オスマン帝国時代の古地図デジタル化

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はじめに

 AA研共同研究プロジェクト「東地中海地域における人間移動と「人間の安全保障」」(2004-08年度:主査・黒木英充)は、科学研究費補助金基盤研究(A)「新たな東地中海地域像の構築」(2004-07年度・研究代表者・黒木英充)の成果も取り入れ、地中海・オスマン帝国領とその周辺地域に関するオスマン帝国時代の古地図のデジタル化とその公開を進めています。
以下、18世紀半ばから第一次世界大戦後トルコ共和国初期にかけての時期の古地図を掲載します。マウスを使って地図上を自在に動き回り、また拡大縮小機能を駆使しながら、地名の特定や港・通商路の確認など、様々な用途に役立てて頂ければ幸いです。タイトルに を付した地図のデジタル化は上記科学研究費の成果の一部です。

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地図の利用方法

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オスマン帝国時代詳細地図

地図をクリックすると別画面で詳細地図をご覧になれます。

ペルシア・オスマン地図

ペルシア・オスマン地図

1740年頃
52.0cm×90.0cm
ペルシア帝国とオスマン帝国アジア領域地図
作製者:Reiner and Joshua Ottens (オランダ)
個人蔵


原タイトルはPERSICUM IMPERIUM, TURCICUM IN ASIA..西はエーゲ海から東はインダス川流域までの広域をカバーする。西アジアから中央アジアにかけての主要都市間の交易ルートなど確認することができよう。Ottens兄弟(Reiner 1698-1750, Joshua 1704-1765)は父の代からの地図作りを家業として受け継ぎ、全世界にわたる地図帳を15冊も刊行し、作製した地図の数は1,000点以上にも及んだ。

マルマラ海地図

マルマラ海地図

1784年
52.0 cm×103.8 cm
縮尺 33万508分の1
1776年の現地調査に基づいたマルマラ海・ダーダネルス海峡・コンスタンティノープル地図。(フランス語、ただしオスマン語の書き込みあり)
個人蔵

本地図は、王政期フランスの最後のコンスタンティノープル大使シュワズル=グフィエ(1752-1817、在任1784-91)に献呈されたもの。古代ギリシアに対する強い憧れをもった伯爵シュワズル=グフィエは、1776年にシャベール(Chabert)侯爵率いる東地中海調査隊に画家や建築家らと参加してギリシアやエーゲ海沿岸地域を踏査し、その成果を1778年にVoyage Pittoresque de la Grece 第1巻として発表した。正確な描写による美しい景観図を多数掲載した本書は大評判となり、以後版を重ねた。本地図は、シュワズル=グフィエが大使に着任した1784年版に収録された地図。アルザス生まれの地理学者カウファー(Franz Kauffer, 1751 ?-1801) が実際の地図作製の中心になった。本図のフランス語で記された地名には逐一オスマン語表記の書き込みがなされているが、その筆致は練達の書家によるものであることをうかがわせる。フランス語による地図の原タイトルとその説明文は次の通り。
Carte de la Mer de Marmara, du Canal des Dardanelles & de celui de Constantinople levée sur les lieux en 1776. Dédiée à son Excellence M. le Comte de Choiseul-Gouffier Ambassadeur du Roi près la Porte Ottomane, Mestre de Camp, Commandant du Régiment de la Couronne, l’Un des Quarante de l’Académie Française, de l’Académie Royale des Inscriptions & Belles-lettres & de celle de Peinture et de Sculpture. Par les S.rs Kauffer Ing.r Géographe et Foucherot Ingénieur des Ponts et Chaussées de France. A Paris Chez les auteurs rue Pagevin No.16.
1784 Extrait du Voyage Pittoresque de la Grece

【付属図:ボスポラス海峡地図】

  • 1784年
  • 14.5 cm×45.5 cm
  • 縮尺 8万4950分の1
  • 同じくフランツ・カウファーが三角測量で作製したボスポラス海峡地図
  • 個人蔵

フランス語による地図タイトルとその説明文は次の通り。
Carte de la ville de Constantinople et du Canal de la Mer Noire levée trigonométriquement en 1776 par F. Kauffer ingénieur. Cette Carte se trouve aussi chez le Sr. Delamarche Géographe rue du Foin St. Jacques au Collége de Me.Gervais où est transporté le fonds de Géograhie ancienne, sacrée et moderne des Srs. Sanson & Robert de Vaugondy et le Fonds de Globes et Sphéres du Sr. Fortin.

