陶安あんど「里耶秦簡における「校」・「校券」と「責券」に關する覺書」

里耶秦簡における「校」・「校券」と「責券」に關する覺書

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陶安あんど(東京外國語大學)

1. 問題の所在

『説文解字』の説明に從えば、「校」の本義は、刑具の一種を指す。木部には、

校,木囚也。
校、木もて囚(つな)ぐなり。

という。『易經』噬嗑には、

初九,屨校滅趾。(中略)上九,何校滅耳。
初九は、校を屨(は)きて趾(あし)を滅(しず)む。(中略)上九は、校を何(にな)いて耳を滅(しず)む。

とあり、足枷にも首枷にもこの字は使えるが、他の訓詁から類推すれば、刑具という字義は、木を「連ねる」・「交える」・「比(なら)べる」ことに由來するようである。徐鍇『說文解字繫傳』には、次のように説明する。

鍇案:校,連木也。易曰何校滅耳,此桎也;屨校滅趾,梏也。又漢書校獵謂連接木以闌禽獸。又軍中有校隊,亦是也。
鍇案ずるに、校は、木を連ぬる也。『易』に、校を何(にな)いて耳を滅(しず)めると曰うは、此れ桎なり。校を屨(は)きて趾(あし)を滅(しず)めるは、梏なり。又た『漢書』の「校獵」は、木を連接して以て禽獸を闌(さえぎ)るを謂う。又た軍中に校隊有るも、亦た是れなり。

つまり、刑具のみならず、「ませ」・「軍營」等を含めて、字義は、木を竝べたり組み立てたりすることに由來するという。より抽象的な「對抗」や「校訂」等の字義も、それを「竝べる」義と關連付けて理解することが困難ではない。例えば『史記』春申君列傳に

韓、魏之彊,足以校於秦
韓・魏の彊は、以て秦に校(あ)たるに足る。

というのは、匹敵する、つまり匹(たぐ)えて敵(あ)たる意味、『國語』魯語に

昔正考父校商之名頌十二篇於周太師。
昔、正考父、商の名頌十二篇を周太師に校(くら)ぶ。

というのは、比較する、つまり比(なら)べて較(くら)ぶる意味に捉えることができる。

さて、文書行政では、「校」が動詞として「比較して調べる」意を表すのは、夙に『漢簡語彙――中國古代木簡辭典』等[1]が指摘する通りである。例えば、1930年代の居延漢簡には、

校候三月盡六月折傷兵簿,出六石弩弓廿(二十)四,付庫;庫受嗇夫久廿(二十)三,而空出一弓,解何? 179.6 A33
候が三月より六月を盡くすの折傷兵簿を校(しら)ぶるに、六石弩弓二十四を出だして、庫に付したるに、庫、嗇夫の久より二十三を受く [2]。而して空(むな)しく一弓を出だすは、解何ぞや。

という。A33という出土地からすると、「候」は肩水候官の長官を指しており、この文書の發信者は、肩水都尉府の役人と考えられる。都尉府が肩水候官の「折傷兵簿」について「校」を行ったところ、候官の「折傷兵簿」には、庫に「六石弩弓」を二十四張渡したと記されているのに、庫の方では、二十三張のみ受領したという。つまり、候官と庫の提出した書類を比較した結果、候官の方が一張多く支出したことが判明した。里耶秦簡から類例を示すと、簡J1⑧2010+J1⑧0064には次のように記されている。

卻之:廷令尉、少内各上𤻮(應)書廷,廷校。今少内□
日備轉除以受錢,而尉言毋當令者。節 J1⑧2010+J1⑧0064正
當坐者,以書言。署金布發 J1⑧2010+J1⑧0064背

文書構造 讀み下し文
文書全体 前置 之れを卻(しりぞ)く。
本文 根據資料 廷、尉・少内に令して、各々應書を廷に上せしめ、廷、校す。
用件

少内□【……】日備わり、轉じて除き、以て錢を受くるに、尉、令に當たる者なしと言う。もし【……】當(まさ)に坐すべき者【……】書を以て言え。金布發(ひら)けと署(しる)せ。【……。】

