鷲尾祐子「走馬楼呉簡吏民簿諸類型の比較検討」

走馬楼呉簡吏民簿諸類型の比較検討

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鷲尾祐子(立命館大学)

本論は「走马楼吴简吏民簿诸类型比较研究」(顾源 译 《中國中古史研究(吳簡專號)》第9卷,2021年12月、上海中西書局)を修正したものである。主要な内容は変えていないが、以下の四点は大きく変更した。

1,一の3、平樂里棨簿の項で、他簿にみえる同一人物の情報を、崔啓龍2020により補う。

2,1により平樂里棨簿には前年の年齢が書かれていることが明かになった。修正前は判断を保留していたが、確定した。戸数53戸の説明も変更した。

3,平樂里簿など「徴発対象戸集計型」類型の簿は、年齢のみならず所属戸にいたるまですべて前年度の簿の書写であると判断した。修正前は、年齢は前年のものだが、それ以外は作成時点の状況を反映しているとしていた。

4,結の部分に、各簿の特徴をまとめた表を入れた。

進渚里戸人公乘陳富年六十八踵兩足(柒6072/図42・1116)[1]
  妻妾年六十六(柒5825/図42・869)
  子男謝年廿八筭一(柒5824/図42・868)
  謝妻取年廿四筭一(柒5823/図42・867)
  男姪唐年七歳(柒5822/図42・866)
 右富家口食五人  筭二  訾  五  十(柒5821/図42・865)
ここに挙げたのは、1996年に湖南省長沙より出土した走馬楼呉簡の諸簡であり、郷里に属する人々を戸を単位として記録した名簿(「吏民簿」と称される[2] )である。これは呉の嘉禾年間に長沙に生きた一般の無名の人々の名簿であり、当時の世帯の状況を知る上で貴重な史料である。
 呉簡には、吏民簿以外にも多様な名簿が見える[3]。それは、国家が労働力の源泉としての人間の管理に力を入れていたことを物語る。後漢末の学者は「治平らかなるは庶功興るに在り、庶功興るは事役均しきに在り、事役均しきは民數周きに在り、民數周きは為國の本なり。『中論』民數篇)と説く。国力の源は人にあり、人の労働力をいかに有効に用いるかが国家の重要課題であった。そして、人間を管理するために、様々な範疇の人々を対象とする名簿が作成されたのである。
 中でも、郷里に属する人々を対象とする吏民簿は、民を管理する制度を知る上で重要である。民を記載した名簿として最初に念頭に浮かぶのは戸籍であるため、吏民簿の存在が認知された際にも戸籍の実物として注目を浴びたが、現在では戸籍とは考えられていない[4]。それでも、吏民簿それ自体が重要な名簿であることは否定できない。民の把握が国家の重大事である以上、郷里の民の名簿の作成は年に一度だけなされたのではなく[5]、また複数の名簿を作って民を管理したのであるし[6]、吏民簿もそのような名簿のひとつであるからである。故に吏民簿は、基層における管理について考察する上での資料としても、重要である。
 しかし、吏民簿の史料化には困難が伴った。その理由の一つは、出土時の状態にある。後述するように、吏民簿のなかには簡冊の状態を保ったまま出土したものも多く、一つの簿についてまとまった量の簡が得られることは、走馬楼呉簡を用いる上での最大の利点である。しかし長年井戸中に廃棄されていたため簡をつなぐ編綴はすべて切れており、その結果簡の位置が乱れてしまっていたのである。さらに、簡の一部が脱落したり、他の簿の簡が混入したりしているため、そのままでは簿全体を把握し難くなってしまっているものが多い。
 もう一つの問題点は、書式の多様さである[7]。吏民簿のばあい、表題が類似しており同類の簿であると考えられる場合でも、各戸の書式や集計は違っていることがあり[8]、同じ簿であるはずなのに書式がばらばらであることもある[9]。書式の違いは、簿の本質的な差異を反映しているのか否か、単に書式を揃える必要がなかったのか、が分からないのである。この問題は、吏民簿の最も本質的な特徴とは何かに関わる。
 以上の課題を解決するために、様々な試みがなされてきた、まずは簿全体の構成を把握するために構成する諸簡をまとめて把握し、各簿を復元・集成することが試みられた(侯旭東2009・2013、凌文超2011・2015、鷲尾祐子2010・2017・2020aなど)。
 そして、簿の本質的な特徴を特定するためには、簿を締めくくる集計によってそれを判断することが重視されてきている[10]。先述のごとく同一簿でも各戸の記載書式が数種類存在することがあるため、各戸の書式によって簿の性格を直接的に判断することは難しい。このため、里・郷の集計に注目し、そこに集計されている事柄は、簿を作成する上で最も必要で重要なことであるとし、そこから作成の目的を考えるのである。すると、だいたいⅠ、里の集計に、徭役に徴発される対象となる戸の数を集計する項目を有する簿、Ⅱ、郷の集計に、人頭税課税対象者を集計する項目が存在し、戸の集計が「凡口×事× 筭×事× 貲×」型である簿、という二類型が存在すると考えられる。
 類型Ⅰは里の簿の締めくくりの部分で、戸口数のみならず、吏や卒・医や工人など特定の徭役に従事する者や、貧困・高齢などの理由で徴発に適さない者の戸の数が集計され、これらを除外して徭役徴発の対象となる戸(定応役民・定領役民などど記載される)の数を表示する項目を有することから、徴発のための簿と考えられている(凌文超2011侯旭東2013・鷲尾祐子2012・鷲尾祐子2020b)(「徴発対象戸集計型」と仮称)。
 一方、類型Ⅱにはこの種の集計は見えない。そして戸集計簡にみえる事・筭や訾が筭賦・口筭銭・大口銭や資産税に関係しており、簿全体の末尾でもこれらの負担者が集計されていることから、賦の徴収に関する簿であると考えられている(凌文超2011)(「人頭税負担者集計型」と仮称)。
このように、集計によって類型を整理することは、吏民簿のおおまかな特徴の把握に資したと考えられる。そして、異なる類型の簿の間には集計以外の相違点も存在するため、今後の課題としては比較によってその相違を検討し、それぞれの特徴を明らかにすることが必要である。また、各類型の簿は別個に作成されたものだが、相互の関連も存在したはずである。本論では、諸類型の比較によって各類型の特徴を明らかに為し、また相互の関係について検討し、吏民簿の本質的な特徴について考察する一助としたい。
 さらに、吏民簿にはもう一つの大きな問題がある。それは、表題などに見える某年と、記載年齢の問題である。侯旭東2013で指摘するように、表題に嘉禾六年と記されている【六年廣成郷簿】と各戸人簡に嘉禾四年と記されている【四年廣成郷簿】[11] には同一人物が見えるが、両簿にみえる各人の年齢差は1歳である。また鷲尾祐子2020aで指摘したように、【六年都郷簿】と【六年小武陵郷簿】[12]には、前年の簿と同じ年齢が記載されていた。つまり、表題などに見える年は作成時点であるのか、あるいは、個々人の年齢は作成時点のそれなのか否かについては、検討の必要がある。そして、記載年齢がいつのものであるかは、名簿の特徴に関わり、その作成目的とも関連すると考えられる。
 以上の問題について考察する端緒として、嘉禾五年の「棨簿」を取り上げる[13] 。棨簿[14]とは何か。「棨簿」と記載された同じ書式(「典田掾某嘉禾五年所主某里魁某棨簿」)の簡が、「竹簡貳」「竹簡陸」「竹簡捌」に見える。本論で取り上げる三つの簿の例のみ挙げる。

舂平里棨簿「□□蔡忠嘉禾[五]……」(陸1423/図15・47)
吉陽里棨簿「典田掾黄欣嘉禾五年所主吉陽里魁胡早棨簿」(陸209/図7・8) (吉・魁・胡は図版と書式により補う)
平樂里棨簿「典田掾區光嘉禾五年所主平樂里魁谷碩棨簿」(陸781/図12・3)(谷は書式によって補う) 
これらは、記載される郷が異なっているにもかかわらず書式が完全に一致すること、従来の吏民簿に用いられる竹簡(はば1㎝程度)よりも幅広のものである点が共通していること(陸1423:24.0×2.0㎝、陸209:23.8×1.7、陸781:24.2×1.8。)、そしてすべて「典田掾某が嘉禾五年に管轄する某里魁某の棨簿」という文言であることなどから、郷で附されたのではなく県廷で附されたものである可能性が高い。郷で附したのであれば、郷によって書式やサイズに若干異なるところが現れるであろうし、郷から縣廷に提出する際に表題として附しているならば、「某郷謹列…」(例:「廣成郷謹列嘉禾六年吏民人名年紀口食爲簿」貳1798。【六年廣成郷簿】の表題 某郷がつつしんで上呈します…)といった書式になるであろう。この竹簡は、縣廷でこれらの棨簿を保管する際に、見出しとして附したものであると考えられる。すべて簡冊の外縁部に位置していることも、あとから付加されたという推測を裏付ける。これらの簡が附されている簿は、里単位で作成され最終的には縣廷に提出されたのであり、そのまま単独で保管されたのである。
 この棨簿は、里単位で作成され保管されているという点で、従来検討されてきた多くの吏民簿【六年廣成郷簿】【四年小武陵郷簿】などと大きく異なる。これらの簿は、すべて郷単位で簡冊となっているからである[15]
 ただし、残存するいくつかの棨簿の大半は、前掲の二類型に同じ特徴を有する。また、舂平里[16]の簿はいつの作成かを明らかにし得るため、前掲の年次と年齢の問題を解決する手がかりとなる可能性がある。
本論では、嘉禾五年棨簿のうち、「徴発対象戸集計型」「人頭税負担者集計型」に該当し、簡冊の状態を保って出土しており全体の構成を把握することが容易である二つの簿を選び、既存の同じ類型の簿との比較をおこなう。最終的には、郷単位で作成された簿を含めて二つの類型を比較し、類型ごとの簿の特徴を把握し、それぞれが何のために作られたものであるかを説明する。これらの作業の準備として、表題の年はいつの時点を指すのかを明らかにするために、まず嘉禾五年舂平里棨簿を検討する。
 棨簿の検討を通して、吏民簿の諸類型間の相互関連について考察し、各類型の特徴について整理したい。
 なお、以後とりあげる棨簿のうち、春平里棨簿と平楽里棨簿については、すでに崔啓龍2019・崔啓龍2020が、検討している。簿の全体構成については、本論もこれらの成果と共通するところが多いが、説を異にする部分もある。異同については適宜説明する。

一、各「棨簿」の構成と特徴
1、舂平里棨簿
 結論から言うと、都郷舂平里の棨簿は、「嘉禾五年の簿」として嘉禾五年に作成されたものであり、各人のその時点の年齢が記載されている。
(1)舂平里棨簿の構成について
構成簡:発掘簡12盆、示意図15(Ⅱa31)を中心に(1377~1385、1391~1392、1403、1412,1414、1601、1602等を除外)、示意図17(Ⅱa33)(1658~1672、1674~75、1677~1696、1713~1714、1764~1770等を除外)、および示意図外の簡(1781)からなる。
全体構成:簡冊の状態を保持している示意図15の諸簡によって、全体の構成を知ることができる(図a)。簡冊の中心に全体の表題(「春平里魁唐升謹列所主黄簿□戸數口食人名簿)[17] 陸1498/図15・122)が残存し、そして外縁部に「里魁唐升白」(陸1413/図15・37)(里魁の唐升がもうしあげます)、という里簿の締めくくりの文言が見え[18]、その間少数の他簿の簡が存在するものの、ほぼ同簿の構成簡が続く。そして外周部に、典田掾の蔡忠が嘉禾五年に主管している簿であることを示唆する見出し簡が見える(「□□蔡忠嘉禾[五]……」(陸1423/図15・47)。示意図15より、里の簿の全体構成を把握することができる。また、脱落した一部の簡が示意図17に残存している。棨簿の見出し簡は縣廷で末尾に附されたと考えられ、また某里魁の棨簿とされているため、この簿は里を単位として作成され、上呈され保管されたものである。
 前掲の表題に各戸の簡が続く。この簿はⅠ故戸・Ⅱ新占戸(新たに戸籍に登記された戸)[19]・Ⅲ本郷民だが貧窮しており雇用されて郷内を転々とし徴発に堪えない戸(「本郷民各貧窮展轉部界誦債爲業(?)不任調役」陸1619。誦債は雇用されることを意味する。崔啓龍2019参照)[20] の三つの部分からなる。
図a
図a
Ⅰ故戸
故戸と新占戸では、戸の簡の書式が異なる。