ボスポラス海峡地図

ボスポラス海峡地図

1819年
51.0 cm×86.0 cm
縮尺6万4000分の1
ボスポラス海峡とその周辺地域の地図(フランス語)
個人蔵


シュワズル=グフィエは、コンスタンティノープル大使着任以降、イスタンブルを初め各地の調査をいっそう精力的に行った。多くの考古学者や画家、地理学者、土木工学者らが彼のもとに集い、大使館内に現地型文化サロンが形成された(現在、大使館建物を受け継ぐフランス総領事館の敷地内にあるフランス・アナトリア研究所の起源を、ここに見出すことができよう)。なかでも上記のカウファーは、イスタンブル市内やその周辺をくまなく調査し、スルタン・セリム3世(在位1789-1807)のお抱え地図官となった。シュワズル=グフィエは、好評を博したVoyage Pittoresque de la Greceの第2巻目として、イスタンブルを初めとするオスマン帝国中心部の記述に意欲を燃やしていたが、貴族身分であったためフランス革命の余波を受けて1791年に大使を解任された。革命政府の下での迫害を恐れてロシアに逃れ、1802年に恩赦を受けてパリに戻るまで滞在した。このロシア滞在期とフランス帰国後の時期が、第2巻目の準備期間となった。1801年にカウファーが死亡したため、本地図の作製はボカージュ(Jean Denis Barbi du Bocage)(1760-1825)に引き継がれた。シュワズル=グフィエ自身も1817年に死亡したため、本の刊行作業もボカージュが継続した。こうして本地図を含む Voyage pittoresque dans l’Empire ottoman, en Grèce, dans la Troade, les îles de l’Archipel et sur les côtes de l’Asie-mineure, 2 vols, Paris, 1782-1822 が世に出たのである。地図の原タイトルと説明文は次の通り。
Plan topographique du Bosphore de Thrace, ou Canal de Constantinople et de ses environs, jusqu’á la source des rivières qui se jettent dans le port de Constantinople, avec les Iles des Princes et la partie de la Côte d'Asie qui en est voisine, dressé sur plusieurs plans particuliers et entr'autres sur celui du Canal de Constantinople ébauché en 1776 et continué en 1786 et années suivantes jusqu'en 1801, par Fr. Kauffer, ingénieur d'abord attaché à M. Le C.te de Choiseul-Gouffier et ensuite au service de la Porte Ottomane.
J.D. Barbié du Bocage 1819.
Voyage pittoresque de Constantinople

イスタンブル市街図

イスタンブル市街図

1819年
51.0 cm×61.8 cm(全体サイズ51.0cm×84.0cm)
縮尺2万分の1
イスタンブルとヨーロッパ側・アジア側郊外の地図(フランス語)
個人蔵


1776年以来、40年以上にわたる地図作製のための情報蓄積が反映されたイスタンブル市街の詳細図。主要な建築物はもちろん、路地や民家の存在状況までもある程度把握することができる。ヨーロッパ側東端にあって、スルタンの居所であり、オスマン帝国政府の最高意思決定の場でもあったトプカプ宮殿とその周辺、ヨーロッパ側西端城壁の南端部に位置し、オスマン帝国と交戦状態に陥った国の大使らがしばしば投獄されたところのイェディクレ(七塔城)の部分図を含む。本市街図の情報は、さらに後世の地図に受け継がれることになるが、その一例を本ページ掲載の1843年「オスマン帝国地図帳」XXXVIIのイスタンブル市街図に見ることができる。本図の原タイトルと説明文は次の通り。
Plan de la ville de Constantinople et de ses Faubourgs tant en Europe qu'en Asie, réduit principalement de celui qui a été levé géométriquement en 1776, vérifié et augmenté en 1786, par Fr. Kauffer ingénieur alors attaché à M. le Comte de Choiseul-Gouffier Ambassadeur de France à Constantinople, enrichi de nouveaux détails par J.D. Barbié du Bocage, 1819.

