陶安あんど「卒人に關する覺書」

卒人に關する覺書

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陶安あんど(東京外國語大學)

里耶秦簡の簡J1⑧0293+J1⑧0061+J1⑧2012には次のように記されている。

〼未朔己未,巴叚(假)守□敢告洞庭守主[1]:卒人可令縣論〼[2]
卒﹦人﹦(卒人,卒人)上論夬(決)如令[3]。敢告主。/不疑手[4]。●以江州印行事。
六月丙午,洞庭守禮謂遷陵嗇夫:□署遷陵。亟論,言夬(決)。署中曹發。它
如律令。/和手。 J1⑧0293+J1⑧0061+ J1⑧2012正
佐惜以來/欣發 J1⑧0293+J1⑧0061+ J1⑧2012背

文書構造 讀み下し文
添付書類(巴守文書) 前置

【某年某月□】未朔己未、巴假守の□、敢えて洞庭守主に告ぐ。

用件

卒人は、縣に令して【□】を論じて卒人に【上(のぼ)】させ、卒人、論決を上して令が如くすべし。

結び

敢えて主に告ぐ。

附記 作成記錄

不疑手す。

送達記錄

●江州が印を以て事を行う。

文書本體 前置 六月丙午、洞庭守の禮、遷陵嗇夫に謂う。
用件

□は、遷陵に署す。亟(すみ)やかに論じ、決を言え。

附記

中曹發(ひら)けと署(しる)せ。

結び 它は律令が如くせよ。
附記 作成記錄 和手す。
送達記錄 【(某月)某日某時、】佐の惜、以て來る/欣(きん)發(ひら)く。

「□署遷陵(□は、遷陵に署す)」にみえる未釋讀字は人名であり、その人(以下「A」)に對する裁判と判決の報告を指示するのが、遷陵縣に對する洞庭郡の下達文書(表では「文書本體」)の主要な目的である。洞庭郡は、巴郡から所屬の縣に裁判をさせて判決を「令の如く」報告するように求められた(表では「添付書類」)が、巴郡の要求が基づくところの「令」が何を指すかは、本文書から明らかになっていない。

さて、本簡に見える「卒人」は、巴郡の要求する全ての行爲の主語であり、縣に對してAの裁きと判決の報告を命じるのも、縣の報告を受けてさらに上に報告するのもこの「卒人」になるが、巴郡の文書が洞庭守に宛てられている以上、この「卒人」が實際に指すのは、もちろん洞庭守を措いてほかない。つまり、「卒人」は、脇付の如く、直接的な名指しを避けて相手を指す婉曲表現に他ならない[5]

縣レベルでは、「令史」が類似した使い方をする。里耶秦簡では、例えば、簡J1⑧0140には

六月甲午,臨沮丞秃敢告遷陵丞主:令史可以律令從事。敢告主。
六月甲午、臨沮丞の秃、敢えて遷陵丞主に告ぐ。令史、律令を以て從事すべし。敢えて主に告ぐ。

という短い平行文書が記されているが、「遷陵丞」が名宛人になっているからには、「以律令從事」、つまり律令の規定通り事案を處理することについて最終的な責任を負うのは、やはり「令史」ではなく、「遷陵丞」と考えざるを得ない。その意味では、最終的に令史が實際の事務處理を擔當する可能性が高いにせよ、本文書の「令史」は、やはり遷陵丞を指す婉曲表現と解釋すべきであろう。

『論衡』謝短篇には、

兩郡移書曰「敢告卒人」,兩縣不言,何解?
兩郡、書を移すに『敢えて卒人に告ぐ』と曰うも、兩縣、言わざるは、何(いか)にか解する。

という。里耶秦簡から見て、王充の描寫は誤っていない。確かに、郡の閒には「卒人」、縣の閒には「令史」[6]というように、使い分けが明確で、縣閒の公文書では相手を「卒人」と呼ぶことはなかったようである。また、「令史」から類推するには、「令史」が縣長官の直屬の部下であるのと同樣に、「卒人」も郡太守に近い部下と推測されるが、問題は傳世文獻には上揭の『論衡』謝短篇以外「卒人」の用例がなく、「卒人」が如何なる人もしくは官職を指すかは不明である。