春平里男[21]陳坑年卅三踵兩足(陸1464/図15・88)
坑男弟兒年廿二踵右足(陸1468/図15・92)       
右坑家口食五人[22](陸1471/図15・95)

戸人簡の書式は、冒頭が里名であり、次に男子・佃吏(1499)・佃帥(1510)・縣吏(陸1527)郡吏(陸1758)などの公的な職務・地位[23]が書かれ、さらに姓名、年齢、障害疾病の順に記されるものである。公職・地位が名前の前に置かれる点は、【六年都郷簿】と同じである[24]。故戸の書式はほぼ統一されているが、筭の書かれているもの(例1488/112など)と、この戸のように書かれないものとがある。
 故戸が列挙されたのち、その集計が置かれる。それは「□□春平里魁□勉所領吏民……(陸1431/図15・55)である[25]。あとに挙げる新占戸の表題とは魁の名前が異なるため、故戸の集計であると考えられる。示意図内の位置も、新占戸の諸簡よりやや内側にある。
Ⅱ新占戸
 故戸の集計につづき、新占戸の表題が置かれる(「魁唐升謹列所主新占……口食簿」陸1420/図15・44)。魁の唐升が主管する新占戸の簿を謹んで上呈いたします、という文言が書かれている。   
これに新占戸各戸の諸簡が続くが、各戸は以前の所属縣によって分類され、別個に配列されている。それは、以下に挙げる「右」からはじまる小計によって明かである。

右一戸口食四人本羅縣界民以過嘉禾三年移來部界佃種過年十二月廿一日占上戸牒(陸1424/図15・48)
右一戸口食三人湘西縣民以嘉禾二年移來[26]部界佃種過年十二月廿一日占上戸牒(陸1386/図15・48)
□□無大小皆占上過年十二月……以列上戸牒(陸1607/図15・231)
右一戸口食四人劉陽縣民以嘉禾三年中移來部界佃種過年十二月廿一日占上戸牒(陸1635/図15・259)
右四戸口食十二人呉昌縣民以嘉禾二年中移來部界佃種過年十二月廿一日以占上戸牒(陸1733/図17・76)
陸1424には、「右一戸、口数が四、もとは羅縣の民であったが、嘉禾三年に郷内に移住して耕作しており、昨年の12月21日に戸牒を申請し(登記され)た」と見える。以下、陸1386は湘西縣、陸1635は劉陽縣、陸1733は呉昌縣、から来た民の戸を右に列挙している旨が記されている。これらは該当する各戸を記載したのちに附された集計であり、新占戸は出身地ごとに配置され、集計されている。
 新占戸各戸の書式は、故戸とは異なる。

大男呂諸年卅六筭一(陸1697/図17・40)
諸男弟中年八歳(陸1698/図17・41)
右諸家口食四人(陸1715/図17・58)
大きく異なるところは、某里からではなく大男から開始する点である。書式はほぼ統一されているが筭が記載されているもの(前掲陸1697)と無いもの(1606/図15・230等)が有る点は、故戸に類似する。
 最後に新占戸の戸数総計が置かれる。魁の唐升(表題と同じである)の主管する舂平里の新占民戸の数と口数が集計されている。、

集凡[27]魁唐升所主春平里新占民合廿戸口食七十八人(陸1638/図15・262)
その内訳が続く。内訳は「其」で始まる諸簡であり、前掲の「右」から始まる諸簡にみえる各分類に対応している。

      其一戸口食四人劉陽縣民移來部界已占上戸(陸1603/図15・227)
      其一戸口食三人湘西縣民移來部界今已上戸(陸1604/図15・228)
      其一戸口食四人本羅界民移來部界已占上戸(陸1605/図15・229)
      其四戸口食十二人呉昌縣民移來部界已占上戸(陸1673/図17・16)
      其□戸……  已上戸牒(陸1676/図17・19)
Ⅲ、本郷民だが貧窮にして部界を転々とし徴発に堪えない戸
 このような戸を他の戸と区別して記載していることは、下の集計により明かである。
 右一戸口食四人本郷民過年……[牒](陸1640/15・264)
下が摩滅して見えないが、次に挙げる集計により「貧窮展轉部界…不任調役」の戸を記載していると考えられる。
凡十二戸口食五十一人本郷民各貧窮展轉部界誦債爲業(?)不任調役□〼(陸1619/15・243)
 つづいて簿全体の集計が存在するはずだが、示意図15・17には残存していない[28]。そしてその後ろに「某里の魁某が申し上げます」という簡が附される(「舂平里魁唐升白」陸1413/図15・37)。この簡より一つ内側の列には、「其」のみ書かれている簡(陸1417・陸1418・陸1419・陸1421・陸1422。陸1416は「民」字のみ)が並ぶ。これらは総集計の内訳を書くためにあらかじめ用意されたのだが、そのまま何も記載されなかったのだろうか。次の簡は、総計の内訳か、前掲1619の内訳のどちらかである。

其十二戸口食五十一人本郷民  展轉部界誦……(陸1618/図15・242)
(2)所属郷・編製時期と記載年齢
(2)-1所属の郷
舂平里の所属する郷は、都郷である(崔啓龍2019が既に指摘している)。【六年都郷簿】と同一人物が複数存在する。
(本簿 →【六年都郷簿】)            

大男周成年七十二踵右足(陸1402/図15・26)→舂平里戸人公乘周成年七十二踵足(柒1705)
〼[潘]有年廿二(陸1551/図15・175)→舂平里戸人公乘潘有年廿二筭一(柒4713)
春平里男子陳之年六十四(陸1479/図15・103)→春平里戸人公乘陳之年六十四(柒6101)
大男五兵年五十二……盲右目(陸1625/15・249)[29]→舂平里戸人公乘五兵年五十二□病(柒6119)
春平里郡吏□習廿六[30](陸1758/図17・101)→舂平里戸人公乘郡吏況習年廿六(柒6123)
春平里男子五貴年六十四踵兩足(陸1517/図15・141)→春平里戸人公乘伍貴年六十四 [踵足](捌159)
(2)ー2編製時期
 前掲の見出し簡に「嘉禾五」と記されており、嘉禾五年の簿として作成されたものである。
 また、前掲「右新占戸」集計から嘉禾五年作成であることが明かである。前掲陸1424には、「右の一戸は嘉禾三年に部界中に移り、過年十二月に戸籍を登記した」とある。すると「過年」(昨年)は嘉禾三年より後であり、つまり四年以降である。本年はそれより一年後になるため、五年以降の作成と判断し得る。そして、次に述べるように、年齢は嘉禾五年のそれであるため、五年の作成であると考えられる。つまり、この簿は嘉禾五年に、嘉禾五年簿として作成されたものである(崔啓龍2019も同様に指摘する)。
(2)ー3記載年齢はいつの時点のものか
 (2)‐1で挙げた諸例に表れているように、舂平里棨簿には【六年都郷簿】と同年齢の同一人物が複数存在する。このように嘉禾六年時点の簿と同年齢であるならば、作成時点の年齢に一年を足して翌年の年齢にしている可能性もある。もし1歳児(新生児)が存在すれば、出生時点の年齢をそのまま記載してることになるため翌年の年齢ではないことが明かになるが、1歳児は本簿の残存部分には見えない。一方、本簿におなじく【六年都郷簿】と同年齢の同一人物が記載されている[31]【五年常遷里簿】[32]には、1歳の者が見える(柒825・柒851・柒868・柒881・柒906・柒914・柒9158など)。出生時点の年齢のままで記載されている者が存在することから、五年時点の年齢に1歳足して次年六年の年齢にしているのではなく、記載時点である嘉禾五年時の年齢を記載していると考えられる 。故に【六年都郷簿】にみえるのも嘉禾五年時点の年齢である。舂平里棨簿にも、嘉禾五年時点の年齢が記載されていることになる。
 つまり、この簿は、嘉禾五年の表題を有する嘉禾五年時点で作成された簿であり、記載年齢も嘉禾五年時点のものである。
(3)類似する簿
本簿には、「徴発対象戸集計型」のような集計は残存せず、また「人頭税負担者集計型」のような集計も見えない[33]。この二類型とは別の種類のものである可能性がある。
以上、舂平里棨簿について検討した。この簿の表題には「嘉禾五年」と記載されているが、これは作成した年を示す。故に、吏民簿において、「某年簿」とされる場合の某年とは、作成した年を指す可能性がある。また、本簿は表題で「黄簿」を自称するが、序で挙げた類型Ⅰ・Ⅱのような集計が見えず、これらとは別の類型に属するであろう。次に、類型Ⅰに分類し得る吉陽里棨簿を検討する。
2,吉陽里棨簿
 舂平里棨簿同様、嘉禾五年典田掾某の見出し簡が附されており(陸209)、嘉禾五年作成の棨簿であることが明かである。里の集計の特徴は、「人頭税負担者集計型」【四年小武陵郷簿】の郷の集計に同じであり、書式は総じて【四年小武陵郷簿】に似る。
(1)吉陽里棨簿の構成について
構成簡:発掘簡12盆。「竹簡陸」示意図14(Ⅱa30)を中心に(1195~1198、1209、1331、1370)、示意図7(Ⅱa23)(249~252除外)、示意図8(Ⅱa24)(263~266のみ)
全体構成:示意図14は簡冊の状態を保持しており(図b)、表題は残っていないが外縁部分に集計と棨簿の見出し簡がある。一部の簡(7枚)をのぞきすべて吉陽の簿であり、示意図14の諸簡により簿の構成の全体像を把握することが可能である。簡冊から脱落した一部の簡は示意図7・8に残存している。棨簿の見出し簡から、里を単位として作成・上呈され保管されたものであると考えられる。
図b
図b
 簡冊の冒頭(示意図内では中央部分)に表題が存在したと考えられるが、残っていない。その後に各戸の簡が続き、末尾に簿全体の集計が配置されたと考えられる。集計は戸口数の集計からはじまり、そのあとで「大口」「筭人」などの人頭税課税対象者の集計が置かれる。

右吉陽里魁胡草領吏民五十一戸口食二百七十一人 (記号)[34] (陸1204/図14・17)
其二百一十三大口(陸1189/図14・2)[35]
其八十四人筭人(陸204/図7・3)

また、この簿と同郷・同一書式で同じ年に作成された嘉禾五年高遷里棨簿[36]に、小口の集計が見える。

其一百七十二人小口  [二][37](陸299/図9・4正、背に「高」の一字が書かれる)

吉陽里棨簿にも小口の集計が存在したと考えられる。
 これらは【四年小武陵郷簿】の郷の集計に類似している。凌文超2011は、当該簿の郷全体を締めくくる集計には、戸口と更口筭錢の集計とが見えることを指摘している。

●右小武陵郷領四年吏民一百九十四[戸]、口九百五十一人、收更口筭錢合□□一千三百卅四錢[38](壹4985)

筭銭はもちろん15~56歳の男女が納付する人頭税である。小口は漢の口銭であり、7~14歳が納めるものである。大口についても凌は人頭税の一種として説明するが、妥当である[39]
各戸の簡の書式;書式はほぼ統一されているが、筭の記載されているものと無いものがある。戸人は某里戸人公乘が冒頭に置かれる書式であり、下段に訾[40]を書く。成員簡は、中段と下段に一人ずつ書かれる書式である。