2つの部分図の原タイトルなどは次の通り。
Plan particulier du Sérail du Grand Seigneur et de la partie de la ville qui l’avoisine.

  • 34.0cm×22.0cm
  • 縮尺5714分の1

Plan particulier de Château des Sept-Tours, appelé par les Turcs Iédi-Koulleler, et de la partie des murs de la ville qui de prolonge jusqu'à la Mer de Marmar.

  • 16.8cm×22.0cm
  • 縮尺4000分の1

ウィルド作製パレスチナ・レバノン地図

ウィルド作製パレスチナ・レバノン地図

1840年
100.0cm×66.5cm
縮尺約47万4870分の1
パレスチナのガザからシリアのタルトゥースまでの歴史的シリア南部の地中海沿岸部(英語)
作製者:James Wyld(1812-87)
個人蔵


地図の原タイトルは、Map of Syria Ancient and Modern. 1830年代、この地域はエジプトのムハンマド・アリー政権が派遣した軍の占領下にあり、1840年にイギリスを中心としたヨーロッパ諸国の軍事介入を経てオスマン政権の直轄支配が復活した。こうした東方問題の劇的な展開を控えた時代状況を反映し、本地図の左側(地中海部分)には、宗派別の人口が示されている。ベドウィンをのぞくムスリム86万人、東方正教徒34万5000人、ドルーズ派18万6000人、ユダヤ教徒17万5000人、マロン派10万4000人、ギリシア・カトリック9万8000人、アラウィー派2万2000人、シーア派とヤズィード派1万7000人、アルメニア人6000人、ヨーロッパ人4000人とあるが、この数字の根拠は示されておらず、実情を反映したものとは言い難い。地図中の色分けされた区分のうち1のヤーファー県と3のサイダー県がまとめてアッカー州とされ、2がダマスクス州、4がトリポリ県とされているが、この行政区分も不正確。作製者と同名の父(James Wyld, 1790-1836)も王室付き地理官をつとめたように、Wyld家は代々地図作製に従事した。父Wyldはイギリス陸軍主計総監付き地図官として勤務し、1812年に初めて地図作製にリトグラフ技術を導入し、1830年の王立地理協会(Royal Geographical Society)創立時には中心的な会員として活躍した。本地図作製者の息子Wyldは、1830年から父の仕事を手伝い初め、父と同じく王立地理協会会員となり、王室付き地理官となった。Atlas Modern Geography (1842) ほか世界各地の地図を多数作製したが、顕著な作品は、ロンドンの中心部レスタースクエアに1851年から1862年にかけて設置されたGreat Globeで、これは大型ホールの内部に直径約18mの球体(底面は削った形で)を置き、内壁に山地などを立体化した形で貼り付け地球そのものを体感できるようにしたもの。内部につくられた5階建ての足場から観覧が可能なパビリオンだった。

オスマン帝国地図帳

オスマン帝国地図帳

1843年
地図帳として製本され、各頁の地図の大きさは様々であるが、各頁の紙サイズは52.0cm×34.6cm。
うち地図Ⅰと地図Ⅱは折り込み図。
Ⅰは見開き図、ⅡとⅢは折り込み図
オスマン帝国地図帳(フランス語)
作製者:J.J. Hellert (生没年不詳)
個人蔵