結び 【……。】

これは、縣廷から縣尉に當てた文書と推定される。縣廷は以前縣尉と少内とに對して、何らかの金錢の授受に關わる報告を指示したが、その指示に應(こた)えて提出された報告書(つまり尉と少内の「應書」)を竝べて調べたところ、少内の報告書には、金錢の授受に關する記載がなされているのに、縣尉の方では、該當なしと報告している。ここも二つの機關の書類を比較することによって、架空支出等の不正が發覺し、責任者の處罰と書面による報告が求められている。

このように、動詞として用いられる限り、「校」は、「比較して調べる」というごく常識的な字解と合致する働きをする。問題は、名詞として一定の文書もしくは書類を指して使われる「校」もしくは「校券」の正確な理解である。「校」もしくは「校券」は如何なる文書を指すのか、その文書は、比較して調べるという「校」の手續の中で如何なる位置を占めるのか、といった問いについては、里耶秦簡の原文に卽してもう少し檢討する必要があるように思われる。

2. 「校」という文書と「校」という手續

簡J1⑧0166+J1⑧0075には、次のように記されている。

廿(二十)八年十二月癸未,遷陵守丞膻之以此追如少内書。/犯手。
甲申水下七刻,高里士五(伍)□行。
七月辛亥,少内公敢言之:計不得敢(?)膻隤,有令。今遷陵已定,以付郪少内金錢計﹦(計,計)廿(二十)
□年。謁告郪司佐:□雖有物故後計,上校以𤻮(應)遷陵,毋令校﹦(繆。繆)任不在遷 J1⑧0166+J1⑧0075正
弗用,不來報。敢言之。/氣手/□□水下八刻,□□以來。/敞。
七月壬子,遷陵守丞膻之敢告郪丞主:寫移。敢告之。/尚手。/□水下 盡,佐□行旁。
□□水下□刻,□□以來。/犯半。 J1⑧0166+J1⑧0075背

文書構造 讀み下し文
文書本體 二十八年十二月癸未、遷陵守丞の膻之(たんし)、此を以て、追すること少内書が如くす。
附記 送達記錄 甲申水下七刻、高里士伍□、行(や)る。
作成記錄 /犯手す。
添付書類② 文書本體 前置 七月辛亥、少内の□、敢えて之れを言う。
本文 根據資料

計、敢えて膻隤するを得ず、令有り。

用件

遷陵已に定め、以て郪少内が金錢計に付し、二十□年に計す。謁うらくは、郪司佐に告げん。
「□物故計に後るる有りと雖も、校を上(のぼ)して以て遷陵に應(こた)えよ。校をして繆らしむるなかれ。繆任は遷【陵】に在らず。【……。】」
(これを)用いず、來報せず。

結び 敢えて之れを言う。
附記 送達記錄

□□水下八刻、□□以て來る。/敞半(ひら)く。
□□水下□刻、□□以て來る。/犯半(ひら)く。

作成記錄 氣手す。/
添付書類① 文書本體 前置 七月壬子、遷陵守丞の膻之、敢えて郪丞主に告ぐ。
用件

寫移す。

結び 敢えて之れを告ぐ。
附記 送達記錄

/□水下盡、佐□、旁に行(や)る。

作成記錄 /尚手す。

この文書では、遷陵縣の副長官代理の膻之(たんし)が、出先機關の少内の依賴を受けて、郪縣に對して、「校を上す」ように督促している。文書構造表では、少内の依賴文書に、便宜的に「添付書類②」という標題を附したが、少内の文書によれば、遷陵の方では、郪縣との閒で授受が行われた何らかの金品について、郪縣の少内の「金錢計」に渡したとして、二十□年の會計報告書に記載したという。この會計處理について、遷陵縣に應(こた)える形で、郪縣の方からも「校を上す」ように促すのである。その目的は、「校」を誤らせないためであり、「校」において何らかの誤りがあったとしても、その責任は遷陵縣ではなく郪縣の方にあるともいう。

「校」字は二回用いられるが、一つ目の「校」が縣が上級機關に提出する文書もしくは書類を指すのに對して、二つ目は、その提出を受けて上級機關の方でその内容を「比較して調べる」手續のことをいう。「遷陵に應(こた)える」とあることから、遷陵縣も何らかの書類を提出していると考えて閒違いない。つまり、郪縣と遷陵縣の提出資料を竝べて比較する形で、監査が行われる。そこから「校」について新たに分かるのは、文書としての「校」は、調査した内容や照合の結果を記した文書ではなく、照合の材料となる證明文書もしくは證據資料を指す、ということである。