吉陽里戸人公乘李琕年廿九筭一刑左足  訾  五  十(陸1245/図14・58)
琕男弟加年九歳  琕姪子男養年四歳(陸1254/図14・67)
妻大女與年十六筭一 □小女奇年三歳(陸1255/図14・68)
戸の集計は、「凡」から始まる書式である。

 凡口二事  筭二事一(陸1213/図14・26)
訾を戸人の簡に連記する点と、戸人以外の成員は連記する点、筭の記載が不徹底である点以外は、【四年小武陵郷簿】に同じである[41]
(2)所属の郷と記載年齢
(2)-1所属の郷
 吉陽里棨簿には、【四年小武陵郷簿】【六年小武陵郷簿】と同じ年齢の同一人物が見える。

(吉陽里棨簿→【四年小武陵郷簿】(壹~)・【六年小武陵郷簿】(柒~ あるいは玖~))
吉陽里戸人公乘蔡得年五十一[42] 訾五十(陸215/図7・14)→吉陽里戸人公乘蔡[43]得年五十一筭一(壹10371)
吉陽里戸人公乘鄧角年卅一筭一(略)(陸233/図7・32)→吉陽里戸人公乘□角年卅一(柒3618)[44]
妻大女貞[45]年廿三筭一 姪子男石年四歳(陸1347/図14・160)→妻大女貞年廿三 (柒3619)姪子石年四歳(柒3620)
吉陽里戸人公乘文得年廿五筭一(陸1239/図14・52)→吉陽里戸人公乘文得年廿五(柒3602) 
□子男諾年五歳 得母大女□年六十一 得女弟匡年十七筭一(陸1233/図14・46)→得母大女妾年六十一  得女弟匡年十七(柒3617)
吉陽里戸人公乘李琕年廿九筭一刑左足(略)(1245/図14・58)→ 吉陽里戸人公乘李琕年 廿九筭一刑左足(壹10374)・吉陽里戸人公乘李琕年廿九 刑左足(玖6564)
吉陽里戸人公乘胡怒年卅四筭一給郡吏 (略)(陸1251/図14・64)→吉陽里戸人公乘胡怒[46]年卅四筭一給郡吏(壹10042)
□女弟婢年五歳  將母大女囊年卅五筭一(陸1249/図14・62)→恕叔母大女嚢年卅五筭一(壹10455)
吉陽里戸人公乘胡草年卅五(略)(陸1256/図14・69)→吉陽里戸人公乘胡草年卅五(柒3614)
草母大女妾年六十三  草妻大女真(?)[47]年廿五筭一(陸1257/14・70)→草母大女妾年六十三  草妻大女貞(?)年卅三 (柒3615)
吉陽里戸人公乘嚴追年廿九筭一給州吏訾一百(陸1315/図14・128)→吉陽里戸人公乘嚴[48]追年廿九筭一給州吏(壹10149)・吉陽里戸人公乘嚴追年廿九給州吏(柒3542)
妻大女思年卅筭一 □女姑(?)[49]年七歳(陸1313/図14・126→ 妻大女思年卌 子女汝(?)年七歳(柒3550)・追妻大女思年卅筭一(壹10143)
 吉陽里は、小武陵郷所属と考えてよい。
(2)-2記載年齢
 舂平里棨簿におなじく、嘉禾五年時点の年齢である。
 (2)ー1に列挙した諸簡から明かであるように、記載されている各人の年齢は【四年小武陵郷簿】と【六年小武陵郷簿】に同じである。これらはすべて作成年が相違するが、同じ年齢であるのをどう解釈すべきだろうか。
 まず、翌年の【六年小武陵郷簿】に同じということは、【六年小武陵郷簿】が前年の年齢を書いているか、吉陽里棨簿が次年の年齢を書いているかのどちらかである。もし吉陽里棨簿に1歳児が存在すれば、その年に出生した者をその時点の年齢で書いているのであり、作成時点の年齢に1歳を足して次の年の年齢にしていることはあり得ない。吉陽里棨簿には1歳が見えないが、同じく嘉禾五年の棨簿であり郷・書式も完全に同じである高遷里簿には1歳が見える(陸431/図9・136)。これに準ずると、吉陽里簿でも1歳児が存在した可能性が高く、故に翌年の年齢を記載しているとは言えないことが明かである。本簿は、作成された嘉禾五年時点での年齢を記載している。【六年小武陵郷簿】は、同類型の簿が前年の年を記載していることにより、これも前年の年齢であると考えられる(このことについて後述する。また【四年小武陵郷簿】と年齢が同じであることについても後述する)。
(3)書式の特徴
 先に指摘したように【四年小武陵郷簿】に類似する。各戸の集計の書式は、訾の記載位置以外は同じである。また、【四年小武陵郷簿】の郷の集計は吉陽里棨簿の里集計に類する。
また、某人が死者であること示す記載が見えない点も似る [50]。吉陽里棨簿のみならず、同類型の高遷里の棨簿にも死の記載は無いため、この類型の棨簿では死者は書かなかったと考えられる。同年の舂平里棨簿・平樂里棨簿とは異なり、死者はすでに削除されている。
 一方、相違する点としては、筭の記載が徹底していないことが挙げられる。筭は年齢・障がいの有無によって判別し得るからであろうか。同じく集計されている大小口についても、対象者各人の記載では特に注記はしない。これに対し、「訾」は書き漏らすことなく必ず書いている。むしろ、「訾」の記載がこの簿にとって必須であったと考えられる。
 また、先述したように新生児が見える点、さらに奴婢(陸1291・陸1293)が存在する点も相違する。【四年小武陵郷簿】には両者は見えない[51]
 このように【四年小武陵郷簿】との相違点も多いが、里の集計により簿の類型としては「人頭税負担者集計型」に該当すると考えられる。
(4)戸数
 【四年小武陵郷簿】と吉陽里棨簿のもう一つの相違点は、戸数である。【四年小武陵郷簿】は、残存している集計に限定すれば、各里の戸数がすべて36~38戸である[52]。吉陽里も36戸・173人である(壹10397)。しかし吉陽里棨簿では51戸、271人である(前掲陸1204)。
 実は、吉陽里棨簿の戸数は、【六年小武陵郷簿】にみえる嘉禾6年3月時点の戸数とも相違する。次に挙げるのが【六年小武陵郷簿】吉陽里の集計簡である。

・右吉陽里魁……五十戸父母妻子合二百七十二人(伍6969/図39・13)[53]
この簡は、【六年小武陵郷簿】の簡が多数みえる「竹簡参」「竹簡柒」所収のものではないが、同簿の構成簡である。伍6969の書式は【六年小武陵郷簿】にみえる他の里の集計に同じである(「右新成里魁謝三領吏民50戸父母妻子合二百一十七人」柒4016)。また、伍6969・吉陽の集計簡の周辺にみえる吉陽の諸簡の書式は【六年小武陵郷簿】に同じであり、【四年小武陵郷簿】・吉陽里棨簿と同年齢の同一人物が見える。
(「竹簡伍」の【六年小武陵郷簿】→吉陽里棨簿(陸)・【四年小武陵郷簿】(壹)

吉陽里戸人公乘謝黄五十刑□足(伍6959/図39・3)→吉陽里戸人公乘謝黄年五十刑右足訾五十(陸1252/図14・65)
吉陽里戸人公乘廖【示谷】 年[卅七]給郡吏(伍6562/図34・8)→吉陽里戸人公乘[廖]【示谷】[54]年廿七筭[一給]郡吏訾一百(陸1260/14・73)・吉陽里戸人公乘廖□年廿七筭一給郡吏(壹10175)
先述の如く、【六年小武陵郷簿】には【四年小武陵郷簿】・吉陽里棨簿と同年齢の同一人物が見えるのであり、ここに挙げた諸簡も【六年小武陵郷簿】のものであると考えられる。そしてこれらの諸簡の近くに位置する前掲の伍6969は【六年小武陵郷簿】の集計である可能性が高い。【六年小武陵郷簿】にみえる集計では各里の戸数は50戸であるから[55]、吉陽里が50戸であるのも妥当である。
 つまり、吉陽里棨簿の集計にみえる51戸という戸数は、前年と翌年の簿の戸数と相違するのである。もちろん、同じ時期のものではないため相違するのは当然のことであるが、【四年小武陵郷簿】とは13戸もの大きな違いがあり、また【六年小武陵郷簿】の戸数が50戸という端数の無い数であることに対し、この簿の戸数は中途半端である。この相違は、本当に自然の増減を反映した結果なのか。
 この相違については、のちに再考する。次に、類型Ⅱの棨簿を取り上げる。
3、平樂里棨簿
 類型Ⅱの棨簿が、嘉禾五年平樂里棨簿である。この簿にも「典田掾區光嘉禾五年所主平樂里魁谷碩棨簿」[56]という舂平里・吉陽里の棨簿のそれと同じ見出し簡が附されており、前二簿におなじく嘉禾五年に作成された棨簿である。簿の末尾は徴発の対象となる戸の集計で締めくくられている点が、【六年廣成郷簿】【六年小武陵郷簿】【六年都郷簿】などに同じであり、「徴発対象戸集計型」類の簿である。
(1)平樂里棨簿の構成について
構成簡:発掘簡12盆。「竹簡陸」示意図12(Ⅱa28)全簡。「示意図」14の一簡(陸1331/図14・144)、「示意図」15の一簡(陸1381/図15・5)。
全体構成:示意図12は簡冊の状態を保持している(図c)。簡冊の中心つまり簿の冒頭に全体の表題(平樂里謹列嘉禾五年所領吏民戸數品中人名年紀魁住爲簿(898/図12・120)平樂里が嘉禾五年に管轄する吏民の戸数と品中[57]人名年齢につき魁の住が作成した簿を謹んで上呈します)が残存し、外縁部に里集計(陸999/図12・221)があり、他簿の簡が混在することなく同一簿の簡が続いている。
図c
図c
 前掲表題につづき、各戸の簡が並ぶ。吏・卒・民の戸の順に区別して配列される。それは簡冊のなかほどにある「右」からはじまる集計によって明かである。
 「右」集計のうち、最も前に配置されているのが郡吏の集計である。

 右二戸郡吏其一戸□ (陸878/図12・100)[58]      
冒頭が「右」の集計によってそれより前に配置されている各戸の簡を中間集計する構成は、舂平里棨簿にすでに存在した。この「右」集計簡も、その前に郡吏の戸が列挙されていたことを表す。ほかに縣吏一戸(陸847/図12・69)軍吏一戸(陸946/図12・168)があるため、これらが郡吏の戸の次に配置されたのであり、その「右」開始集計もそれぞれ存在したと考えられる。
 次いで郡県卒の戸が列記される。縣卒の「右」集計が存在する。

右二戸郡縣卒□□ (陸921/図12・143) 
示意図内の位置としては郡吏集計・郡県卒集計のどちらが前なのかわかりにくい。吏の戸が簡冊中央に位置しているため、吏のほうが前にあると判断した(陸888/図12・110、陸896/図12・118、陸942/図12・164)。
 続いて民の戸が配置されるが、上・中・下品に区分されるようである。中品の右集計が残存している。

右四戸民中品 (陸929/図12・151)
上・下品の集計は残っていないが、少なくとも下品は存在したであろう(後述するように総計の内訳に見える)。
 続いて里全体の総計が置かれる。すべて最も外側の列か、それより一つ内側の列に位置している。編綴が切れて簡の位置が乱れた結果内側に入ってしまっている簡も、本来は外側の列にあったのであり、簿の末尾にまとめて置かれていたのであろう。