表紙にある原タイトルと出版社名などは次の通り。

Nouvel atlas physique, politique et historique de l’Empire Ottoman et de ses États limitrophes en Europe, en Asie et en Afrique, en quarante Feuilles. Avec un beau plan topographique de la ville actuelle de Constantinople, plusieurs plans des villes les plus importantes de l’Empire, et ceux des sièges et battailles mémorables soutenus par les Ottomans. Dressé sur les documents les plus récents et les plus authentiques, pour servir à l'intelligence de l'histoire de l'Empire Ottoman, de ses démembrements successifs et des évènements politiques accomplis en Orient par J.J. Hellert. Paris, Bellizard, Dufour et C.ie, Lib.es Éditeurs, rue de Verneuil I.bis, à St. Pétersbourg, F.d Bellizard et C.ie au Pont de Police. Londres Bossange, Barthès et Lowell. 14 Great Marlborough Street, 1843. Imprimé chez Thierry Frères.

全部で39葉からなり、その内訳は、

  • オスマン帝国とその周辺の全体図1葉
  • オスマン帝国領土とその周辺地域(イランや中央アジアなど)の部分図23葉(縮尺は様々、また一部その中にカバーする地域の主要都市であるアテネ、メッカ、メディーナ、カイロ、アレクサンドリア、トリポリ、チュニス、アルジェの見取り図も含まれる)
  • オスマン帝国が関係した主な合戦・都市包囲の見取り図13葉
  • イスタンブル市街詳細図1葉
  • ウィーン市街詳細図1葉

である(目次の分類とは表記の仕方が異なるが、本地図帳は主要都市見取り図もそれぞれ一つの地図と数え、40以上の地図と称している)。 地図作成者J.J. Hellert については未詳だが、Joseph Freiherr von Hammer-Purgstall (1774-1856)によるドイツ語のオスマン帝国通史をフランス語に翻訳し、Histoire de l’empire ottoman depuis son origine jasqu’à nos jours(オスマン帝国史:その起源から今日まで)という18巻本を、やはりパリで、本地図帳と同じ出版社から、本地図帳に先立って刊行している(Paris, Bellizard, Barthés, Dufour et Lowell, 1835-1843)。このことから、長大な歴史書と本地図帳とを併せて読者に届け、文字情報と画像情報とを総合した歴史理解を促していたことがわかる。

オスマン帝国軍作製イラク地図

オスマン帝国軍作製イラク地図

1847/48年(ヒジュラ暦1264年)
137.0cm×60.0cm
オスマン帝国軍が実地調査をもとに作成したイラク南部の地図(オスマン語)
一部破損あり。
個人蔵


左上部の説明文:
「オスマン軍将軍ラーギブ・アーガーの特命を受けてバグダード方面に向かった一団のうち、国防省幹部のアリー・ベイ大佐によりバスラ湾からバグダードにかけて作製された地図をオスマン陸軍工科院にて印刷したもの。ヒジュラ暦1264年(1847/48年)。」

中央部を上から下に流れる二本の川のうち、左側がユーフラテス川、右側がチグリス川。右上部にバグダード、二つの川が合流した地点から少し下がったところにバスラがある。左上部に描かれたナジャフ湖と左下部の大きな湖の中間あたり、ユーフラテス川の近くにサマーワの町も見える。遊牧民名も記されている。中央部に3カ所と河口部にいくつか見える直線で囲まれた斜線部は水田。イラク南部の湿地帯の状況を知るうえでも貴重な地図であるといえよう。

オスマン海軍省作製地中海図

オスマン海軍省作製地中海図

1852年9月3日(ヒジュラ暦1268年ズー・アルカーダ月18日)
98.0cm×186.0cm
地中海全域の海港の名称をオスマン語で表記した地図
一部破損あり。
個人蔵