引き續き「令史」とのアナロジーから推論を進めれば、郡太守の直屬屬吏には、「卒史」がおり、それが「令の史」と同樣に「卒の史」だとすると、婉曲表現としては「卒人」は或いは「令史」と異なる由來を有する可能性も排除できない。つまり、「令史」が行政組織における縣長官の部下であるのに對して、「卒人」は郡の行政組織には見當たらない。もしかすると、「卒人」という語の起源は、郡が行政組織として確立する前に、新しい占領地に軍司令官として派遣された「太守」に對する婉曲表現にまで遡るかもしれない。そうした場合には、「卒人」の本義は、文字通り軍卒・兵卒ということになろう[7]

ともあれ、現段階では、「卒人」の由來と正確な語義はよくわからない。傳世文獻には上述したように、『論衡』謝短篇の一用例しかなく、出土文字資料にも、婉曲表現以外の用例は極めて少ない。比較できる類例が不足する中、筆者にも、明確な回答を提示する準備ができていないが、從來の幾つかの注釋を振り返って整理し、今後の新史料の將來に備えておきたい。

まず、王國維『流沙墜簡』㷭𤎩類では、簡四十四として、敦煌漢簡2035を引用して、次のように注釋する[8]

『論衡』謝短篇云:「兩郡遺書曰『敢告卒人』,兩縣不言,何解?」此簡乃抵候史德者,而曰「令敢告卒人」,知前漢此語不限於兩郡遺書也。
『論衡』謝短篇に云わく、「兩郡、書を遺(おく)るに『敢えて卒人に告ぐ』曰うも、兩縣、言わざるは、何(いか)にか解する」、と。此の簡、乃ち候史の德に抵(いた)る者なるに、「令、敢えて卒人に告ぐ」と曰えば、前漢、此の語兩郡の遺書に限らざるを知る也。[9]

敦煌漢簡2035[10]には、次のように記されている。

候史德在所。以亭次行。◎ (正)
令。敢告卒人。/九月癸巳,檄□[11] (背)
候史の德の在る所へ。亭次を以て行(や)れ。◎ (正)
令。敢えて卒人に告ぐ。/九月癸巳檄□ (背)

王國維は正面と背面に記されている文字を、關連性のある文章と捉えているようであるが、背面の「令敢告卒人」は、文を成さない。また、背面の文字は、簡の中部當たりから記されており、簡の上半分は、中央に隆起を形成する形で左右から表面が斜めに削り落とされている。推測するに、「令敢告卒人」は恐らく「如法律令敢告卒人」という公文書の結びに當たる言葉の一部で、もとは背面の上半分から中部にかけて書かれたところ、「令」より前の文字が削られたものと考えられる。類似の文章は、例えば、1970年代居延漢簡E.P.T53:33Aに見える。

□長丞拘校,必得事實。牒別言,與計偕。如律令。敢告卒人。
【……】□長丞、拘校して必ず事實を得よ。牒もて別(わか)ちて言え。計と與(とも)に偕(とも)にせよ。律令の如くせよ。敢えて卒人に告ぐ。

そのほかに、1930年代居延漢簡12.1B(A33)や敦煌漢簡1365等においても同樣に、「如法律令。敢告卒人」という表現が公文書の末尾に置かれる。敦煌漢簡2035にももとは「敢告」形式の公文書が書かれていたものの、「如法律」以前の部分が削除され、正面に見える候史の德に當てた他の文書の宛名書きにこの簡が再利用されたと推測される。

以上の推論に誤りがなければ、「卒人」の使用は郡の文書に限定されないという王國維の主張はその史料的裏付けを失うことになる。西北漢簡における「卒人」の使用例を見渡すと、太守から他郡の太守(Ⅴ92DXT1611③:253)、大守や長史から農都尉・護田校尉(4.1、A8)、部都尉(12.1A、A33/E.P.T51:202/Ⅰ90DXT0210④:14等)に宛てたものが見えており、「兩郡」という要件は必ずしも正確に滿たさないものの、郡長官級の脇付[12]として用いられている點では、王充の言葉と大きく乖離もしない。

次に、婉曲表現や脇付以外の用例を探し求めると、目下、『秦律十八種』に見える傳食律の次の規定しか見當たらない。

179 御史、卒人使者,食粺米半斗,醬駟(四)分升一,采(菜)羹,給之韭、葱。其有爵者,自官、士大夫以上,爵食之。使者
180 之從者,食䊪(糲)米半斗;僕,少半斗。 傳食律
御史・卒人の使(つかい)する者、粺米(しろごめ)半斗、醬(ひしお)四分の升一、采(菜)羹を食し、之れに韭・葱を給す。其れ爵を有する者、官・士大夫より以上は、爵もて之れを食す。使者の從いし者は、糲米(くろごめ)半斗を食し、僕は、(糲米)少半斗(を食す)。 傳食律