集凡平樂里領五年吏民五十三戸父母妻子合二百八十三人/其一百卅九人男/其一百卌四人女/  魁谷碩主 (陸999/図12・221)
其□□民中品(陸787/図12・9)
其□四戸民下品(陸791/図12・13)[59]   
其三戸郡縣吏下品(陸785/図12・7)(下品は原釋「丁□□人」。図版により改める)
其五戸貧羸窮獨女戸不任調役(陸784/図12・6)
〼 定合應役□□戸(陸779/図12・1) [60]
まず平樂里の戸口数の集計が見え、男女口数の内訳がそれぞれ記載される(陸999)。舂平里簿では「某里魁白」の簡が集計とは別になっているが、平樂里棨簿では全戸口数集計と同じ簡に記載されている。続いて上・中・下品戸それぞれの民の戸の集計が置かれ(陸787・陸791)、そのあとで徭役の徴発を免除される戸の集計が続く。吏としてすでに公務に就いているため一般の徭役には徴発されない戸(陸785)、貧困・障がい・身寄りが無い、女戸であるなどの理由で徭役には徴発されない戸の集計が続き(陸784)、最後に「應役戸」・徴発対象となる戸の集計(陸779)が置かれている[61]
 なお、里の戸口集計簡(陸999)にみえる魁の名は、棨簿見出し簡(陸781)と同じだが、表題(陸898)とは相違する(表題の魁の名は住)。同時に記載されているはずであるのに、なぜ違っているのかは、不明である。
各戸の簡の書式;各戸の簡の書式は統一されている。戸人簡は某吏・某卒・民・民大女などの公職・地位によって始まる書式であり、舂平里・吉陽里棨簿のように「某里戸人」から始まるものではない。訾・筭は記載されず、疾病障碍は記載されている。戸の集計は口数のみである。

民謝蔣年五十踵右足(陸819/図12・41)
蔣妻䓗年卅四  蔣子女旱年五歳(陸821/図12・43)
蔣男弟□年九歳(陸820/図12・42)
一家合四人(陸822/図12・44)

縣吏䓗捐年卌五(陸847/12・69)

(2)所属郷と記載年齢
(2)-1所属郷
平樂里は廣成郷の里である可能性が高い[62]。崔啓龍2020が既に指摘する。本簿には【六年廣成郷簿】【四年廣成郷簿】と重複する人物が存在する。そのうち唐宜(民唐宜年六十三(陸948/12・170))は、【六年廣成郷簿】(「民男子唐宜年六十四〼」貳2689)と【四年廣成郷簿】(「嘉禾四年平樂里戸人唐宜年□十三」肆5145)に見える。もう一例は、里魁の谷碩(陸999)である。【六年廣成郷簿】に同一人物が見える(「民男子[谷碩]年卅八」貳2548)[63]。崔啓龍2020は、これらに加えて下記の例の存在を指摘する。
(以下、平樂里棨簿→【四年廣成郷簿】)

 唐宜の妻 宜妻桐年五十三(陸954/12・176)→宜妻大女伺年五十三(肆5165)
 谷皃 贇父兒年九十三(陸908/12・130)→嘉禾四年平樂里戸人公乘谷皃年九十三(肆2720)[64]
 皃の妻 皃妻□年八十三盲左目(陸918/12・140)→皃妻大女□年八十三盲佐目 (肆2721)
 謝狗 民謝狗年五十九(陸926/12・148)→〼年平樂里戸人公乘謝□[年]五十九(肆5178)
他の廣成郷の簿と重複する人物は、合計六名存在する。平樂里は廣成郷の里である。
 また、戸人らの所属する丘は、ほとんど平樂丘(陸916烝倉は田家莂50164平樂丘)・周陵丘(陸880周驚は田家莂50424周陵丘)などだが[65]、どちらの丘にも廣成郷の人物が在住している(田家莂50175平樂丘鄧斗は【六年廣成郷簿】に見える・貳2680、また「入廣成郷周陵丘男子監有」陸4859)。このことからも、本簿の平樂里も廣成郷に所属する可能性が高いと考えられる。

(2)-2記載年齢
 『中古史研究』9掲載前稿では、他の廣成郷の簿に同一人物が存在することが確実であるのは、(2)-1で挙げた唐宜のみである(谷碩は本棨簿に戸人簡が残存しない)ため、判断を保留した。崔啓龍2020により、他にも四例あることが明らかになった。諸例を(2)-1に掲示しているが、すべて本簿と【四年廣成郷簿】とは同年齢である。よって、本簿記載の年齢は、【四年廣成郷簿】と同年齢であり、嘉禾四年時点の年齢である可能性がある。
さらに【六年廣成郷簿】よりも1歳下の年齢が記載されている。前掲唐宜の年齢は、【六年廣成郷簿】の1歳下であることによる。

(3)書式の特徴
 先述の如く、里の集計は「徴発対象戸集計型」のそれである。戸人簡は、某吏・某卒・民・民大女などの公的な地位よって始まる書式であり、類似のものが同じ類型の【六年廣成郷簿】【六年都郷簿】などに見える。死者については「死物故」と注記されており(「蔣妻吐(?)年卅七死物故」(陸827))、新生児も記載されている(陸867・陸902)。奴婢は見えないが、簡が脱落している可能性もあり、記載されなかったか否かについては確定し難い。筭訾が全く書かれないこと以外は、おおむね【六年廣成郷簿】【六年都郷簿】と共通点が多い。よって、本簿は「徴発対象戸集計型」の簿であると考えられる。

(4)戸数
 本簿にみえる嘉禾五年の平樂里の戸数は、前掲(陸999)に見えるように53戸である。一方、翌年嘉禾六年作成の【六年廣成郷簿】では、全ての里の戸数が50戸である[66]。【六年廣成郷簿】はじめとして、「徴発対象戸集計型」では、各里の戸数は50戸という端数の無い戸数であるが、同じ類型に属す本簿は50戸でない。ただし、【六年廣成郷簿】を除き、「徴発対象戸集計型」の他の簿(【六年小武陵郷簿】【六年中郷簿】)では、50ではない戸が一つある[67]。郷の戸数は50の倍数では無いため、50戸ではない端数のある里が一つ出現するのである。53戸という戸数は、平樂里が郷に一つ存在する50戸ではない里に該当したからである可能性もある。
 平樂里が50戸でないことの理由は、それが郷の簿の最も外周に配置される里であることからも説明し得る。【六年廣成郷簿】では、簡册の冒頭に広成里が置かれ、次いで弦里がおかれる。これらの里から簡番号が離れるに従い、簡册の中心部分からは遠ざかると考えられるが、平樂に属することが明らかな前掲の唐宜の簡は、冒頭簡(貳1798)から最も離れた簡番号(貳2689)を有する。平樂里は簡册の最も外周に置かれた可能性が高く、ゆえに郷の戸数を50で割った端数の戸数が割り当てられる里であると考えられる。
 本簿が前年度公務に用いた簿の書写であるとすれば、50戸という規定戸数で里を編成した後のものであるはずである。ゆえに、同類型の棨簿における同郷の他の里の戸数は50戸であると推測する。
 以上、集計・構成が相違し、異なる類型に属すと考えられる三つの棨簿の構成や特徴を概括した。次に、各類型を比較し、それぞれに類型の作成目的と作成順について検討する。

二、棨簿・吏民簿の諸類型
(1)各簿の類型の相違
 前章で各種棨簿の構成と特徴を検討した。これらはすべて、里を単位として作成され上呈され保管されたものであり、見出し簡の文言は同じであるにもかかわらず、それぞれ類型が異なる。類型のみならず、死者の記載などをめぐって相違も存在したため、類型の異なる棨簿は、別個の種類のものとして把握すべきであると考えられる。そこで各棨簿の特徴をふりかえりつつ、吏民簿の各類型を総括する。
(1)­1類型の意味
 まず、「徴発対象戸集計型」の簿の最も根本的な特徴と考えられている集計の書式(戸の集計と、里・郷の集計)が、単に偶発的に出現したのか、それともそれが他との差異を示す主要な特徴であるのか否かである。同一時点で作られた同じ里の異る類型の簿が存在すれば考察は容易であるが、残念ながら確実にそうであると言える例は無い。しかし、棨簿から明かなことは、主管した典田掾の趣向によって、偶然このようになったわけではないということである。平樂里棨簿を主管する典田掾は區光だが、同じ類型の棨簿である「竹簡捌」示意図10・11の簡からなる簿[68]を主管する典田掾は謝韶であり、別人である(捌3632)。また、嘉禾六年の同じ類型の簿で、郷を単位として作成・保管されているものには、廣成郷(【六年廣成郷簿】)・都郷(【六年都郷簿】)・小武陵郷(【六年小武陵郷簿】)などの諸郷のそれが残っており、複数の郷にわたり広く作成されているのである。
 また「人頭税負担者集計型」の簿も、複数の郷のものが存在する。嘉禾四年小武陵郷の簿が最も著名であるが(【四年小武陵郷簿】)、ほかに南郷(「竹簡壹」採集簡9盆、11盆にみえる)[69]、都郷(同じく「竹簡壹」 採集簡9盆、「竹簡玖」示意図26)[70]、首里・高平里・大成里など(29盆)[71] の簿も存在する。同類型の小武陵郷吉陽里・高遷里嘉禾五年棨簿は典田掾の黄欣が管掌しているが、彼が管掌している小武陵郷以外でもこの類型の簿が存在するのである。特定の郷吏がたまたまこの書式で書いたというよりも、すべての郷を対象にこの類型の簿が作成されたのではないか。
 また、「徴発対象戸集計型」と「人頭税負担者集計型」二者の本質的な相違を表すと考えられる特徴は、集計以外にも存在する。一つは、平樂里棨簿にみえる民・吏・卒など公職・地位から開始する書式である。これは【六年廣成郷簿】・【六年都郷簿】、棨簿では平樂里棨簿・「竹簡捌」示意図10・11の簿などに見え、「徴発対象戸集計型」に多く(例外として「竹簡壹」 の嘉禾四年廣成郷簿が存在するが [72])、「人頭税負担者集計型」には見えない。この書式は、この類型の簿の重点が戸人の公的な地位・職に置かれていることを示唆する。
 【六年小武陵郷簿】にみえる戸の集計簡で男女の口数をそれぞれ集計する書式も、「徴発対象戸集計型」に見えて「人頭税負担者集計型」に見えないものである。この書式は、里の集計に男女別に口数を集計する項目があることに対応したものであろう。
 さらに、資産水準(訾)の記載については、二類型に相違がある。「徴発対象戸集計型」には、訾は全く見えない(平樂里棨簿、)か、部分的である(【六年廣成郷簿】[73] 【六年小武陵郷簿】)か、記載が不徹底である(【六年都郷簿】[74] )。「人頭税負担者集計型」では、すべての戸について書くことが徹底されている。この類型の簿の主要な関心は、各戸の資産にある。
 このように、各類型の簿には、集計以外にも他の類型とは異なるそれぞれの特徴がある。つまり、それぞれの類型は、他の類型とは異なるものとして作成されている。