右から左に、上から下への順番で、エジプトのロゼッタ周辺、カンディア(クレタ島北側中央部)、リビアのトリポリ、チュニス、アレキサンドリア、ボムバー(リビア東部)、ハーニア(クレタ島北側西部)、マルタ島とゴゾ島、コルフ島、マルタ島のバレッタ、トリエステ、シチリア島東端、パレルモ、エルベ島、ナポリ、リヴォルノ、ジェノヴァ、ボナ(現チュニジアのアンナバ)、ベジャイヤ、コルシカ島とサルデーニャ島の海峡部、マルセイユ、アルジェ、オラン、ジブラルタル海峡、バルセロナ、マラガ、タラゴナ、カルタヘナ、アリカンテ、ジブラルタル、タンジールの詳細図が枠付きで挿入されている。これら詳細図の縮尺はそれぞれ異なり、マイルにより各図に示されている。本図は、16世紀以来のヨーロッパの地中海図の表現法を踏襲しながらも、各所に挿入された詳細図の対象地域の分布から、オスマン帝国の地中海への関心がうかがえるものとなっている。

ウェラー作製シリア・レバノン・パレスチナ地図

ウェラー作製シリア・レバノン・パレスチナ地図

1858年
95.0cm×48.0cm
縮尺:69万分の1
東地中海沿岸のシリアとパレスチナ主要部(英語)
作製者:Edward Weller(没1884年)
個人蔵


原タイトル:Syria Showing All the Ancient Sites Hitherto Identified In Palestine. 3枚の部分図の貼り合わせ。作製者Wellerについての情報は少ない。ロンドンにて彫版・出版・地図作製に従事し、1870年代前半まで学生向け世界地図などを出版した。本図は1858年刊のThe Dispatch Atlas の一部をなす。アレッポ州に近い領域、沿岸部・内陸部(その境界は北からヌサイリー山地、西レバノン山脈、ヨルダン川とされる)に色分けされているが、この区分は州などの行政区分を反映したものではない。パレスチナ部分に力点が置かれて描かれている。

キーペルト(父)作製オスマン帝国地図

キーペルト(父)作製オスマン帝国地図

1892年
93.0cm×128.0cm
縮尺300万分の1
オスマン帝国のヨーロッパ領域とアジア領域の全図(ただしアラビア半島部を除く)(フランス語)
個人蔵


作成者のヘンリー・キーペルト(ハインリッヒ・キーペルト、1818-1899)は、ベルリン出身の著名な地図作製者。オスマン帝国領のみならず、ポーランドやメキシコ、オーストラリアなどの地図も多数作成した。本図は第2版・全面改訂版で、初版は1884年で、いずれも発行元はベルリンのディートリッヒ・ライマー(ヘーフェルとフォーゼン)出版。

キーペルト(子)作製シリア地図

キーペルト(子)作製シリア地図

1893年
84.0cm×64.0cm
縮尺:85万分の1
シリアとメソポタミア:I(シリア部分)(ドイツ語)
作製者:Richard Kiepert (1846-1915)
個人蔵


原タイトルは Syrien und Mesopotamien zur Darstellung der Reise des Dr. Max Freiherrn von Oppenheim vom Mittelmeere zum Persischen Golf. 作製者Richard KiepertはHenri Kiepert の息子で、1870年にパレスチナとアナトリア地域を旅行した経験を持つ。本地図はドイツのオリエント研究者にして外交官でもあったMax Freiherrn von Oppenheim 博士(1860-1946) の地中海からペルシア湾にかけての踏査旅行の道筋を描いた2枚組のうちの一つ。肥沃な三日月地帯の西半分に相当する。

キーペルト(子)作製メソポタミア地図

キーペルト(子)作製メソポタミア地図

1893年
84.0cm×64.0cm
縮尺:85万分の1
シリアとメソポタミア:II(メソポタミア部分)(ドイツ語)
作製者:Richard Kiepert (1846-1915)
個人蔵


前掲地図と2枚組をなし、本地図は肥沃な三日月地帯の東側半分をなす。

キーペルト(子)作製シリア・メソポタミア地図(合成地図)

キーペルト(子)作製シリア・メソポタミア地図(合成地図)

前掲2枚の地図のデジタル画像を貼り合わせた合成地図。






オスマン帝国全図

オスマン帝国全図

1907/08年(ヒジュラ暦1325年)
152.0cm×130.0cm
縮尺300万分の1
オスマン帝国領とその周辺地域をカバーした大型地図(オスマン語)
個人蔵