3. 「校券」と「責券」

次に、「校」が「券」と熟した場合には、照合の材料となるべき證明文書という意味に變わりがなかろうが、文書が、刻齒等を伴う「券書」の形態を持つことが加えて明示されるようになる。しかも、「校券」のほかに、「責券」という熟語も存在するが、「校券」と「責券」とが明確に區別されることは、次の簡J1⑧0135から明らかになる。

廿(二十)六年八月庚戌朔丙子,司空守樛敢言〖之〗:前日言:競陵漢陰狼假遷陵公船一,袤三丈三尺,名曰□,
以求故荊積瓦,未歸船。狼屬司馬昌官,謁告昌官令狼歸船。●報曰:狼有逮,在覆獄巴卒史
衰、義所。今寫牧〔校〕券一牒,上。謁言巴卒史衰、義所,問狼船存所。其亡之,爲責券移遷陵;弗亡,誰屬?
謁報。敢言之。 /九月庚辰,遷陵守丞敦狐卻之:司空自以二月叚(假)狼船,何故弗蚤辟,到今而
誧(甫)曰謁問覆獄卒史衰、義?衰、義事巳(已),不智(知)所居。其聽書從事。/憲手。卽令行司空。 J1⑧0135正
月戊寅,走己巳以來。/憲半。□手。[3] J1⑧0135背

文書構造 讀み下し文
添付書類②(校券)
添付書類①(自言文書) 前置 二十六年八月庚戌朔丙子、司空守の樛、敢えて之れを言う。
本文 資料根據

前日言わく、

競陵漢陰の狼、遷陵が公船一、袤(なが)きこと三丈三尺、名は□と曰うを假(か)り,以て故荊の積瓦を求む。未だ船を歸さず。狼、司馬の昌官に屬すれば、昌官に告げて、狼に令して船を歸さしむるを謁う。

●報じて曰わく、

狼、逮有り、覆獄巴卒史の衰・義が所に在り。

用件

券一牒を寫し、上す。謁うらくは、巴卒史の衰・義が所に言い、狼に、船の存ずる所を問わしめよ。其れ、之れを亡くしたらば、責券を爲(つく)りて遷陵に移されたし。(これを)亡くさずんば、誰にや(これを)屬(たの)みたる。

附記

報ぜられんことを謁う。

附記 送達記錄 八月戊寅、走の己巳、以て來る。/憲半(ひ)く。
作成記錄 □手す。
文書本體 前置 /九月庚辰、遷陵守丞の敦狐、之れを卻(しりぞ)く。
本文

司空自ら二月を以て狼に船を假したるに、何故(これを)蚤(はや)く辟せず、今に到りて甫(はじ)めて覆獄卒史の衰・義に問うを謁うと曰う。衰、義が事已(や)みたれば、居る所を知らず。

結び

其れ書に聽(したが)いて從事せよ。

附記 送達記錄 卽ちに走の□に令して司空に行(や)りしむ。
作成記錄 /憲手。

最終的には、司空の依賴が遷陵縣の副長官代理の敦狐によって却下されるが、司空の依賴文書には、司空の視點から物品の返還に關わる手續が描かれており、興味深い内容となっている。返還が問題となっている物品とは、狼という人が司空から借りた官有の船舶である。簡J1⑧0135に記されている文書に先立って、以前にも司空が縣廷に對して、船舶の返還に關わる依賴をした。「前日言」に續く文章には、その依賴文書の槪要が述べられている。それによれば、その時司空は、借主の狼が司馬という縣の出先機關に屬しているとしてその配屬先を特定し、司馬の長官である昌官に返還を求めるように縣廷に依賴した。その依賴に對して、縣廷は、狼が覆獄巴卒史の衰と義のところに拘束されて取調べを受けていると返答したので、司空が「校券」を縣廷に提出し、事件について衰と義に報告するように求めた。さらに、司空が衰と義に望む解決の方法は、船の返還ではなく、狼に船の所在を尋ねることである。その所在が判れば、誰に渡したか、つまり現に船の管理をしている責任者名を通知し、分からなければ、「責券」を發行して、遷陵に移送する、というように依賴している。

