陶安あんど「「何計付」の句讀に關する覺書」

「何計付」の句讀に關する覺書

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陶安あんど(東京外國語大學)

里耶秦簡の簡J1⑨0001-簡J1⑨0012には、秦代の地方行政における公的債權の回收及び會計處理に關する貴重な情報が含まれる。長年、その中の最も肝心な表現については、諸説紛々として、意見の一致を見なかったが、近年中國側の二つの優れた硏究によって、句讀及び「付計」という槪念の制度的意味がより明白になった。この二つの硏究の閒には依然として讀み方の大きな隔たりがあるので、ここで蛇足ながら、二つの硏究の長所を融合して、當該表現の正確な句讀を探ってみたい。

まず、問題となっている表現は、12通の文書の中で微妙な差異を伴って出現するので、表形式を用いてそれを列記しておく[1]

簡番號

A

B

C

J1⑨0001 令○署所縣責以受陽陵司空[2] 司空不名計 問何縣官計年爲報
J1⑨0010 令○署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計年爲報
J1⑨0002 令○署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年爲報
J1⑨0004 令○署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年爲報
J1⑨0005 令○署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年爲報
J1⑨0007 令○署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年爲報
J1⑨0008 令○署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年爲報
J1⑨0012 令○署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年爲報
J1⑨0006 令署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年爲報
J1⑨0011 令署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年爲報
J1⑨0003 令署所縣責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年名爲報
J1⑨0009 令○署所縣受責以受陽陵司空 司空不名計 問何縣官計付署計年名爲報

便宜上、表現を前後でA・B・Cの三つの部分に區切ってみた。一目瞭然、それぞれの差異は僅かなものである[3]。Bには、全く異同が見られず、Aには、主として、「署所縣」の前に債務者の名前を明記するか否かという形式的な違いが見受けられる。J1⑨0009のみ、「責」が「受責」となっており、意味上も差異が認められる可能性がある。Cには、「付署計」の三字および「名」の一字の有無で表現が三通りに分かれるが、それも所詮繁簡の差に過ぎず、J1⑨0003とJ1⑨0009にみられる「問何縣官計付署計年名爲報」が最も完全な形ではないかと推測される。

さて、以前この表現については樣々な句讀が附せられた[4]が、陳偉主編『里耶秦簡考釋(壹)』には、類似した表現について從來見られなかった句讀が提示される。つまり、簡J1⑧0063には、

令官計者定,以錢三百一十四受旬陽左公田錢計,問可(何)計付,署計年爲報。

という表現が見られる。「計付署計年爲報」はJ1⑨0002等とは一字も違わない。それを「付」で區切ったことは斬新的であるが、あいにくその根據に關する詳述がなく、注13の中で、書式がJ1⑨0011およびJ1⑧1141に近いと述べられるに過ぎない。ちなみに、J1⑧1141は後に何有祖氏によってJ1⑧1477と綴合され[5]、簡文は次の通りとなっている。

卅(三十)三年三月辛未朔丙戌,尉廣敢言之:□

自言:謁徙遷陵陽里。謁告襄城□

何計受?署計年名爲報。署 J1⑧1477+J1⑧1141正

三月丙戌旦守府交以來/履發 J1⑧1477+J1⑧1141背

私見によれば、J1⑧0063とJ1⑧1141の釋文を擔當していた何有祖と魯家亮の兩氏の新しい句讀は槪ね正しいが、王偉氏が提示された「付記」と「受記」に關する新説がそれに強力な根據を與えるように思われる[6]

王偉氏によれば、「付記」と「受記」は帳簿上、どこそこに渡したもしくはどこそこから受けたものとして計上することをいう。具體的に、簡J1⑨0001-簡J1⑨0012の記載に則して言えば、陽陵縣在住の債務者が戍役のため遷陵縣に滯在しているが、陽陵縣の司空は、洞庭郡を通じて遷陵縣にその債權の回收を依賴する。回收後の處理については、遷陵縣の方で、「受計」するよう、つまり、陽陵司空から受けたものとして計上するようにと指示する[7]。遷陵縣での「受計」に對應して、陽陵では、「付記」、つまり遷陵縣に渡したものとして會計處理をする。