(2)棨簿の役割
 それでは、既出の各類型簿と、その類型の棨簿とは同じものだろうか。完全に同じであるわけではなく、両者の間にも相違が有る。
 確認すると、まず棨簿が里単位で作成・上呈され、同郷の他の里の簿と編綴せず単独で保管されていたことは大きな相違である。「人頭税負担者集計型」・「徴発対象戸集計型」の内、棨簿ではない簿(【四年小武陵郷簿】【六年廣成郷簿】【六年小武陵郷簿】【六年都郷簿】)はすべて同じ郷の里の簿がひとつにまとめられて簡冊を形成しており、郷単位で保管されたことが明かである。さらに、一章2吉陽里棨簿の項で触れたように「人頭税負担者集計型」【四年小武陵郷簿】には郷全体の集計があり、本章(3)‐1で述べるように、「徴発対象戸集計型」の内、棨簿ではない簿にも郷全体の集計が存在する。二類型の内、棨簿ではない簿は、郷を単位として作成されたものである可能性が高い。
 また、吉陽里高遷里棨簿には、新生児と奴婢が存在する点が、同類型簿の郷単位のもの(【四年小武陵郷簿】)と相違する。
 さらに大きな相違は.、戸数である。すでに一章で紹介したように、前掲の嘉禾六年簿にみえる小武陵郷・南郷・廣成郷の戸数は、基本的に50戸である[75]。郷の相違をこえて同じ現象が見られるため、一里50戸が原則であったと考えられる[76]。ゆえに吉陽里も次年の【六年小武陵郷簿】では50戸である。しかし棨簿では、吉陽里棨簿では51戸、1章3でふれたように高遷里も51戸であり、すべて端数がある。とすれば、戸数50戸というのは何らかの調整がおこなわれた結果であり、棨簿のうち「人頭税負担者集計型」のものは、戸数を調整する前の段階を反映している考えられる。
 一里の戸数は、一年の間にも多少の増減があるはずである。そのまま放置しておけば分家や移転や、あるいは戸が無くなってしまうことによって、毎年少しずつ戸数が変動するであろう。それが蓄積されると50という数から大きく離れていくだろうが、棨簿にみえる戸数の端数は小さいことから、一里あたりの戸数の調節を頻繁におこなっている可能性が高い。毎年調節しているのであると推測される。
 各簿の作成過程について考えると、「人頭税負担者集計型」の棨簿は、郷単位の吏民簿に先行して作成されるものであった可能性が高い。それにみえる一里の戸数は、戸数を調整する前の端数のある戸数のままである。それは、前の簿の作成からその棨簿の作成までに生じた自然な増減を反映している。各里の棨簿が上呈されると、それに基づき郷内の各里に戸を割り振りなおし、一里50戸に調整するのであろう。郷の全戸数を50で割ると割り切れないので端数の里は出るが、おおむね50戸に統一される。つまり一里50戸の簿は、調整後の状況の反映であり、「人頭税負担者集計型」の棨簿は、調整前の状況の反映であって、この類型の棨簿は 最初に作成され、上呈されたのである。
 「徴発対象戸集計型」の棨簿についても、同様に里単位で作成され、縣に上呈されたものであるため、郷単位の吏民簿に先行して作成されたと考えられる。
(3)各類型簿
 次に、郷単位の各類型簿の特徴ついて、説明できることを整理し、名簿作成の先後を考察する。
(3)ー1
「徴発対象戸集計型」の里集計の場合、死者の集計と人口集計、徴発の対象となる戸の集計に主眼が置かれている[77]。各戸の簡の書式は、先述のごとく吏・卒・民などの公的な立場の区別を重視するものだが、それはどの戸が徴発の対象であるか否かに関わるからである。【六年都郷簿】常遷里集計の例を挙げる。

集凡常遷里魁黄春領吏民五十戸口食四百廿二人(柒5454/498)
 其十四人前後被病物故(柒5453/497)
              二百六十二人男
 定領見人四百八人  其 
              一百卌六人女(柒5452/496)
其四戸郡縣吏(柒5451/495)
 其一戸縣卒(柒5450/494)
 其二戸私學帥客(柒5477/521)
 其一戸劉口驛兵(柒5492/536)
 其五戸貧羸老頓不任[役](柒5491/535)
 定領事役民卅七戸(柒5513/557)
 魁  黄  春  主(柒5512/556)
(連先用2018・鷲尾祐子2020b)
柒5453で死者を集計し、柒5452で死者数を引いた口数を確定している。次に確定されるのは「事役民」徴発の対象となる戸の数(柒5513)であるが、それは郡縣吏・縣卒などすでに公務に就いていて徴発の対象とならない人々の戸(柒5451・柒5450・柒5477・柒5492)や、貧困・障碍を有する。老年であるなどの理由で徴発されない人々の戸の数(柒5491)を、全戸数から除して得られる。戸人簡冒頭に吏・卒などと記載される公職を有する人の戸は除外の対象である。このため、先述の如く、この類型の簿のなかには戸人簡の冒頭に公職・地位を記載し、それが目立つように記載する書式のものがある。
 この類型の簿の不可解な点は、既述のごとく前年の年齢が記載されていることである。一章1舂平里棨簿(2)­2で述べたように、【六年都郷簿】には前年の年齢が書かれ、一章2吉陽里棨簿(2)­2で述べたように【六年小武陵郷簿】も同じである。序にて触れた【六年廣成郷簿】と【四年廣成郷簿】に見える同一人物の年齢が二歳差ではなく1歳差である現象も、【六年廣成郷簿】が一年前の年齢を記載していると考えれば説明可能である。さらに、この類型の簿の各戸の簡は、前年度の簿を書き写して記載している可能性があり、それは【六年都郷簿】の次の簡にもあらわれている

嘉禾五年常遷里戸人公乘黄春年六十一踵兩足(捌1476/図5・814)
戸人簡が嘉禾五年から始まるこの書式は、「竹簡柒」示意図八の常遷里簿に同じである。しかしこれは【六年都郷簿】の諸簡のみが並ぶ「竹簡捌」示意図5の内にあり、しかも簡冊の周縁部ではなく中央部分にあり、周囲には【六年都郷簿】の簡のみが存在する。ゆえにこの一簡も【六年都郷簿】の一部である可能性が高い。これは「嘉禾五年常遷里」で始まる簿を書写しつつ【六年都郷簿】を作成していたため、誤ってこのように書いてしまったのではないか。またこれに類する例が、「竹簡肆」中郷簿(鷲尾祐子2017【吏民簿5】参照)の戸人簡に見える。

 嘉禾五年緒中里戸人公乘五忠(?)年廿九筭一(肆39/図1・39)
某年某里からはじまる書式は、さきの常遷里簿と同じである。嘉禾五年緒中里から開始する戸人簡は、実は嘉禾六年に前年の簿を書写しつつ作成したものである。しかし、嘉禾五年簿を写して書いたため、参照元の年をそのまま書いてしまったのであると考えられる[78]。このように、「徴発対象戸集計型」には、戸人簡が年次から始まる前年の簿を写して作成しているものがある。このことは、各人につき前年度の年齢が記載されている現象にも合致する。
 なお、郷単位の簿では集計各項目について同郷のすべての里のものが合算され、郷単位の総集計が出される。下に【六年廣成郷簿】の例を挙げる。

□凡廣成郷[領吏民]□□[五]十戸口[食]二千三百一十人(貳2529)
其一千一百六十七人男〼(貳2468)
・其卅五人前後被病及他坐物故(貳2319)
[定]見二千二百七十五人(貳2535)
    
貳2529には廣成郷の戸口数総計が記され、貳2319は郷における死者数の総計である。前者から後者の数字を除すと貳2535の確定総口数となる。上記の各集計項目は、前掲常遷里簿の里集計の項目にも同じように存在するものである。里の集計に見える各項目は、すべて郷単位でも集計されたのである。【六年廣成郷簿】の例ではないが、郷における徴発対象者の総計も存在する。

〼負役民二百三戸(伍6720)
定領役民二百六十一人 〼(捌5495) 
この二つの総計はどの簿の構成簡なのか不明だが、200を超える数であることから里ではなくて郷の総計であることが明かである。本類型の簿の作成目的の一つは、里のみならず郷単位で、徴発可能な戸の確定された數を把握することにあった[79]。前年の年齢が記載されていることから、把握されるのは前年度における徴発対象戸数である。
 そして、この類型の簿では、すでに一里の戸数が50になっているため、一里あたりの戸数を調整した後の里の状況を反映した簿であると考えられる。調整に際しては、もちろん居住地が近い戸が同じ里になるように配慮されたであろうし[80]、(3)‐2で述べるように、各里の賦を課せられる戸の戸数が近くなるように調整されたと考えられる。また、各里の徴発対象となる戸の数は近似するように調整される[81]。  
また、本簿では故人を削除しない。これは、本簿が前年の状況の書写であり、以後の徴発業務の際に参照されるものではないからである。徴発対象とならない死者は、徴発事務の際に参照する簿には不要な存在である。他の類型の簿には、死者は記載されない。
故に、本簿の作成目的は、前年度の徴発対象戸の把握と、前年度から作成時点までの死者數の把握にあったと考えられる。以後の公務に供するためではなく、郷の簿の作成過程において、参照し確認するための簿として存在したのである。
(3)ー2「人頭税負担者集計型」
 先の「徴発対象戸集計型」には死者が削除されずに残存していたが、「人頭税負担者集計型」(吉陽里・高遷里棨簿や【四年小武陵郷簿】)からは完全に削除されている。つまり「人頭税負担者集計型」は「徴発対象戸集計型」よりも後に作られるのであると考えられる。
 「人頭税負担者集計型」の書式では、訾の記載に重点がおかれている。そして、郷単位の簿である【四年小武陵郷簿】の訾の数値の平均値は、他の簿と比較して非常に高い。たとえば、同じ嘉禾五年棨簿の小武陵郷の二里(吉陽里・高遷里)は、訾のデータ戸数が109で、平均69.5である[82]。また、【六年小武陵郷簿】では、訾の記載は不徹底だが、個数40で平均51.3である[83]。一方【四年小武陵郷簿】では、データ個数77、平均230.5[84]である 。作成時点が相違するので単純な比較はし難いが、【四年小武陵郷簿】には資産の多い戸から優先的に記載されている可能性がある。
 また、【四年小武陵郷簿】の一里あたりの戸数は、すべて36戸・38戸という近似する数であり、何等かの人為的な調整が想定される。残存する集計によれば、吉陽里は36戸・173人(壹10397)であり、高遷里は38戸・180人(壹10229)、平陽里は口数は不明だが戸数は38戸である(壹10229)。そして、棨簿にみえるこれらの里の戸数と人口は、これらの戸口数と著しく相違する。棨簿では、吉陽里は51戸271人(陸1204)、高遷は51戸273人(陸290)[85]であり、戸数が異なるのみならず、人口も百人近く異なる。【六年小武陵郷簿】にみえる小武陵郷所属里の戸数・口数も、棨簿のほうに近い(高遷里は50戸257人(参4460)、新成里は50戸217人(柒4016)[86] )。つまり、【四年小武陵郷簿】の戸口数は、複数戸を合併させて戸数を調整したのではなく、里の一部の戸口を除外した結果であると考えられる[87]
 すると、先ほどの資産水準の平均値の比較から考えると、【四年小武陵郷簿】は訾の平均値が高いため、資産の多い戸からこの簿に記載されており、少ない戸は省かれているのではないか。
 この類型の集計は人頭税の課税対象の集計であるから、この簿に書かれているのは課税対象となる人々であろう。では一里の戸のうち書かれない12~14戸もの戸は賦を納入する対象とならず、除外されるのであろうか。このことについてはさらに考察を要する。だが、比較的少額の人頭税でも、家族全員にかかると重い負担になったことを考慮に入れると、最も貧しい戸にとっては過重な負担であったはずである。また、呉簡にみえる国家から課せられる金銭・財の負担は、確かに重い。いわゆる戸品出銭簡[88]は戸単位で銭を納入させているが、下品ですら四千~五千銭を負担している。赤烏元年春に、当千の大銭が発行され(『三國志』呉主傳)たことが物語るように、当時インフレが進んでいたのは確かだが、それにしても高額であり[89]、このような負担にすべての戸が応じることができたかは、疑問である。この簿は、このような臨時の負担にも関連していたかもしれない。
 なお、【四年小武陵郷簿】では奴婢も記載されず、除外されている。集計されている人口が少ないことの一因はこれにもあると考えられる[90]
 また作成時点の一年後の年齢が記載されているということも、「人頭税負担者集計型」の特徴である。【四年小武陵郷簿】は嘉禾五年棨簿の一年前の作成だが、年齢は同年齢である。つまり【四年小武陵郷簿】に記載されているのは一年後の年齢である。このため、この類型には新生児が見えない。それは、作成時点の年齢に1歳を足して記載しており、四年時点で1歳のばあいは2歳と書かれているためである。つまり、次年に用いるために、意図的に現在の年齢に1歳が足されている。
 この簿が翌年に徴税などに用いられるための簿であることは、死者が削除済みであることにもあらわれている。死者を排除し、翌年に在籍し徴税対象となる者だけで名簿を作成しているのである。また復(負担免除)の記載もされており[91]、これも徴税時に参照するためであると考えられる。
 なお、戸集計(凡口×事× 事×筭×)にみえる事・筭の意味については、納税の履歴を含むという説も存在したが[92]、凌文超2011・張栄強2014の説のように、徴税対象の集計と考えるべきである。先述のごとく、翌年の徴税のために作成した名簿であるからである。ただ、各項目の詳細については再検討を要する。