ここで注目すべきは、「校券」と「責券」の發行のタイミングである。「責券」が發行されるのは、少なくとも司空の想定では、船の紛失が確認された時點である。その時點で、船の返還義務に代わって、狼は船に關わる賠償責任債務を負うことになる。狼は覆獄巴卒史の所に拘束したまま、「責券」のみ遷陵縣に移送するように依賴しているのは、本籍地である競陵縣(江夏郡)に、家族を對象とした回收手續を依賴するためと推測される。一方、「校券」は、狼の拘束によって、船舶の直接的な返還が見込めなくなった時點で發行される。記載内容も、最終的な提出先も、文面からは判明しないが、前揭の簡J1⑧0166+J1⑧0075と同樣に、「校券」は上級機關における「校」に備えて提出されたように思われる。しかも、責券とは發行主體と發行時期が異なる等の事實からすれば、この「校」は、船舶の返還もしくは金錢の取り立てを目的とせず、もっぱら行方不明になった官有の船舶の會計處理に關係すると推測される。

そこで、會計處理との關連から校券について考察を試みると、この船舶は、會計上遷陵縣の司空に屬しているから、未返還のまま放置してしまうと、司空は、次の會計監査においてその「不備」を指摘され、賠償責任を負わされることになる。そうした事態を回避するためには、その船舶を合法的に帳簿から抹消しなければならないが、そのためには、船舶の新しい管理機關(もしくは競陵縣)の會計上、船舶(若しくはそれに代わる賠償金)が計上されなければならない。文書發信の時點ではまだ不確實な要素が多かったが、最終的には、先方における「計上」と遷陵における「抹消」とを照合するために、恐らく司空の抹消に關わる記述を内容とした「校券」が司空から提出されたのではないかと推定される。

4. 「校券」の提出先

次に、司空の「校券」が最終的に如何なる「上級機關」に提出されるかが問われるが、前揭の簡J1⑧0135では、遷陵縣と「覆獄巴卒史」とが行政組織の職階上如何なる關係にあるかが不明なため、統屬關係が明瞭な次の簡J1⑧0063に卽して校券の提出先と校の實施主體について檢討してみよう。

廿(二十)六年三月壬午朔癸卯,左公田丁敢言之:佐州里煩故爲公田吏,徙屬。事荅不備,分
負各十五石少半斗,直(值)錢三百一十四。煩宂佐,署遷陵。今上責、校券二,謁告遷陵,
令官計者定,以錢三百一十四受旬陽左公田錢計。問可(何)計付,署計年爲報。敢言之。
三月辛亥,旬陽丞滂敢告遷陵丞主:寫移﹦(移,移)券。可爲報。敢告主。/兼手。
廿(二十)七年十月庚子,遷陵守丞敬告司空主:以律令從事。言。/懭手。卽〖令〗走申行司空。 J1⑧0063正
十月辛卯旦,朐忍𡩡秦士五(伍)狀以來。/慶半。兵手。 J1⑧0063背

文書構造 讀み下し文
添付書類③(責校券二)
添付書類②(旬陽左公田上行文書) 文書本體 前置 二十六年三月壬午朔癸卯、左公田の丁、敢えて之れを言う。
本文 根據資料

佐州里の煩、故(もと)公田が吏にして、屬を徙したり。荅を事(おさ)むること備わらず、各々十五石少半斗を分負し、錢三百一十四に值(あたい)す。煩、宂佐として,遷陵に署す。

用件

責・校券二を上す。謁うらくは、遷陵に告げ、官の計する者に令して定めしめ、錢三百一十四を以て旬陽の左公田が錢計より受(う)けしめよ。

附記

問え、何(いず)れの計に付するや、と。計・年を署(しる)して報を爲せ。

結び 敢えて之れを言う。
附記 作成記錄 兵手す。
添付書類①(旬陽縣平行文書) 文書本體 前置 三月辛亥、旬陽丞の滂、敢えて遷陵丞主に告ぐ。
用件

寫移し、券を移す。

附記 報を爲すべし。
結び 敢えて主に告ぐ。
附記 送達記錄 十月辛卯旦、朐忍𡩡秦の士伍の狀、以て來る。/慶半(ひら)く。
作成記錄 /兼手す。
遷陵縣下行文書 前置 二十七年十月庚子、遷陵守丞の敬、司空主に告ぐ。
用件