遷陵縣が債權を回收したら、それによって得られた金錢は陽陵縣に移送されず、會計上陽陵縣から遷陵縣に移轉したものとして處理される。換言すれば、元陽陵縣が陽陵縣在住者に對して有していた債權は、陽陵縣から遷陵縣に移轉した。その意味では、J1⑨0009に見られる「受責(債)」の「受」字も必ずしも誤字とは斷言できない[8]

王偉氏は、論證の過程で、會計用語における「付」・「受」と「出」・「入」との對應關係を示すため、懸泉置漢簡の興味深い用例を舉げる。やや長いので一部だけ引用しておく。

縣(懸) 泉置元康五年正月過長羅侯費用薄(簿)。縣掾延年過。(61)
入羊五,其二睪(羔),三大羊,以過長羅侯軍長吏具。62
入鞠(麴)三石,受縣。63
出鞠(麴)三石,以治酒之釀。64
(中略)
入酒二石,受縣。73
出酒十八石,以過軍吏廿(二十),斥候五人,凡七十人。74
□凡酒廿(二十)。其二石受縣,十八石置所自治酒。75
凡出酒廿石。76
出米廿八石八斗,以付亭長奉德、都田佐宣以食施刑士三百人。77
□凡出米卌(四十)八石。78[9]

簡63や73等では、收入の方に、縣から「受」けたもの、簡77では、支出の方に、亭長等に「付(わた)」したものが計上されている。遷陵縣と陽陵縣でも、それぞれ收入の方に陽陵から債權を「受」け、支出の方には、遷陵縣に債權を「付」したと記載されたのであろう。

何有祖・魯家亮兩氏の句讀と王偉氏の説明で、簡J1⑨0001-J1⑨0012の該當箇所は正確に讀めるはずであるが、王偉氏はやや特異な句讀を採用したので、もう少し説明が必要なように思われる。

J1⑨0003を例にとれば、王偉氏は、A・B・Cを、次のような句讀を付けて讀む。

令署所縣責以受陽陵司空司空不名計,問何縣官、計付署、計年、名,爲報。

つまり、AとBを繫げて讀むところと、Cについて「計付署」以降の部分を「何縣官」と竝列的に捉えるところに特徵がある。AとBを結び付ける根據は「受」と「計」の對應關係に相違あるまい。つまり、「受陽陵司空司空不名計」を「陽陵司空の、司空の名せざる計を/より受く」と讀まれたように思われるが、その場合、「司空」が重複して出現するのは、實に不可解である。數人の書き手が繰り返し「司空」に重文記號を附しているので、誤記の可能性も皆無に等しい。したがって、ここは、舊來通り[10]、司空と司空の閒に文を區切った方が穩當であろう。

次に、王偉氏も強調されるように、「受」と「付」の閒に對應關係がある。遷陵縣の方で「受」として處理するなら、陽陵縣の方では、「付」として處理しなければならないが、陽陵縣は、債務者の服役先、ひいては何の計に付すべきかを知らない。「司空不名計」は、そうした事情の表明にほかならない。それに對處すべく、陽陵縣の司空は、「何縣官計付」、つまり「何の縣官の計に付する」を問うように依賴するのである。「署」は、「報署主責發」等の「署」と同樣に、「しるす」と讀むべきこと疑いない[11]。つまり、返答の際は、「計年」と「計名」とを記すように依賴する文言にほかならない[12]

讀み方で少し注意を要するのは、「受」もしくは「付」と「計」の文法關係である。懸泉置漢簡の用例から判るように、「受」もしくは「付」の直接目的語は、「計」ではなく、會計處理の客體となる物品(もしくは債權等)である。その意味では、「何計付」と「何計受」は、それぞれ「付何計」と「受何計」の倒置表現ではあるが、計を渡したり受けたりするのではなく、「付於何計」と「受於何計」というように、計上すべき客體をどこの何という計に付するかもしくはそこから受けるかを問う表現と理解しなければならない。

