のキャンペーンを展開し、ヨルダン、マグリブ諸国、パキスタン、マレーシアなどでは大規模な抗議行動が起こりました。そこではサッダーム・フセイン大統領が英雄に祭り上げられたのです。イスラーム主義は草の根の反覇権・反米感情に訴えて大衆を動員したのでした。しかし、イスラーム主義者が一致してイラク擁護に回ったわけではなく、また、大衆動員に成功した国でも政策に実質的な変更をもたらすことはできませんでした。イラクの呼びかけに応じた義勇兵も、多国籍軍の圧倒的な軍事力の前ではものの数ではなかったのです(とはいえ反米感情は今も根強く、九八年のアメリカによるイラク空爆警告で増幅されています)。

湾岸戦争に勝利した多国籍軍の主体は言うまでもなくアメリカ軍でしたが、湾岸産油国やエジプト、シリアなどもこれに加わりました。一方、イエメンやPLOはイラク寄りの態度を示します。この結果、イエメン人出稼ぎ労働者五〇万人がサウディアラビアを追われ、戦中戦後を通じて一七万人のパレスティナ人がクウェートを脱出することになりました。また、湾岸産油国がPLOへの財政援助を停止したことから、戦後窮地に陥ったPLO主流派はイスラエルとの和平を模索するようになります。こうして「アラブの大義」とされてきたパレスティナ問題は公然と打ち捨てられ、すでに形骸化していたアラブ統一の理念もここに完全に否定されたのでした。

PLOが見捨てられ、イスラエルとの和平に走ったことは、イスラーム世界全体に大きな衝撃を与えました。一部特権階級の支配するイスラーム諸国が相互に対立を繰り返す中で、パレスティナ解放闘争だけは民衆レベルの民族解放が実現され得る場として、人々の心の支えとなっていたからです。湾岸戦争以前、知識人たちはパレスティナ解放闘争の正しさ、持たざる者の権利実現といった思想を疑うことはありませんでした。民族解放や社会主義の理念は正しい。それなのになぜそれが実現できないのか。湾岸戦争前にアラブ知識人が取り組んできた思想上最大の課題は、この一点にあったと言ってもいいでしょう。パレスティナ問題の「終焉」は、旧ソ連の崩壊とあいまって、こうした理念そのものを無力化してしまいました。

戦争遂行過程で、イラクのサッダーム・フセイン政権がパレスティナ解放、社会正義(湾岸の腐敗した君主国に対する貧者の闘争)、異教徒に対する聖戦といった思想を次々に繰り出したことも、政治イデオロギーの無力化に貢献しました。サッダーム・フセインはイスラーム世界の二〇世紀を支えてきたすべての思想を歪曲し、消費し、戦争のために利用したのです。結果として政治イデオロギーは人々を引きつけるインパクトを失い、思想の時代の終焉が囁かれるまでになりました。「金がすべて」の風潮が一気に広まり、持てる者と持たざる者の格差が大きく広がったのも湾岸戦争の負の遺産と言えるでしょう。
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