律令を以て從事せよ。

附記

言え。

結び -
附記 送達記錄 卽ちに走申に令して司空に行らしむ。
作成記錄 /懭手す。

これは、遷陵縣の副長官代理の敬が、旬陽縣がその出先機關の左公田から轉送した券書と依賴文を受けて、自らの出先機關の司空に處理を指示した文書である。處理すべきは、以前旬陽縣の左公田に勤めていた佐の煩という人の債務「錢三百一十四」である。この債務について、左公田は「責券」と「校券」とを旬陽縣廷に送り、遷陵縣に債權回收を依賴するように求めている。債權回收後の會計處理については、錢三百一十四を旬陽縣左公田の「錢計」から「受」けたものとして遷陵縣の會計に組み入れるように指定している。つまり、遷陵縣と旬陽縣との閒には、現金の授受は行われず、遷陵縣が取り立てた金品は、遷陵縣に据え置いたまま、相互に相手に支出した若しくは相手から受領したものとして計上されるに過ぎない [4]

そこで、「責券」と「校券」の具體的な使い方を推測すると、「校券」は、前述した「校」と同樣に、上級機關における照合手續(「校」)のための證明文書であるとして、同じ文法構造を持つ「責券」は、「責」つまり債權の取り立てのための證明文書と假定しよう。取立てを行うのは、遷陵縣にほかならないから、「責券」の最終的な提出先は遷陵縣と考えられる。一方、校という照合の手續は、前揭の簡J1⑧0166+ J1⑧0075と同樣に、兩縣における會計處理が終わってから、上級機關において行われなければならず、それに備えて、「校」もしくは「校券」は、上級機關に提出されなければならない。

ところが、遷陵縣と旬陽縣は、それぞれ洞庭郡と漢中郡に屬しており、兩者の直接の上級機關は異なる。したがって、通常の上申經路を基準に考えれば、兩縣の「校券」を同一の上級機關において竝べて調べるには、洞庭郡と漢中郡からそれをさらに朝廷に上呈しなければならないが、こうした細かな會計處理にまで一々朝廷を煩わしていたのだろうか。もちろん、上計は最終的に地方の會計データを朝廷に集約する制度に他ならないが、鄕から縣と郡を經て朝廷に至るまでの過程において、データが徐々に纏めて整理されていくと考えるのも當然ではないだろうか。個別的會計處理もが一々朝廷による「校」を經なければならないとしたら、朝廷も煩瑣に堪えまい。

そうした非現實的な結論を避けるためには、今一度ここまでの議論の前提となった諸假説を振り返って考え直さねばならない。「校」が「比較して調べる」手續きである、という點は動かし難く、また、「校券」が上級機關における「校」の手續きに備えて提出される事實も、前揭の史料から明らかである。一方、遷陵縣と旬陽縣とが提出した二つの「校券」を竝べて調べる形で上級機關において「校」が行われるとすれば、最終的に朝廷にしかそうした「校」の手續きができないことになるが、實は、校において二つの「校券」を「竝べて調べる」と想定する必要は必ずしもなく、「校券」を他の資料と竝べて調べた可能性も考えねばならない。

言い換えれば、遷陵縣と旬陽縣とが洞庭郡と漢中郡に提出した「校券」についてそれぞれ當該郡において「校」がなされると假定すると、むしろそれぞれの郡において「校券」を他の資料と「竝べて調べる」形で「校」が行われたと考える必要があるかもしれない[5]

5. 「校」と「上計」の關係

そこで思い出されるのは、第二節の冒頭に揭げた簡J1⑧0166+J1⑧0075において、「計に後るる」可能性が指摘されたことである。簡J1⑧0166+J1⑧0075では、何らかの事情で「計」より遲れた場合でも必ず「校」を提出するように念を押しているが、それは裏返せば、「校」が本來「計」に閒に合わせて提出されるべきことを語るように思われる。それを裏付けるのは次の簡J1⑧0164+ J1⑧1475の記載である。

九年後九月辛酉朔丁亥,少内武敢言之:上計
□□而後論者獄校廿(二十)一牒。謁告遷陵將計丞
上校。敢言之。 J1⑧0164+J1⑧1475正
九月丁亥,水十一刻﹦(刻刻)下三,佐欣行廷。 欣手。 J1⑧0164+J1⑧1475背

