概要


埃及の歴史

 埃及(エジプト)という地名は、古代ギリシア語の「アイギュプトス」に由来しますが、今日、現地の公用語となっているアラビア語では、この地域を「ミスル」と呼びます。ミスルはもともと、七世紀前半のアラブ・イスラーム教徒による「大征服」の際、中東各地に建設された「軍営都市」(アラブ征服者の駐屯地)を意味していたことばで、エジプトの場合は今日の首都カイロの郊外に当時建設された「フスタート」という都市がこれにあたりますが、そこから転じて、やがてエジプトあるいはカイロを指すようになりました。
 エジプトは古代から、カイロ近辺を境にナイル下流の「下エジプト」と上流の「上エジプト」に分かれると考えられており、上下エジプトが初めて統一されてエジプトという国が成立したのは紀元前三〇〇〇年頃のことです。以来二五〇〇年以上に渡って古代エジプト人の建てた王朝が続きましたが、紀元前六世紀の後半以降はアケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王のマケドニア王国、マケドニア系のプトレマイオス朝、ローマ帝国といった異民族の国家がこの地を支配しました。七世紀前半にはイスラームを奉じるアラブがエジプトを征服し、以後エジプト人も徐々にアラブ化、イスラーム化したものの、その後も長くエジプトは外国からやってきた異民族の支配を受け続けたのです。

 一五一七年にはイスタンブルに首都をおくオスマン帝国がエジプトを征服して帝国内の州のひとつとしましたが、一七九八年にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍が突如エジプトを占領すると、この地は大混乱に陥ります。一八〇一年にフランス軍が撤退した後も一種の無政府状態は続きました。この混乱のなかで頭角を現し、権力の頂点であるエジプト州総督まで昇りつめたのが、フランス軍と戦うオスマン帝国軍アルバニア非正規部隊の一員としてエジプトに来ていたギリシア生まれのイスラーム教徒ムハンマド・アリー(1769?-1849年、エジプト総督在位1805-1848年)です。

 彼は自分の総督職就任を実力でオスマン帝国中央政府に認めさせると、日本の明治維新より半世紀早く、いわゆる富国強兵・殖産興業に精力的に取り組み始めました。近代装備を持つ陸海軍を創設・維持・拡大するために、増税や農産物の専売、通商独占といった政策を採り、灌漑システムを修復・拡張して農業生産力を向上させる一方、運河や道路に代表されるインフラの整備を進めたのです。このようにして資金的な裏づけを得たエジプト軍は、アラビア半島に遠征して、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったワッハーブ派を破り、次いでナイル上流のヌビア・スーダンを征服するなど、華々しい戦果をあげていきます。一八二二年に徴兵制を導入して兵力を一気に増強した後、一八三一年にはシリアに侵攻して、迎撃したオスマン帝国軍を一蹴し、シリアとクレタ島、現トルコ領のアダナの支配権を手に入れました。かくてムハンマド・アリーは、東地中海から紅海沿岸に及ぶ広大な東アラブ世界の覇者となったのです。

 けれども栄光は長く続きません。一八三九年、エジプトの独立を宣言して再びオスマン帝国軍を破ったムハンマド・アリーの前に、ヨーロッパ列強が立ちはだかりました。弱体化したオスマン帝国に代わって、いきのいい新興勢力が東地中海を支配し、この一帯の軍事バランスを崩すことは列強の望むところではなかったのです。結局、エジプト軍はエジプト、スーダン以外の地から撤退させられ、十五万と言われた兵力も一万八千まで削減されてしまいます。失意のムハンマド・アリーはそれでも一八四一年、エジプト総督職の世襲だけはオスマン帝国に認めさせ、一九五三年まで続くムハンマド・アリー朝の始祖となったのでした。

 もっとも、ムハンマド・アリーが栄光に包まれていた時代は、多くのエジプト人にとってはいつにも増して厳しい苦難の日々であったと言えます。民衆、とりわけ農民は戦費調達のための重税と徴兵、さらにインフラ整備のための強制労働に苦しみ続けました。今回展示されている図版三〇点をプリス・ダヴェンヌが描いたのは一八四一年以降ですが、この時期はエジプト農民にとって、列強のおかげでようやく一息つけた時期だったと言えるのかもしれません。

埃及の地理

 エジプトはナイル流域に広がる本土とシナイ半島から構成されています。国土の九〇%は沙漠で、ナイルの西にサハラ沙漠の一部である西部沙漠(リビア沙漠)が、東には東部沙漠が広がっています。ナイルにはヴィクトリア湖を水源とする白ナイルとエチオピア高原に水源を持つ青ナイルがあり、二つの流れは現スーダン共和国の首都ハルトゥームで一つになってエジプト国内を北上し、河口に広大なデルタを形成しています。ナイル・デルタはナイルの運ぶ肥沃な土が堆積したもので、かつて東地中海の穀倉と呼ばれたほど豊かだったエジプトの農業生産を支えてきました。気候は典型的な沙漠気候でほとんど雨が降らず、住民の大半はナイル流域に居住しています。








埃及の民族

 

 エジプトは単一民族国家のように見えますが、実際には多くの民族が、歴史のなかでアラビア語を話すアラブとなり、同時にエジプト文化を共有するエジプト人に変わっていったのだと理解すべきでしょう。人口の大半は古代エジプト人の末裔と言われる人びとですが、彼らはアラブ化して古代エジプトの言語を捨ててしまいました。プリス・ダヴェンヌが描いた人びとのなかで、作品12から作品17に見られるファッラーフ(農民)がこれにあたります。作品5に描かれた正規軍の兵士も徴兵されるまでは大半がファッラーフでした。これに対して、おそらくはエジプトがイスラーム世界の一部となった後に、アラビア半島などからエジプトに移り住んだ生粋のアラブの末裔が作品11に描かれた遊牧民です。

 さらにこの時代には、法的にはエジプトと同じオスマン帝国領に属していた他の地域からやってきた「外国人」支配層もいました。作品1に描かれたアルバニア人とオスマン人の兵士や、作品4作品10に見られる貴婦人たちです。加えて、プリス・ダヴェンヌが作品6作品10作品22で描いたアフリカ系奴隷の末裔たちもまた、遅かれ早かれ奴隷身分から解放されて、周囲と同じアラビア語話者、エジプト人となりました。

 とはいえ、古くから現在のエジプト領に暮らし、今日なお自らの言語や文化を完全に捨てたわけではない人びとのことも忘れるわけにはいきません。それが東部沙漠のアバーブダ族(作品18作品19)やナイル上流に住むヌビア人(作品25作品26作品27)です。プリス・ダヴェンヌはエチオピアの戦士を含め、ナイル流域に暮らすこのように多様な人びとを丹念に描き続けたのでした。