オスマン帝国国防省印刷局にて印刷されたもの。左下に3点の部分図あり。右から「アラビスタン半島のバスラ湾とインド洋沿岸部」、「北アフリカ 1450万分の地図」、「ナイル上流部 1450万分の1地図」。なお、「アラビスタン半島」はアラビア半島、「バスラ湾」はペルシア湾のことである。

ルメリ・バルカンの詳細地図

ルメリ・バルカンの詳細地図

年代不詳
68.0cm×96.0cm
縮尺86万4000分の1
オスマン帝国のヨーロッパ側領土とその周辺地域の地図(オスマン語)
個人蔵


作製したのはオスマン帝国国防省地図作製官ディヤルバクルル・ムーサー・アズミー、発行者はイスタンブル市バーブ・アーリー通りのイクバール書店店主フサイン、印刷はイスタンブルのボトン・ガバーイ印刷所。右下部にギリシアとの国境部、左下部にモンテネグロの部分図あり。ギリシアとの国境線の状況から作製年代は1881年以後1914年以前と推測される。

バルカン戦争後のバルカン地図

バルカン戦争後のバルカン地図

1914年(ヒジュラ暦1330年)
73.0cm×121.0cm
縮尺86万4000分の1
バルカン戦争後で、第一次世界大戦が始まる直前のバルカン半島の領域を描いた地図(オスマン語)
個人蔵


地図中の見出しは、「バルカン戦争後のバルカン諸民族の境界線:オスマン帝国ヨーロッパ領域-ブルガリスタン-セルビアとギリシアの国境-マケドニアとトラキア-モンテネグロとアルバニア」。発行者はイスタンブル市バーブ・アーリー通りのイクバール書店店主フサインで、ガラタ(イスタンブルのヨーロッパ側で金角湾北側のヨーロッパ人が多く居住した地区)のカラジャオール印刷所で印刷された。

オスマン語パレスチナ地図

オスマン語パレスチナ地図

1918/19年(ヒジュラ暦1337年)
99.5cm×76.0cm
縮尺:25万分の1
パレスチナの主要部分地図 (オスマン語)
作製者:オスマン帝国軍印刷所
個人蔵


原タイトルは Filastin Kharitasi 「パレスチナ地図」。ガザと死海を結んだ線以北のパレスチナと、ヨルダン川東岸を含む領域をカバーしている。第一次世界大戦直後のパレスチナの都市・村の名前をアラビア文字で一覧できる貴重な地図。前年の1917年にバルフォア宣言が出され、サイクス=ピコ協定が明らかになったことを思い起こしたい。

トルコ独立期国民擁護団作製アナトリア地図

トルコ独立期国民擁護団作製アナトリア地図

1921/22, 1922/23, 1927年
86.0cm×205.0cm
縮尺100万分の1
オスマン帝国末期のトルコ独立戦争から独立直後の時期にかけてのアナトリア地域の100万分の1詳細図(オスマン語)
個人蔵


独立直後のトルコ共和国では、1928年にアラビア文字廃止・ラテン文字導入が決定されたが、その直前の緊張をはらんだ動乱期のオスマン語地図。8枚の地図が合わせて作られている。上側4枚は、左から「イスタンブル」「アンカラ」「トラブゾン」「ヴァン」という見出しが上部余白についている。下側4枚には貼り合わせのため上部余白がないため見出しは不明。その代わりに下部余白の説明文から、少なくとも1921/22年、22/23年、27年という時間幅のある印刷だったことがわかる。

右下:ヒジュラ暦1340年(1921/22年)、国民擁護団地図局イスタンブル印刷所にて印刷。100万分の1地図。
中央2枚:1927年、国民擁護団地図総局印刷所にて印刷。40万分の1地図をもとにした100万分の1地図。
左下:ヒジュラ暦1341年(1922/23年)、国民擁護団地図総局イスタンブル印刷所にて印刷。20万分の1地図をもとにした100万分の1地図。

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