文書構造 讀み下し文
添付書類 【獄校二十一牒】
文書本體 前置 【二十】九年後九月辛酉朔丁亥、少内の武、敢えて之れを言う。
用件

計の□□して後に論じられたる者の獄が校二十一牒を上す。
謁うらくは、遷陵將計丞に告げて校を上せしめよ。

結び 敢えて之れを言う。
附記 送達記錄 【後】九月丁亥、水十一刻、刻下三、佐の欣(きん)、廷に行(や)る。
作成記錄 欣(きん)手す。

これは、少内から縣廷に當てた文書であるが、主要目的は、獄校二十一牒を上呈することである。「獄校二十一牒」はすべての「獄校」ではなく、「計□□而後論者」の獄に關わる「校」に限定される。「計」の下に未釋讀字が二つあり、簡の缺損のため解讀が困難であるが、J1⑧0705に「已上後死亡輸它縣官」とあることから類推して、通常の上計書類が上呈された後に論斷が行われた獄について追加的に校が提出されたと推定される。上計は年度末で締め切られるが、郡や縣ではそれぞれ年度末から遡って個別の締切期日が設定されていたと考えられる。その期日以降も獄などが發生するので、少内は、そうした獄に關わる「校」を臨時に「二十一牒」に纏めて提出し、將計丞、つまり上計團長を務める遷陵縣の副長官に持たせて郡に提出するように依賴している。

そのほかにも、簡J1⑧0108+J1⑧0002に「與計偕」と見えるように、「上計」に添える形で提出される書類があるようであるが、「計に後れる」ことの強調や將計丞による「校」の提出からすれば、「校」も本來は「計」とともに縣から郡に上呈される可能性が高い。したがって、郡で實施される「校」という手續においても、「校」もしくは「校券」という證據書類が、他の「校」もしくは「校券」とではなく、上計書類と竝べて調べられる可能性が最も高いように思われる。問題は、「校」も「計」も縣から上呈されるとしたら、それを竝べて調べることによって、どうして「計」に對するチェック機能が期待できるのだろうか。「比較して調べる」という「校」の手續が監査の役割を果たすには、當然異なる發行者の證據書類を竝べて調べる必要がある。そこで、今一度「校」の提出主體と區別して、「校」の發行主體を檢討しなければならない。

6. 「校」の發行主體

第二節では、文書としての「校」が、照合した結果を記した證明文書ではなく、上級機關における照合に備えるための證明文書もしくは證據資料であるという觀點を提示したが、それを支持する傍證としては、「校」もしくは「校券」の發行主體に、そもそも照合できるだけの證據書類がなさそうな場合が多いという事實を舉げることができる。例えば、官有船舶の未返還事件においては、貸主の遷陵縣司空が「校券」を發行するが、それが照合した結果を記した證明文書だとすれば、司空は、狼に船舶を貸したという自らの主張を、如何なる書類との照合によって補強できるのだろうか。船舶の貸出もしくは未返還が捏造であるとすれば、司空が幾ら「校」を行って新たな證明文書を發行しても、少しも證明力を高めることが期待できない。その意味では、司空が校券を發行するのは、あくまでも船舶の貸出に關わる自らの主張を明文化する意味しかなく、それ自體が證明力を有するというよりも、その後他の機關において他の書類と照らし合わせて始めて何かの證明力を發揮すると考えられる。

ここで參考になるのは、「校券」の返却に關わるJ1⑧0060+J1⑧0656+J1⑧0748+J1⑧0665の次の記述である。

十二月戊寅,都府守胥敢言之:遷陵丞膻曰:少内巸言:冗
佐公士僰道西里亭貲三甲,爲錢四千卅(三十)二。自言家能入。
爲校券一,上,謁告僰道,受責。有追,追曰:計廿(二十)八年
責亭妻胥亡,胥亡曰:貧,弗能入。謁令亭居署所。上眞書,謁環(還)□
僰道弗受計。亭䜢當論,論。敢言之。 J1⑧0060+J1⑧0656+J1⑧0748+J1⑧0665正
十二月己卯,僰道𨛭敢告遷陵丞主:寫
事。敢告主。/氷手。/ 六月庚辰,遷陵丞昌告少内主:以律令[6]
手。/六月庚辰,水十一刻刻下六,守府快行少内。
六月乙亥,水十一刻刻下二,佐同以來。/元半[7] J1⑧0060+J1⑧0656+J1⑧0748+J1⑧0665背

