『イスラーム世界がよくわかるQ&A100』
1. 世界中に広がるイスラーム ----- 紛争の種をまいているのか
Q12: アフガニスタン内戦の激化はイスラームの宗派間の争いのためだといいますが、どういうことですか。

A12: アフガニスタンの現状は誠に憂慮すべきもので、広範囲にわたって国土が破壊され、おびただしい数の難民を出し、なおも飢餓と無政府状態の混乱から抜け出る見通しはたちません。どうしてこんな悲惨なことになったのか、とアフガニスタンの歴史をふりかえると、「宗派間抗争」には還元できない複雑な事情がうかびあがります。

今日のアフガニスタン領域内の住民は、宗派のみならず、言語、民族(部族/氏族)、居住地域、スーフィー教団などによって分かれており、統一は困難でした。さらに大国ロシア・イギリスの勢力争い、隣国パキスタン・イランの思惑、東西対立などが集団間の亀裂を深めてきたのです。

パシュトゥーン人(アフガーンとも自称する、言語はパシュトゥーン語)が一九世紀以来政治的優位を保っていますが、タジク、ハザーラ、バローチ(以上イラン系言語)、ウズベク(トルコ系言語)など他の言語集団もいる上に、パシュトゥーン人自体もドゥッラーニー、ユースフザイなどの部族に分かれ、さらに有力部族ドゥッラーニーの中でバーラクザイなど七氏族に枝分かれしています。

南の都市カンダハールはスィンド(パキスタンの一地方)への交通の要衝であり、西北部の都市へラートは今日のイラン東北部とともにホラーサーン地方に属していました。また、首都のカーブルとその周辺地域はパキスタン西部とともにパシュトゥーンの地を形成していました。このようにアフガニスタンの主要都市は互いに連絡はあっても、長らく別々の地域に分かれていたのです。

シーア派は人口の約二割、その大半はハザーラ人などでアフガニスタンの西部に住んでいるといいます。スンナ派とされる人々のなかにも、所属するスーフィー教団の違い、パキスタンからの思想的・政治的影響力などをめぐって、意識の相違が見られます。

一八世紀から二〇世紀の初頭までパシュトゥーン人の国家は、ロシアとイギリスの侵入・干渉・駆け引きのなかで揺れ動き、三度のイギリス=アフガン戦争を経て、一九一九年に独立を回復しました。六三年まではパシュトゥーンのムハンマドザイ族出身の王の下で近代化が進められましたが、六〇年代に入ると政権が安定せず、左翼が台頭し、七三年には社会主義をめざすアフガニスタン人民民主党(PDPA)が結成されました。この党は七八年のクーデター(サウル革命)で政権をとりましたが、内部対立や地方反乱が起こり、七九年の首都での反乱を契機にソ連軍がアフガニスタンに進駐しました。西側諸国やイスラーム諸国はこれを侵攻であると見なして抗議し、日本も八〇年のモスクワ・オリンピックのボイコットに加わりました。

やがて、PDPAとそれを支持するソ連軍の支配に抵抗する運動がアフガニスタン全体に広がりました。この抵抗運動は「不信仰者」と戦う聖戦(ジハード)である、との見方が次第に有力となり、イスラーム諸国から義勇兵が送られました。抵抗運動への参加者は、出身集団や社会背景により抵抗の契機は異なっても皆ムジャーヒディーン(聖戦士たち)を自称し、戦士を殉死と見なして、士気を高めました。このムジャーヒディーン(いわゆるアフガン・ゲリラ)諸勢力は、八九年のソ連軍撤退、九二年PDPA支配崩壊の後、連合して暫定政権を成立させました。しかし「聖戦」の最中には表面化しなかった出身集団への忠誠心や亡命した元国王一族への支持・不支持、議会選挙のあり方など、さまざまな相違から連合は破綻し、大統領になったジャミーヤティ・イスラーミーのラッバーニーの一派と首相になったイスラーム党のへクマティヤールの一派の対立が激化しました。

この政治対立は武装抗争へと発展し、タジク人でラッバーニーの右腕とされるマスウード司令官、北部のウズベク勢力を率いるドストム将軍、さらには九四年にカンダハールから破竹の勢いで進軍しカブールまで制圧したターリバーン(神学生集団、パシュトゥーン人中心)らの間で戦闘が続いています。また、亡命中の元国王の一族(パシュトゥーン人)やシーア派諸集団の動向も錯綜しており事態は予断を許しません。国連などによる和平努力もなかなか実を結びません(1998年春現在)。

なお、内戦が、アフガニスタン一国の問題ではないことにも目を向けるべきでしょう。「支援」と称して陰に陽にさまざまなグループの武器調達を助けているアフガニスタンの外の諸勢力の政治的思惑も、内戦を激化させる要因となっているのです。
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