整理小組は、「御史卒人使者」を「御史の卒人の使する者」と讀み、「御史」と「卒人」についてそれぞれ

御史,此處疑指監郡的御史,『漢書·高帝紀』注引文穎云:「秦時御史監郡,若今刺史。」
御史、此處(ここ)は疑うらくは監郡の御史を指すべし。『漢書』高帝紀注に文穎を引いて云わく、「秦時の御史、郡を監すること、今の刺史が若し」と。

と、

卒人,指某些官的部屬,『論衡·謝短』:「兩郡移書曰『敢告卒人』,兩縣不言。」但從漢簡看,此語不限於兩郡閒的文書,參看王國維《流沙墜簡》考釋。
卒人、幾つかの官の部下を指す。『論衡』謝短には、「兩郡、書を移すに『敢えて卒人に告ぐ』と曰い、兩縣、言わず。」しかし、漢簡よりみれば、この語(の使用)は兩郡の閒の文書に限らない。王國維『流沙墜簡』の考釋を參照。

と注釋する[13]。それに對して、陳偉主編『秦簡牘合集』(以下『合集』)[14]は、御史について

御史,整理者:(中略)。今按:張家山漢簡『二年律令·傳食律』簡232-233:「丞相、御史及諸二千石官使人,(中略)皆得爲傳食。車大夫粺米半斗,參食,從者䊪(糲)米,皆給草具。車大夫醬四分升一,鹽及從者人各廿二分升一。」秦律「御史」亦應指御史大夫。
御史,整理者は(中略)という。今按ずるに、張家山漢簡『二年律令』傳食律簡232-233には、「丞相・御史及び諸々の二千石の官、人を使わす(中略))は、皆な傳食を爲すを得う。車大夫は、粺米半斗、參食、從者は糲米、皆な草具を給す。車大夫は醬四分の升一、鹽及び從者は人ごとに各々二十二分の升一。」秦律の「御史」も亦た御史大夫を指すべし。

というように、整理小組と意見を異にし、且つ「卒人」については、次の二つの案語を加えている。

今按:「卒人」在『二年律令·傳食律』中對應於「二千石官」。又里耶秦簡8-61+8-293-8-2012:「巴叚(假)守丞敢告洞庭守主:卒人可令縣論……」秦律「卒人」似當指包括郡守在内的二千石官。
今按ずるに、「卒人」は、『二年律令』傳食律中に在りては、「二千石官」に對應す。又た里耶秦簡8-61+8-293-8-2012には、「巴假守の丞、敢えて洞庭守主に告ぐ。卒人、縣に令して……論ぜしむべし」とあり。秦律の「卒人」、當(まさ)に郡守を内に包括する二千石官を指すに似たり。

簡文整理者連讀,語譯作「御史的卒人出差」。今按:「御史」下有鉤識符號,竝參看『二年律令·傳食律』,在「御史」下着頓號,兼指御史的使者與卒人的使者(漢律作「使人」)。
簡文の整理者は連讀し、語譯は、「御史の卒人、出差(出張)(するもの)」に作る。今按ずるに、「御史」の下に鉤識符號有り、竝びに『二年律令』傳食律では、「御史」の下に在りては、頓號を着ける[15]を參看するに,御史の使者と卒人の使者(漢律は「使人」に作る)を兼ねて指す(と考えられる)。

『合集』の最も目を惹く點は、「御史」と「卒人」の閒にある「鉤識符號」に關する指摘である。この區切り記號は、1977年の線裝本[16]にもはっきりと見えており、「御史の卒人」と讀む可能性を否定するものと理解される。つまり、「御史」と「卒人」は、『合集』に從って、竝列關係にあると考えるべきである。

一方、整理小組の長所は、「使者」に對する正確な理解に求めるべきように思われる。つまり、「使」は、「御史卒人」を主語に取る自動詞であり、「者」の助字は、「御史卒人が使する」という文節を、後續文章の主題に据える。「……卒人が出張する場合は云々」という整理小組の譯はこの文法構造を正確に表現している。この「使者」の「使」と違って、『二年律令』に見える「使人」の「使」は、他動詞にほかならず、『合集』のようにこの兩者を混同すべきではなかろう。