文書構造 讀み下し文
添付書類②(僰道都府守上行文書) 文書本體 前置 十二月戊寅、都府守の胥、敢えて之れを言う。
根據資料

遷陵丞の膻、曰わく、

少内の巸(い)、言わく、

冗佐公士の僰道西里の亭、貲三甲あり、錢四千卅(三十)二たり。自ら言うに、家、能(よ)く入る。校券一を爲(つく)り,上(のぼ)す。謁うらくは、僰道に告げて、(計)受けて(錢を)責めしめよ。

追有り、追に曰わく、

計二十八年【□】。

用件

亭が妻の胥亡を責むるに、胥亡曰わく、

貧にして、(これを)入るる能(あた)わず。

謁うらくは、亭に令して署する所に居せしめよ。眞書を上ぼせば、□□に還さんことを謁う。僰道、(これを)計に受けず。
亭、䜢(あざむ)きて當(まさ)に論ずべけんば、論ぜよ。

結び 敢えて之れを言う。
附記 作成記錄 -
添付書類①(僰道平行文書) 文書本體 前置 十二月己卯、僰道の𨛭(しょ)、敢えて遷陵丞主に告ぐ。
用件

寫して【上す。謁うらくは……。律令を以て從】事せよ。

結び 敢えて主に告ぐ。
附記 送達記錄 六月乙亥、水十一刻、刻下二、佐の同、以て來る。/元半(ひら)く。
作成記錄 /氷手す。
遷陵縣下行文書 前置 六月庚辰、遷陵丞の昌(しょう)、少内主に告ぐ。
用件

律令を以て從【事せよ。】

結び -
附記 送達記錄 /六月庚辰、水十一刻、刻下六、守府の快、少内に行(や)る。
作成記錄 【□】手す。

遷陵縣は、僰道(ほくどう)が轉送してきた都府守の文書をさらに遷陵縣の少内に轉送するが、主な用件は何れも都府守の文書(「添付書類②」)に記されている。すなわち、以前に遷陵縣が配下の少内の依賴を受けて、「校券」を僰道に送付し、僰道出身の亭という人の「貲三甲」に起因する債務を家族から取り立てるように求めたが、僰道の方で都府守が債權回收を試みたところ、家族に支拂い能力がなく、回收が失敗に終わる。そこで、都府守は、遷陵縣から送られてきた「校券」の原本(「眞書」)を再び僰道に上呈し、遷陵縣に返送することを申し出た。

債權回收が成功した場合如何なる處理がなされたのであろうか。第四節でも述べたように、他縣に債務の取り立てを依賴した場合には、現金の授受が行われず、兩縣において、その金品をそれぞれ相手縣に渡した若しくはそこから受領したものとして計上することになる。亭の債務についても同樣に處理されたに違いない。つまり、遷陵縣では、僰道の「計に付(わた)した」として、僰道の方では、遷陵縣の「計より受けた」として計上されるはずである。

言い換えれば、予定通りに債權が回收された場合には、僰道には、遷陵縣が發行した「校券」のほか、自ら作成した「受計」に關する會計書類が殘ることになる。「校券」に、某債權を僰道に付したとして遷陵縣の某會計に計上した、といった内容が記されたと假定すれば、僰道の方から、會計書類と「校券」を受け取った上級機關[8]では、洞庭郡に確認するまでもなく、遷陵縣における「付計」と僰道における「受計」とを照合してチェックすることができる。しかも、上計に關わる文書と「校券」とで、發行主體は僰道と遷陵縣というように異なるので、それぞれの證明能力は、相互の照合によって高められることになる。

最終的には債權回收が失敗したので、債權回收後の處理については上述の通り推測するほかないが、債権回収が成功した場合には、僰道が年度末に遷陵縣の校券を付して會計書類を上呈したのと同樣に、遷陵縣の方でも、僰道への「付計」に關する會計書類を裏付ける證據書類を洞庭郡に上呈する必要があるように思われる。そのためには、債權回收が成功した曉には、僰道が「受計」の事實を記した「校」もしくは「校券」を作成して遷陵縣に移送したことは想像に難くない。このような「受計」に關わる「校」は、金品ではなく人口移動を對象とするが、次の簡J1⑧1565に見える。