(3)-3もう一つの類型
 先に挙げた二類型とは別に、もう一つの類型が存在する。戸人簡の冒頭が「某年某里」で始まる簿であり、「徴発対象戸集計型」が記載時に参照しているものである。これに該当するのは、先に挙げた「竹簡柒」示意図八にみえる戸人簡が「嘉禾五年常遷里」からはじまる簿である。残念ながら集計と表題が残存していないが、残存する各戸の簡の例によれば、筭・訾など吏民簿にみられるすべての内容が書き込まれていることが明かである。書式もほぼ統一されている。戸人簡・構成員簡・戸集計を挙げる。

嘉禾五年常遷里戸人公乘張羅年六十五(柒1153/図8・350)
□妻大女杲年六十七 (柒1143/図8・340)
凡  口  三  人  訾  五  十(柒1161/図8・358)[93]
 
 また、【四年廣成郷簿】もこれにあたる[94]

 嘉禾四年平樂里戸人公乘李客年卅三筭一(肆2495/図10・44)
 〼 客妻□年卅三  客子女西年十(肆2484/図10・33)
    右客口食四人 〼  (肆2501/図10・50)
    右柳家口食五人  中  訾  五  十(貳2656/図11・41)
これらの簿が「徴発対象戸集計型」とも「人頭税負担者集計型」とも相違する点は、年齢が記載時点のものであることである(一章1舂平里簿の項で述べた)。死者は書かれておらず、すでに削除済みである点も、「徴発対象戸集計型」と異なる。また、「徴発対象戸集計型」がこれを参照していることからも、「人頭税負担者集計型」のように選別された戸のみを記載しているのではなく、全戸を記載していると考えられる。これは里に属す戸の記録としては最も完全なものであり、全戸の情報を参照するための基本的な名簿として機能したのではないか[95](「参照用住民家族名簿」と仮称)。
 この簿における一里の戸数も、原則として50であったのではないか。「徴発対象戸集計型」はこの簿を書写し、死者に注記を付しているが、一里50戸である。参照元のこの簿も、一里50戸であったと考えられる。

 以上、棨簿の検討を通じて吏民簿三類型の特徴と前後関係を考察した。各類型には異なる特徴があり、それぞれ異なった作成目的・用途があったと考えられる。
 各簿の特徴を、表1にまとめた。

類型

戸数

奴婢

1歳児

年齢

死者

人頭税負担者集計型

棨簿

50ではなく端数あり

作成年

郷単位の簿

全戸の一部

翌年

徴発対象戸集計型

棨簿

50戸※

前年

郷単位の簿

50戸※

前年

参照用住民家族名簿

50戸※

不明

作成年

表1:諸類型特徴(※原則50戸だが、端数のある戸数の里が郷に一里存在する。

 作成過程は以下のようであると推測される。
(1)最初に各類型の棨簿が里単位で作成され、それは最終的には県廷に提出された。
(2)この棨簿のうち「徴発対象戸集計型」の類型のものに基づき、郷を単位とする「徴発対象戸集計型」が作成された。
(3)その後、各種棨簿や郷単位の「徴発対象戸集計型」に基づき、一里が50戸に編制された。(その際には、一里の徴発可能な戸の数や、賦を負担する戸の数ができるだけ均等になるよう配慮された。鷲尾祐子2020b)。作成に先立ち、死者は除かれた、
(4)次いで、作成時点の年齢の簿(二の3ー(3)で述べた「某年某里」で戸人簡がはじまる簿)が作成される。
(5)さらに人頭税を負担する戸のみを抽出し、作成時点の年齢に1歳を足して、「人頭税負担者集計型」の簿が作成された。
 これらの作業は、どの機関で為されたのか。(1)は、里で作成された(郷が関与した可能性もある)。(2)は郷によって作成された(某郷謹列の表題を有するからである。貳1798参照)。(3)(4)(5) の作業が郷・縣廷のどちらで行われるかについては、検討が必要である。
このような煩雑な制度は、漢代のそれを受け継いでいる。「人頭税負担者集計型」の書式は東牌楼後漢簡[96]・尚徳街後漢簡[97]・五一広場後漢簡[98]にも見え、後漢に淵源する書式であり、日常的業務のなかで引き継がれてきたものである。そして、「人頭税負担者集計型」の戸集計の各項目が、何の説明もなく一見不可解な書き方であることも、これらが毎年おこなわれる業務の一環であって、作成する側もチェックする側も、内容を理解していることが前提となっていたことを物語る。ゆえにこれらの作成はこの年のみ臨時に行われたのではなく、毎年恒例の業務であったのであると考えられる。呉簡の時代までには、一人の人物に対して、その年、前年、翌年の三つの年齢の簿が作られるようになる。
なぜ、同じ戸を記載した簿を、同時に複数の種類作ったのか。一つの簿にすべてまとめて記載すれば、済むのではないか。一見不合理で、煩雑に思える。
 それは簿をつきあわせ、校閲するためか。永田英正1989第三章「簿籍簡牘の諸様式の分析」には、同じ事について複数の簿籍が作成されることについて、以下のように説く。簿籍は提出された機関で必ず厳密にチェックされたが、チェックには複数の簿籍を照合する必要があり、そのためには先ず過去の簿籍が保存されていなければならない。それと同時に相互に照合すれば不正が発見できるような簿籍の作成も要求される。たとえば、戍卒の日々の労働については「日作簿」(某日における戍卒全員の作業記録)と「卒作簿」(戍卒個人についての毎日の作業記録)の二種類の作簿に同時に記録されることになり、両者をたがいにつき合わせることによって検査できる仕組みになっていたのである。すなわち(同一の対象について 補)複数の記録を作成することによって不正を防止する手段が、そして仮に不正があっても直ちに発見できるような手段が講ぜられていたのである、とこのように永田は述べる。この戍卒の労働について複数の簿を作成したことは、戸について複数の簿を作成した吏民簿の状況に一致する。
 同じ戸を記載した簿を数種類作成することによっても、複数の簿の照合によって不正を発見する効果が得られると考えられる。一見不合理な制度には、正確な情報を得るための合理的な配慮が存在したと考えられる。
 そして、前年の簿をひきうつしたものと、今年度の簿と二種類の簿が作られていることには、同じような効果が存在したと考えられる。前年の簿を書写した簿を作ることによって、今年の申告の虚偽を防ぐという効果である。
 前漢の戸口の記載には、虚偽が多いことが指摘されてきた。楊振紅2010・王愛清2010が、前漢に関してだが、毎年里の民自身が自己申告し、それにもとづき記録したと説明している。また、楊振紅2010は前漢の松柏漢墓M1出土48号木牘(二年西郷戸口簿)について、成人男女人口のアンバランスが過ぎるのは、男性が年齢や身体状況を虚偽申告していることによると述べる。そして楊は、その原因は戸籍が民の自己申告によって作成されることにあるとする。つまり、戸口の情報は、民の自己申告によって記載されたため、虚偽が多かったという。
 一方、呉簡の吏民簿とその作成過程によって、戸口情報の記載は決して民の申告だけに依拠するものではなかったことが明かである。吏民簿には前年度の簿を複写したものも含まれており、前年度の情報と今年の申告情報とに相違があれば、双方の照合によって明るみに出る。虚偽の申告をしても、それが露見する可能性があるため、申告によって安易に偽ることは、難しかったと考えられる。
 もちろん、官吏の知己縁故であって、官吏と共謀してなら、このような虚偽を貫くのは可能かもしれない。しかし、簿の作成と照合・確認は、一人の官吏によって為されたものではない。里で作成し、それに基づき郷でも作成し、最終的に縣廷で確認されたのである。組織的に虚偽をはたらくのでなければ、難しかったのではないか。
 以上の理由から、呉簡の時点において、戸口の虚偽申請が一般的であったと判断することは、難しいと考えられる。