より具體的に言えば、『二年律令』の規定では、「丞相」・「御史」・「諸二千石官」は、他人を派遣する立場にあるのに對し、『秦律十八種』のいう「御史」・「卒人」は派遣される身分である。前者の御史は「御史大夫」と解して閒違いなかろうが、「御史大夫」本人が地方に派遣されることが通常想定されないから、後者はやはり整理小組の注釋通り、監郡等のために派遣された御史と考えるほかなかろう。

さらに、「御史」と「卒人」の關係を探ってみると、この規定では、兩者は同樣に「使」して地方を巡るものと考えられるが、「御史」が明らかに中央から派遣されたものであるのに對し、『論衡』謝短篇の記載や秦漢簡牘における婉曲表現の使用から推測するに、「卒人」は、もと郡級長官の身邊にいるもので、長官の命を受けて各地を巡るものではないかと推測される。つまり、中央からの使者と郡からの使者は各地を巡る時に『秦律十八種』の傳食律に從って食料の提供を受ける、ということになる。

ここにはまたすぐに樣々な問題が立ち現れる。嶽麓秦簡の『三十四年質日』簡05・44や『爲獄等狀四種』簡014等からは、監郡のために派遣された御史が、「府」を開いて、日々の行政處理にも積極的に口出しをする姿が窺える。そこに見える「監御史」は、地方を巡る使者というよりも、むしろ官廳を構えた行政組織の長と捉えた方が實情に近かろう。或いは自ら「人を使わす」權限をも有するかもしれない。このような長官としての「御史」と、使わされる身分にある『秦律十八種』の「御史」とは、どういう關係にあるのだろうか。睡虎地秦簡の「御史」は、監御史が一種の行政組織に變質する以前の「古い」形の御史なのか、それとも監御史の形が確立してからも引き續き臨時の任務を帶びて中央から派遣される御史が地方を巡っていたのだろうか。想像を逞しくすれば樣々な可能性が見えてこようが、確かな史料的根據がない以上、『秦律十八種』の「御史」と「卒人」を、傳食律の規定に沿って取りあえず「中央からの使者」と「郡からの使者」として區別し、後者の「卒人」を郡級長官の身邊にいる部下と解釋するにとどめたい。

附記:小文は、アジア・アフリカ言語文化硏究所共同利用・共同硏究課題「里耶秦簡と西北漢簡にみる秦・漢の繼承と變革――中國古代簡牘の橫斷領域的硏究(二)」における議論を踏まえているほか、科學硏究費(基盤硏究B、課題番號16H03487)「最新史料の見る秦・漢法制の變革と帝制中國の成立」の硏究成果を含む。


編集者註記:2016年10月12日入稿

[1] 「□」、『校釋』は「丞」に作るが、字形と合わない。

[2] 簡の右下の角が缺けており、殘決部分には二字ほど入る。文意から推測するに、第一字は人名で、第三行「□署遷陵」の未釋讀字と同じ人を指し、第二字は、「上(のぼす)」と推測される。

[3] 「上」、『校釋』は「已」に作るが、圖版に基づいて改めた。「夬(決)」、原釋文は「史」、『校釋』は「它」に作るが、圖版に基づいて改めた。

[4] 「/」という區切り記號は、原釋文と『校釋』には見えず、圖版に基づいて補った。その下に續く作成記錄「不疑手」は、通常の書式からすれば、巴郡文書の原本では、背面の左下の角近くに記されたはずであるが、洞庭郡の屬吏が本文書作成のため巴郡の文書を書き寫した際ここに插入したと推測される。そのほかにも、原本には、「上論決如令」の「令」などについてより詳しい情報が書かれたに相違ないが、それも複寫の際の節略と考えられる。

[5] 「卒人」については、後揭の『論衡』謝短篇に對する黃暉『論衡校釋』の注釋には、

不敢直言,但告其僕御耳。
敢えて直言せず、但(た)だ其の僕御に告ぐる耳(のみ)。

といい、陳直は、『居延漢簡綜論』第三十四章「居延漢簡所見漢代典章及公牘中習俗語」(1962年序、陳直『居延漢簡硏究』(天津古籍出版社、1986年)より引用。また同『居延漢簡硏究』(中華書局、2009年)にも收錄)において、