卅(三十)五年八月丁巳朔  ,貳春鄕茲敢言之:受酉陽盈夷
鄕戶隸計大女子一人。今上其校一牒,謁以從事。敢
言之。 J1⑧1565正
如意手。 J1⑧1565背

文書構造 讀み下し文
添付書類 【酉陽盈夷鄕戶隸計校】
文書本體 前置 三十五年八月丁巳朔  、貳春鄕の茲(じ)、敢えて之れを言う。
本文 資料根據

酉陽(縣)の盈夷鄕が戶隸計より、大女子一人を受く。

主文

その校一牒を上す。謁うらくは、以て從事せよ。

結び 敢えて之れを言う。
附記 送達記錄 (某月)某日某時,某人以て來る。/某半(ひら)く/發(ひら)く。
作成記錄 如意手す。

原因は婚姻等、樣々な事情が想定されうるが、もと酉陽(縣)の盈夷鄕では、戶隸として登錄されて年度末の會計に計上されていた大女子が、遷陵縣の貳春鄕に移ったことに伴い、一定の轉居手續が行われ、その中で、貳春鄕のこの文書が作成された。「受計」は、金品の授受に關わる會計において使われる用語として知られるが、それと同樣に理解するならば、この「大女子一人」は、酉陽縣の盈夷鄕では、遷陵の「貳春鄕某計」に「付(わた)した」として、遷陵県の貳春郷では、酉陽縣の「盈夷鄕戶隸計」より「受けた」として計上される。それを証明するために、貳春郷と盈夷鄕とでそれぞれ「受計」と「付計」に関する「校」が作成され、県廷を通じて先方に送付される。年度末になると、遷陵県と酉陽縣は、自ら作った会計書類に先方の「校」を付して郡に上呈し、郡から「校」という名の監査手続きを受ける。

7. まとめ

以上の考察から「校」について次の点が推察される。

附記:小文は、アジア・アフリカ言語文化研究所共同利用・共同研究課題「里耶秦簡と西北漢簡にみる秦・漢の繼承と變革――中國古代簡牘の横斷領域的研究(二)」における議論を踏まえているほか、科學研究費(基盤研究B、課題番号16H03487)「最新史料の見る秦・漢法制の変革と帝制中国の成立」の研究成果を含む。

編集者注記:2016年8月9日入稿

[1]京都大学人文科学研究所漢簡研究班編『漢簡語彙――中国古代木簡辞典』(岩波書店、2015年)160頁。

[2]「嗇夫久」については、邢義田「秦或西漢初和姦案中所見的親屬倫理關係(訂補本)——江陵張家山247號墓《奏讞書》簡180-196考論」(簡帛網http://www.bsm.org.cn/show_article.php?id=845、2008年06月28日)は、前後の文章を「出六石弩弓廿四付庫,庫受。嗇夫久廿三而空出一弓,解何」と句読し、「久」を『秦律十八種』等にみえる「久刻」と解釈するが、ここでは、青木俊介氏と石原遼平氏の教示に基づき「金関嗇夫の久」と理解した。「金關嗇夫久」は居延漢簡183.15A(A33)に見えており、また、簡179.6のいう「庫」は、簡73EJT22:31に現れる「金關庫」を指す可能性が高い。

[3]イタリックや太字などの書体の違いは、筆跡の違いを表す。以下同様。

[4]官庁間の授受と「受計」・「付計」については拙稿「「何計付」の句讀に關する覺書」(中国古代簡牘の横断領域的研究HP、http://www.aa.tufs.ac.jp/users/Ejina/note/note13(Hafner).html、2016年6月22日)を参照。

[5]もう一つの可能性としては、洞庭郡と漢中郡との間に何らかの形で水平方向の情報交換などが行われることも考えられなくはないが、それを示す積極的な証拠がないので、ひとまずは、それぞれの郡において自己完結的に「校」を実施する可能性を探ってみたい。

[6]「從」、原釋文と校釋作では、「□」に作る。文例によって補釋した。「從」字の下には、もと「事」字と人名の一字が記されていたと推測される。

[7]「半」、原釋文と校釋では、「手」に作る。單育辰「里耶秦公文流轉研究」(『簡帛』第9輯、2014年)によって改めた。また、單文には本文書の構造、筆跡の異同や転写関係などについて詳細な考察がなされており、拙稿執筆に当たり参照した。

[8]『漢書』地理志によれば、僰道は、漢代武帝建元六年以降、犍爲郡に属する。譚其驤『中国歴史地図集』は、秦代の所属を「蜀郡」とする。