編集者注記:2022年8月30日入稿

[1]この簡は「竹簡柒」6072番であり、掲剥位置示意図(以下示意図と略)42に簡の位置が示されており、図内の番号は1116番である。以下、呉簡竹簡の簡番号はこのように記載する。示意図内の番号は、必要が無い場合は記載しない。
[2]汪小烜2004参照
[3]凌文超2015に、呉簡にみえる様々な人々を対象とする簿が紹介されている。
[4]侯旭東2018は、走馬楼呉簡は臨湘侯国の主簿と主記史の保管した文書と簿冊であり、それは県廷諸曹の処理した文書簿冊の内、主簿・主記史(門下)に送られチェックを受けたものであるとする。「吏民簿」も、戸曹から門下に送られてチェックを受けた簿のひとつであると考えられ、このような経緯から「吏民簿」は戸籍ではないとする。
[5]鷲尾祐子2020a参照。
[6]漢初の「二年律令」328-330に、民を管理する名簿として戸籍以外に「年籍」「爵紬」(陳劍2011の釈読に従う)が見える。
[7]安部安部聡一郎2004に多様な書式が紹介されている。
[8] 例えば、後述する「徴発対象戸集計型」の嘉禾六年廣成郷簿(【六年廣成郷簿】と略)(「竹簡貳」の示意図を中心とする諸簡からなる。侯旭東2009・2013、鷲尾祐子2010・2012・2017、關尾史郎2015a参照)では、表題が「廣成郷謹列嘉禾六年吏民人名年紀口食爲簿」(貳1798)であり、「人頭税負担者集計型」の嘉禾四年小武陵郷簿(【四年小武陵郷簿】と略)(「竹簡壹」 示意図1・2およびその前後に連続する同一書式の諸簡からなる。張栄強2006・凌文超2011・鷲尾祐子2012・張栄強2010、鷲尾祐子2017)では「小武陵郷□嘉禾四年吏民人名妻子年紀簿」(壹10397)であり、吏民の名前と年齢と構成員とを記載している簿であることが明示されていることについては、どちらの表題も同じである。前者が「口食」と記すところを後者の簿は「妻子」と記すが、妻子のみを書いているのではなく奴婢以外の同居者をすべて書いており、基本的な意味は「口食」とさして異ならない。
[9]石原遼平2010は、同じ簿でも表記に細かい相違が存在する現象に着目しする。
[10]最も先に集計部分による区分を提案したのは、羅新2007である。
[11]鷲尾祐子2017【吏民簿6】冒頭解説参照。「竹簡肆」示意図10・11に構成簡が見える。戸人簡は「嘉禾四年某里戸人公乘」から始まり、廣成里・平樂里・新成里・漂里が見えるが、新成・漂の二里は一戸のみである。廣成里・平樂里が大半を占める。【四年廣成郷簿】と仮称しておく。
[12]【六年都郷簿】(仮称)は、「竹簡柒」示意図14(発掘簡17盆)/41(発掘簡19盆)/42(発掘簡19・20盆)「竹簡捌」示意図一~五(発掘簡20・21盆)の諸簡からなる。連先用2018参照。以下【六年都郷簿】と略。本簿について鷲尾祐子2020aは複数の郷の簿としたが、連先用2018の検討結果に従い都郷の簿とする。嘉禾六年の作成である。
【六年小武陵郷簿】(仮称)は「竹簡[参]」示意図2・4の簿と、竹簡[柒]の示意図17・18・19・20・21・23・24・26・27・28・30・31・32などの同じ書式の諸簡からなる(発掘簡18盆)(鷲尾祐子2017・鷲尾祐子2020a)。また、後述するように「竹簡伍」示意図30・33・38・3・40などにも構成簡が存在し、「竹簡玖」6450~6463、6564~6624にも断続的に構成簡が見える。嘉禾六年に、小武陵郷を対象に作成された簿である。本簿について鷲尾祐子2017・2020aは複数の郷の簿としたが、連先用2019bの検討結果に従い小武陵郷の簿とする。嘉禾六年の作成である。
[13]三例以外にも、同様の見出し簡がいくつか存在する。
 典田掾黄欽嘉禾五年所主高遷里魁□□[棨]簿(陸1378/示意図15・2)
 典田掾謝韶嘉禾五年所主□□里魁[謝]□□□(捌3632/示意図11・40)
この二つは、本論でとりあげた三つの棨簿と同じく、単独で簡冊の形状を保持しており、棨簿の構成簡をある程度は得ることができる。 
典田[掾]黄欣嘉禾五年所主□□〼(貳3167)
●……新成里□曹平外字【户殳木】簿 (貳4514)
 典田掾五陵嘉禾五年所主右里魁谷氏□〼陸704)
 〼□五□所主常遷里郷魁□□簿(伍6793)(魁と簿の間の不明字は二字であるため、原釈より一字□を削除した。郷字は魁字の可能性もある)
これらの四簡は、周囲に棨簿の構成簡らしきものがあってもまとまりを欠いているか、あるいは構成簡が残存せず、棨簿を集成することが難しいものである。
 また、「竹簡陸」示意図15舂平里簿の簡に混在して、同種の簡が一つだけ存在する(陸1602 □□[掾]□忠嘉禾□年[所主□里魁□]棨[簿] 原釋文は「□[掾]□□嘉禾□年……啓」図版写真により改める)。これは舂平里簿の付け札ではない。
 このように同類の見出し簡が十簡存在するため、少なくとも十の棨簿が呉簡内に残存していたようである。貳4514・伍6793以外は、すべて嘉禾五年の簿であることが明かであり、同時期の簿である。
 ほかにも、棨簿の付け札は無くても、書式の共通性などから、棨簿の可能性が高い諸簡も存在する。例えば、「竹簡陸」示意図7(陸250~288)の宜都里の簿、「竹簡陸」示意図13の諸簡、「竹簡伍」示意図24~26の平郷平陽里簿(平樂里棨簿に書式が同じ)などがある。
[14]棨の字義について、崔啓龍2020は棨は啓であり、簿を上呈することを意味する動詞とする。
崔が棨=啓説の根拠とするのは「竹簡陸」1602「□[掾]□□嘉禾□年……啓□」(最後の□は図版により補う)。これを「…棨簿」の諸簡とおなじであるとし、棨簿は啓簿であり、この簡は送り状であるとする。「棨簿」簡に同じとするのは妥当である。しかし啓字は、図版を参照すれば棨と釈すべきであり、これによって棨簿=啓簿とすることはできない。
また、崔の解釈では、下記の例について説明できない。
a香港中文大学蔵/奴婢廩食粟出入簿 134Bと135Aにみえる、「棨副」
b五一広場東漢簡牘にみえる「㦿印」
   廣成郷陽里男子黄京不召自詣縣 H 葆任男子番猭唐除不桃亡以㦿印爲信,2010CWJ1③:261-106/六二〇(五二六+五三四にも類似例あり)
 aは帳簿の端に、帳簿の文面とは別に記載された文言である。通常帳簿本体と送り状とは別の簡であるため、「副本を啓す」という送り状の文言がここに記載されることは無い。
bについては、男子番猭・唐除の身元を保証するために男子黄京が「以㦿印爲信」したと見え、封泥匣に捺されたのがその印であると考えられる。この㦿は啓とは解せない。
また、帳簿の送り状にみえる「上呈する」ことを指す文言は、呉簡では「列」である。「啓」を以て帳簿を提出するという意味で用いる例は、見えない。
 「都市史唐玉叩頭死罪白被曹勅條列起嘉禾六年正月一日訖三月卅日吏民所私賣買生口者收責估錢言、…「竹簡肆」1763(1)
  