卒人雖係指府門卒,實指太守或都尉而言,等於後代人之稱閣下也。
卒人、府門卒を指すに係ると雖も、實は、太守或は都尉を指して言い、後代人の閣下と稱する等しき也。

というように、敬稱もしくは「脇付」として説明している。同「《論衡·謝短》等篇疑難問題的新解」(文史哲1961年第2期)にもほぼ同じ記述が見られる。日本では、大庭脩は、『大英圖書館藏敦煌漢簡』(同朋舍出版、1990年)45頁(簡504の釋文)において、「卒人」を直接兵卒に語り掛ける意味に捉える(『漢簡硏究』第一篇第五章「檄書の復原」も同じ。同朋舍、1992年)が、鷹取祐司「秦漢時代公文書の下達形態」(立命館東洋史學第31號、2008年。後同『秦漢官文書の基礎的硏究』第一部第二章「秦漢官文書の用語」の數節に分けて收錄。汲古書院、2015年)は、その誤れることを明確に指摘し、再び敬稱もしくは脇付という解釋を揭げた。

[6] 前揭の簡J1⑧0140のほか、J1⑧0021・J1⑧1219・J1⑨0984も同樣である。

[7] 陳直は前揭著書において、

卒人指府門卒而言,内官公卿,外官太守及都尉府皆有之。(府門卒見漢書韓延壽傳,及曲阜麃君亭長二石人題字,或稱爲寺門卒,見近出望都壁畫題字。)縣令長無府門卒之制度,故王充設作疑問,稱爲兩縣不言何解也。
卒人は、府門卒を指して言うなり。内官は公卿、外官は太守及び都尉府、皆な之れ有り。(「府門卒」は『漢書』韓延壽傳及び曲阜の麃君亭長二石人の題字に見う。或は稱して「寺門卒」と爲し、近出の望都壁畫の題字に見う。)縣の令・長、府門卒の制度無ければ、故に王充疑問を設作し、稱して「兩縣言わざるは何(いか)にか解する」と爲す也。

というように、「卒人」を「門卒」に由來する呼稱と捉えるが、「卒人」と「門卒」との閒に必ずしも明確な關係性が認められまい。

[8] 羅振玉・王國維『流沙墜簡』(京都、1914。引用は1993年中華書局影印本による。句讀は筆者による)。

[9] 羅振玉・王國維『流沙墜簡』(前揭)141頁。圖版は35頁。

[10] 甘肅省文物考古硏究所編『敦煌漢簡』(中華書局、1991年)。また、大庭脩『大英圖書館藏敦煌漢簡』(同朋舍出版、1990年)簡504。

[11] 王國維は「檄□」を「敦煌」に作る。また王國維および甘肅省文物考古硏究所編『敦煌漢簡』はともに「/」を「□」に作る。圖版に基づいて改めた。

[12] 意味的には大きな差異が認められまいが、里耶では、相手を婉曲に指す代名詞のように用いられるのに對し、西北漢簡では、「敢えて都尉卒人に告ぐ」というように、直接に受信者の下に付せられる脇付に變わる。

また、西北漢簡には、婉曲表現もしくは脇付と解釋できない「卒人」の用例が一つみられるが、それは、「卒一人」の誤りと推測される。つまり、甲渠候官出土の1970年代居延漢簡の簡E.P.T52:156には、

吞遠燧長赦之。  卒人櫝蓬〼

と記されているが、同じ「探方」(發掘區畫)から出土した簡E.P.T52:66には、

〼卒一人櫝蓬火品未習

とあり、兩者がもと一つの名籍に屬していたと考えられる。もとより、簡E.P.T52:156の「卒」と「人」の閒には、橫方向の微かな影が見えており、「卒人」が「卒一人」の誤釋という可能性も否定できない。

[13] 睡虎地秦墓竹簡整理小組編『睡虎地秦墓竹簡』(文物出版社、北京、一九九〇年)釋文注釋60頁。

[14] 武漢大學簡帛硏究中心・湖北省博物館・湖北省文物考古硏究所編、陳偉主編『秦簡牘合集』(武漢大學出版社、2014年)。

[15] 「及」字を指すと考えられる。

[16] 睡虎地秦墓竹簡整理小組編『睡虎地秦墓竹簡』(文物出版社、北京、一九七七年)。