棨は、証明する・根拠となる、という意味を有するのではないか。
棨は、通行証の意味で用いられる。『説文』木部に、棨、傳、信也。と見え、傳は通行証のことである。『史記』文帝紀十二年三月の「除関無用伝」張晏注に「伝,信也,若今過所也。」とみえ、師古注に「張説是也。古者或用棨、或用【糸曽】帛。棨者,刻木為合符也。」と見えるように、木製の符で通行証に用いられるものを指す。棨とは、関所を通過するに際しそれが許可されていることを証明するものである。また、五一広場東漢簡牘の「以㦿印爲信」は㦿印を証拠とするという意味であり、黄京が㦿印によって番猭唐除の身元を保証したことの証拠とする、ということである。つまり㦿印は証拠となる印である。このように、棨と名付けられる物品は、何かを証明する、何かの根拠となる点で共通する。この証明する・根拠となるということが、公文書にみえる棨の意味であると考えられる。
 棨簿は、某里の戸の状況を「証明する」簿ではないか。
[15]鷲尾祐子2017・2020a参照
[16]舂平里の舂字については、完全に春と記載されている例も多い。鷲尾祐子2020aで、この字につき春と異なる記載が見えることもあるため「舂」字としたが、どちらが妥当かは不明である。本論では舂平としておく。
[17]黄の後ろの一字は本来の釈文では孺であったが、図版により簿に修正した。魁の唐升は最後の「白」簡にも名前がみえることから、現在の魁であることが明かである。一方、里魁として故戸の集計を管轄しているのは別の者(□勉)であるため、故戸の集計がなされた時点では、別人が里魁であったと考えられる。この表題は、現在の魁が管轄者として記されているため、故戸の簿の表題ではなく、全体の表題である。
[18]侯旭東2009に【六年廣成郷簿】の同類の簡について紹介されている。冒頭二字は図版写真と他の書式により補った。
[19]故戸と新占戸については、連先用2017参照。
[20]本里民と書かれず本郷民と書かれているのは何故だろうか。郷内のこのような戸はすべて舂平里所属としたのであろうか。【六年都郷簿】(注12)にみえる舂平の戸数は、他里が五十戸であるのに相違しそれよりはるかに多い(「集凡春平里領吏民一百□□戸口食三百六十三人」捌463/図3・150)が、それはこのような特殊な戸がすべて舂平里所属とされているからかもしれない。
[21]他の簡には男子と記載されている(陸1598等)。書き誤りにより子字が脱落したのであろう。「竹簡陸」の釈文にて指摘されている。
[22]総計の「五」字は、写真から確認し難い。「三」の可能性もある。
[23]ここに挙げたのはすべて公職だが、「私學」のような公職以外の者が見えることも想定される(【六年都郷簿】捌856など公職の記載される位置に私學が見える)ため、公職・地位とした。
[24]「變中里戸人公乘軍吏宋春年卌七」柒5702【六年都郷簿】。他の簿では冒頭に置かれるか、名前より後に置かれる(冒頭に置くのは【六年廣成郷簿】(「郡吏鄧建年廿三」貳1644)、後に置くのは【四年小武陵郷簿】(「高遷里戸人公乘苗覇年十七筭一給郡吏」壹10048)
[25]吏の後の字は不明字であったが、図版写真により民とした。また、民のあとにも字の痕跡が存在するため、……を附した。
[26]移のあとの字は原釈文では採だが、他の用例と図版写真により來に修正した。
[27]原釋は□宋。図版により集凡に改めた。
[28]崔啓龍2019は、「示意図」15の1/1377・4/1380・6/1382もこの簿の集計とするが、別の簿の集計である。
 まず、これらはずべて「示意図」15上部最外周の層に位置するが、この層にあるこれら3簡以外の簡は、別の簿のものがほとんどである。まず、2/1378は記載内容から高遷簿の一部であることが明かである。5/1381は民から開始する書式であり、舂平里簿の書式とは相違する(後述する平樂里簿の書式に同じである)。7/1383と8/1384は、書式と長さが「示意図」13の簿に同じである(7/1383は戸人簡にほか二人の成員を連記するが、これは「示意図」13にみえる簿の書式に同じ。長さも、25,1㎝と、舂平里の簡(1401が24.0㎝、1402が23.9㎝)に比較して1㎝長い。8/1384も長さ25㎝)。3/1379は成員二人を中段下段に連記するが、舂平里簿の書式は単記であり、これも舂平里簿ではない可能性が高い。この層には、高遷里簿・平樂里簿・「示意図」13の簿が混在しており、舂平里簿であることが確かなものは無い。ここに見える集計も、これらの簿の集計である可能性が高い
[29]…は図版により補う
[30]不明字のあとの字は原釈文では過であったが、図版により習に改めた。
[31]「竹簡柒」示意図八の諸簡からなり、戸人簡が「嘉禾五年常遷里」からはじまる書式の簿である。これに【六年都郷簿】と同じ年齢の同一人物が見えることは、連先用2018・鷲尾祐子2020a参照。
[32]「竹簡柒」示意図八の諸簡からなり、戸人簡が「嘉禾五年常遷里」からはじまる書式の簿である。
[33]「人頭税負担者集計型」の【四年小武陵郷簿】には人頭税負担者の集計は郷の集計にしか見えないが、次に紹介する嘉禾五年吉陽里棨簿とこれと書式が同じである嘉禾五年高遷里棨簿には里の集計に見える。
[34]人のあとに記号のようなものが見える。記述についてチェック済みであることを意味するものであると考えられる。このような記号でよく使われるのは「中」だが、これは違うものであり、異なる意味があるのかもしれない。
[35]図14にみえる類似の集計に陸1207があるが、これが吉陽の集計であるとすると総人口と大口とが同じ数になってしまうので、こちらは除外した。
[36]嘉禾五年高遷里棨簿は、示意図8の290・291、示意図9の全簡からなる。また「竹簡柒」示意図17.23にみえる諸簡にも、構成簡が含まれている。吉陽里簿と同様に嘉禾五年典田掾黄欣の棨簿という付け札が附されており(典田掾黄欽嘉禾五年所主高遷里魁□□[棨]簿(陸1378/示意図15・2))、書式も同じである。
[37]この「二」は、編綴のずれたものが残存しているものであり、字ではない可能性もある。
[38]釈文は凌文超2011の修正に従った。
[39]凌文超2011は大口について具体的に説明し、15~79歳の筭銭を出さない人々が対象であるとする。広範な対象を想定しているのは、人数の多さからも妥当である。実際の集計を見ると大口人口の全人口に占める比率はたいへん高い。吉陽里棨簿では、総人口271(陸1204)で、大口213人(陸1189)、「竹簡伍」にみえる某郷の簡では総計331人(伍2265)、大口は290人(2266)であり、どちらも九割に近い。筭を免除されている者が対象であるのみならず、筭を負担している者も対象であった可能性が高い。あるいは、15~79よりもさらに幅広い年齢を対象としているのかもしれない。なお、それぞれの納付金額一筭分は、大口銭が28銭(伍2266など)、筭銭が漢と同じ120銭(伍2267など)、小口銭が5銭(貳4408など)である。
[40]重近啓樹1990は『漢書』景帝紀後元二年五月の詔の「今訾算十以上乃得宦」の訾算十を、應劭注が「訾(財産)が十算(十万銭)」と解しており、評価資産を示す際、一万銭を一算とする表現方法が存在したのであるとする。また渡辺信一郎2001は晋以降戸調制下で、各戸の家産の銭額評価(貲)を行って貧富九等に区分し、戸単位に累進課税したと指摘する。呉簡吏民簿でも上・中・下・下之下に各戸を区分しており、晋以降と同じように資産による各戸の区分がおこなわれており、区分の基準は訾であると考えられる。ゆえに、吏民簿にみえる訾も、家産の評価を示していると考えられる。
[41]【四年小武陵郷簿】の例を挙げる。
吉陽里戸人公乘孫潘年卅五筭一 (「竹簡壹」10381 示意図2・130)
    潘妻大女蔦年十九筭一    (「竹簡壹」10382 示意図2・131)
    潘子女□年五歳       (「竹簡壹」10379 示意図2・128)
   凡口三事二 筭二事   訾 五 十  (「竹簡壹」10380 示意図2・129)
[42]原釈は五十一、図版により五十に改めた。
[43]原釈は董、図版により蔡に改めた。
[44]【四年小武陵郷簿】にも鄧角(壹9670)が存在する(凌文超2011が原釈を修正する)。年齢は原釈が卌一だが、図版から確認することができないので、ひとまず除外する。
[45]原釈は京だが、貞に改める。連記されている姪子男の年齢が一致することから鄧角の戸に属することは確実であり、図版では字の確認が難しいが、貞としても違和感が無いと判断した。
[46]原釈は恕であるが、怒に改めた。陸1251のより鮮明な図版写真によれば、怒が妥当である。年齢が一致し、郡吏であること、家族の簡が一致することなどから、同一人物であると判断し得ることにもよる。
[47]妻の名は陸1257が真と釈読され、柒3615は貞と釈すが、どちらも不鮮明であり、どちらが妥当か判断し難い。連記される草の母の名前・年齢が一致することから、同一人物であることは確かである。
[48]姓の嚴字は、壹10149は𥳉とするが、図版により、また三簡が同一人物であることによって改めた。名前の追字は、陸1315原釈は建であるが、三簡が同一人物であるため、最も鮮明な壹10149によって改めた。
[49]娘の名は、陸1313も柒3550も図版からは判然としない。同一人物であることは確かである。
[50]【四年小武陵郷簿】に死者が無いことについて鷲尾祐子2017で指摘した。吉陽里棨簿のみならず高遷里の棨簿にも死者は無いため、この類型の棨簿では死者は書かなかったと考えられる。
[51]新生児の不在については鷲尾祐子2017参照。奴婢を書かないことについては張栄強2010に指摘されている。
[52]鷲尾祐子2017に里集計を列挙した。
[53]原釈は「・右吉[陽里魁]……口食□百七十二人」であるが、図版により改めた。
[54]原釈は「唐祫」だが、他の簡にみえる同一人物の図版と照合しつつ修正した。
[55]鷲尾祐子2020a参照
[56]碩字は原釈では未釈。里魁は谷碩である(陸999)から、碩字を補った。
[57]品中は、戸の等級(上品・中品・下品・下品之下)を指すと考えられる。
[58]郡吏の戸には戸人陸888・896・942の三戸があり、なぜ二戸と記載されているのかは不明である。一戸は何等かの理由で別の範疇になったのか。
[59]原釋は四戸だが、図版写真によれば四の前にもう一字存在する。文字は判読できない。
なお、崔啓龍2020は、陸787・陸791を陸779より後ろに置く。配列はかなり乱れているため、「示意図」の配置からどちらが妥当かを確認することは困難である。崔説が妥当である可能性もある。
[60]定字は、原釋は通。図版により改める。應字は図版により釈す。應の下の字は原釈では一字不明とされるが、編綴のための空格であり、文字は無いようである。
[61]この種の集計については、鷲尾祐子2020b参照。
[62]鷲尾祐子2017【吏民簿3】冒頭解説参照。
[63]原釈の姓名は谷頌だが、關尾史郎2015aは頌字を碩に修正する。これに従う。
[64]崔啓龍2020は、谷贇の戸を復元している。なお、陸908の名を原釋は見とするが、崔2020に従い兒に改めた。また、肆2720の年齢は、原釋は九十二だが、図版により九十三に修正した。
[65]ほかの丘の者も若干存在する。陸819は田家莂50513によれば𦭰丘在住である。
[66]鷲尾祐子2017【吏民簿2】冒頭解説参照。残存する集計にみえる里の戸数はすべて五十戸であり、総人口は「□□五十戸」であることから、すべての里の戸数が50戸であった可能性が高い。
[67]【六年小武陵郷簿】では不明里56戸(伍6840)、【六年中郷簿】は梨下里49戸(伍2793)。
[68]「竹簡捌」示意図10・11の全簡からなる簿。他の棨簿とおなじ見出し簡がある(「典田掾謝韶嘉禾五年所主□□里魁[謝]□□□(捌3632))ため嘉禾五年棨簿であることが明かだが、表題と全里戸口数集計が残存せず、どこの里であるのかが不明である。「徴発対象戸集計型」の書式の里集計があり(「定應役民卅戸」陸3672など)、戸人の簡は公的な地位から始まる書式であり、筭も訾も書かれない。この三点において平樂里棨簿に似るが、平樂里棨簿の民で始まる戸人簡が大男からはじまる点、三人が一簡に連記される点、戸の集計が「右某家口食×人」である点は相違する。
[69]「竹簡壹」9盆、11盆に、南郷宜陽里の簿で戸集計が「凡口×事× 筭×事× 貲×」型である簿が断続的に見える。なかには【六年小武陵郷簿】に同年齢同一人物が存在する例も見える。
「宜陽里戸人公乘烝毛年卌一筭一刑左足」(壹3274)→宜陽里戸人公乘烝毛年卌一刑左足訾五十(伍6556/図34・2)(冒頭字原釈は市、図版により修正)。「竹簡伍」にみえる【六年小武陵郷簿】については1(2)吉陽里棨簿の項で触れた。
[70]「竹簡壹」 の9盆に、常遷里(壹2910・壹2913 戸集計壹2907)富貴里(壹2957など、戸集計壹2963)などの簿で戸集計が「凡口×事× 筭×事× 貲×」型である簿が断続的に見える。「竹簡玖」示意図26にも常遷里(5550)富貴里(玖5528)同類の簿が並ぶ。常遷里・富貴里は都郷所属の里である(連先用2018参照)。
[71]「竹簡参」採集簡29盆に、大成里(参3380など)・高平里(参3383)・首里(参3388)などで戸集計が「凡口×事× 筭×事× 貲×」型(集計参3389・3390など)の簿がみえる。
[72]鷲尾祐子2017【吏民簿3】参照。「徴発対象戸集計型」の里集計が見えないが、戸人の書式は民男子・郡吏などから開始するものである。
[73]【六年廣成郷簿】には五例のみ見えるが(1554・1876・2160・2294・2330)戸集計142簡全体から見れば極めて少数である。
[74]訾を書く書式が大半だが、夫秋里の書式では、訾が書かれない。
夫秋里戸人公乘黄喜年□五筭一(柒5734)
・右喜家口食六人(柒5727)
[75]郷の総戸数を50で割ると端数が出るため、50戸ではない里も存在する。【六年小武陵郷簿】では、一里27戸の例がある。また、同類型の「竹簡肆」中郷簿(楊芬2011・鷲尾祐子2017)も五唐(肆380)・小赤(肆495)・曼溲(肆568)東【夫夫】里(肆428、原釈では五十五だが図版により五十戸に改める)であるが、梨下里(伍2793 周囲に中郷簿梨下里と同書式の簿が見える)は49戸である。
[76]連先用2019も同様に指摘する。
[77]鷲尾祐子2020b参照。
[78]この簿の不可解な点は、「嘉禾六年東㚘里戸人公乘鄧展年廿六筭一 (肆403/図2・178)」という嘉禾六年からはじまる戸人簡も見えることである。これによって本簿の作成年が五年か六年なのか、その両方なのかがわかりにくくなった。ただ、この簿にも死者の集計が存在するのであり、すべての里が同じ期間内に死去した者を集計しているはずである。いつからいつまでの死者の集計か、その期間が同一簿で統一されていないことはあり得ない。ある里は一年間の集計であり、ある里は二年間の集計であるという簿は作成する意味がない。また、徴発対象戸の集計は同一簿では同じ時点での集計のはずであり、里によって集計の時点が相違する簿を作成する意味は無い。嘉禾五年・嘉禾六年ではじまるどちらの簡も、同じ期間内の死者を集計し、同じ時点の徴発対象戸を集計していると考えられる。よって、どちらかの記述は誤りである。本類型の簿には前年の年齢が記載されていることからも、前掲【六年都郷簿】の例に同じく、六年に五年の簿を写して作成したがゆえに、五年と書いてしまったという説明が可能なのではないか。この簿の里の集計として、「嘉禾五年梨下里[魁]□□謹列□□人名年[紀]……」(伍2836)が見えるため、嘉禾五年とも考えられるがが、図版写真によれば五年の部分はほとんど見えないため、考慮に入れない。
[79]その年の新生児を書いていないので、人口集計としては不備がある。
[80] 鄧瑋光2017は、呉簡では同じ里の民は同じ丘に住むことが多いことを指摘する。
[81]鷲尾祐子2020c参照
[82]示意図7の213・214・215・219・231・233・238・246と、示意図8の290・291、示意図9の簡と、「竹簡柒」示意図17(2309・2310・2311・2319・2333)23(2661・2666・2667・2671・2674・2678・2680・2682)。陸373は原釈では訾一□。不明字があるため除外した。
[83]鷲尾祐子2020aで集成した範囲の諸戸のうち、小武陵郷であることが明かな集計のみ対象とした。「竹簡伍」・「竹簡玖」の諸簡は入れていない。以下の諸簡の記載を対象とする。
参4287・4289・4292・4295・4298・4411・4503
柒2392・2395・2428・2442・2443・2444・2449・3192・3215・3217・3675・3679・3685・3686・3687・3693・3698・3700・3705・3706・3710・3713・3715・3717・3721・3723・3745・3753・3775・3834・3863・3930・3949
[84]以下の簡の記載を対象とする。壹10045・10054・10069・10084・10085・10092・10095・10100・10101・10115・10121・10151・10156・10157・10159・10161・10172・10176・10194・10202・10203・10204・10205・10206・10209・10214・10216・10226・10237・10243・10245・10254・10262・10266・10272・10275・10277・10291・10295・10303・10304・10305・10307・10311・10312・10324・10338・10342・10352・10355・10365・10366・10375・10378・10380・10383・10392・10395・10396・10422・10429・10434・10438・10439・10444・10454・10460・10464・10469・10478・10489・10490・10503・10510・10516・10519
[85]原釈は173人である。百の前の字が紐に掛かっているため確認できない。51戸にたいし173人のばあい一戸あたり平均3.4人となり、少なすぎるため、273人とした。
[86]もう一つ注69に挙げた不明な里の集計がある。これは50戸ではなく端数が有るため除外した。
[87]張栄強2014がすでに指摘している。
[88]安部聡一郎2015参照
[89]当時生口(奴隷)の価格が四万~六万である(肆1759・1761・1763)。下品にすらその十分の一の戸税が課せられている。
[90]資産の多い戸が残されているため、奴婢が一人もいない可能性は低い。
[91]壹10200・壹10242・壹10495・壹10544
[92]張栄強2014に従来の説がまとめられている。
[93]集計簡の書式には、ほかに筭集計記すもの(柒854)、右某家口食開始のものある(柒963)。訾が無いものが少数ある(柒855、柒1109)誤脱かもしれない。
[94]なお、鷲尾祐子2017では肆2565(〼三戸限佃民  其/一戸中品/二戸下/)をこの簿の集計としたが、この簡のサイズはこの簿と異なる書式の肆2566(〼右【女□】家口食七人  其/五人男/二人女)に類似し(幅は肆2565は1.3㎝、2566は1,2㎝)、本簿の他の簡(肆2481は0.7㎝)とは全く異なるため、そうではないと考えられる。この簿には「徴発対象戸集計型」の集計は存在しない。
[95]關尾史郎2015bは、このようなタイプの簿が当時にあって最も正式な名籍であった可能性を示唆している。
[96]凡口五事 〼
中 算三事  訾五十 〼
  甲卒一人 〼                              「東牌楼」八二
[97]尚徳街068、069(凌文超2021)      
[98]                  凡口一事
胡剛 長成里戸人公乘剛年十六筭一 中      貲二百五十
                   筭一事     「五一後漢」2010CWJ1③:270/二一七三

参考文献
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