また、或る客體を「付」もしくは「受」として帳簿に計上する場合、通常は實際に先方にその客體を「付」し、もしくは先方から「受」ける行爲が伴う。例えば、懸泉置漢簡の用例では、「受縣」と記されている麴等は實際に縣から支給を受けたに違いないが、同時にそれを「受」として計上するのが「受計」にほかならず、それを「受縣計」と表現しても不思議ではない。裏返していえば、遷陵縣が陽陵縣司空から債權を受け取る場合には、「受陽陵司空」とも「受陽陵司空計」とも表現できる。簡J1⑨0001- J1⑨0012では、たまたま「計」字を省略したため、「受計」と「付計」との關係が見えにくくなっているが、實質的な差異は認められないだろう。

最後に、正しいと思われる句讀とそれに對應する讀み下し文を揭げておく[13]

J1⑨0001
J1⑨0010

令○署所縣責,以受陽陵司空。司空不名計,問何縣官計、年,爲報。
○の署する所の縣に令して、責めて、以て陽陵司空より受けしめよ。司空、計を名せざれば[14]、何の縣官の計・年を問え。報を爲せ。

J1⑨0002
J1⑨0004
J1⑨0005
J1⑨0006
J1⑨0007
J1⑨0008
J1⑨0011
J1⑨0012

令○署所縣責,以受陽陵司空。司空不名計,問何縣官計付,署計、年爲報。
○の署する所の縣に令して、責めて、以て陽陵司空より受けしめよ。司空、計を名せざれば、何の縣官の計に付するや問え。計・年を署して報を爲せ。

J1⑨0003

令署所縣責,以受陽陵司空。司空不名計,問何縣官計付。署計年、名爲報。
署する所の縣に令して責め、以て陽陵司空より受けしめよ。司空、計を名せざれば、何の縣官の計に付するや問え。計年・名を署して報を爲せ。

J1⑨0009

令○署所縣受責,以受陽陵司空。司空不名計,問何縣官計付。署計年、名爲報。
○の署する所の縣に令して責を受け、以て陽陵司空より受けしめよ。司空、計を名せざれば、何の縣官の計に付するや問え。計年・名を署して報を爲せ。

なお、愚説が正しいとすれば、里耶秦簡の次の表現も、それに應じて讀み方を變える必要があるように思われる。

令官計者定,以錢三百一十四受旬陽左公田錢計。 J1⑧0063
官の計する者に令して定めしめ、錢三百一十四を以て、旬陽の左公田が錢計よりけしめよ。

旬陽縣の左公田が、遷陵に對して、「錢三百一十四」を、旬陽縣左公田の「錢計」から受けたものとして處理するよう依賴する。後續文章には、「何計付」とあるが、それは、旬陽縣の方で、遷陵縣の何という計に付したとして計上すればよいかを尋ねる文言と理解される。

受酉陽盈夷鄕戶隸計大女子一人。 J1⑧1565
酉陽(縣)の盈夷鄕が戶隸計より、大女子一人を受く。

移動するのは、大女子一人である。酉陽縣では、盈夷鄕の戶隸計に計上されていたが、遷陵縣では、人の妻として戸口計等に揭載される可能性もあるので、そのまま酉陽縣の「戶隸計を受ける」と讀むことができない。

僰道弗受計。 J1⑧0060+J1⑧0656+J1⑧0748+J1⑧0665
僰道、(これ=責を)計に受けず。

先行する文章では、僰道に對して、簡J1⑨0001等と同樣に、債權を受け入れて代わって回收を行うように依賴する遷陵縣の文書が引用されるが、回收不能が判明したため、僰道は、書類一式を遷陵に返上し、「弗受計」を通知する。この場合は、先方の「計より」受けるのではなく、當方の「計に」受けることを問題にしており、讀み下し文は他の用例とはやや異なるが、どちらも漢語の「受於計」に對應しており、この差異は日中の言葉上の違いに過ぎない。


附記:小文は、アジア・アフリカ言語文化研究所共同利用・共同研究課題「里耶秦簡と西北漢簡にみる秦・漢の繼承と變革――中國古代簡牘の横斷領域的研究(二)」のほか、科學研究費(基盤研究B)「最新史料の見る秦・漢法制の変革と帝制中国の成立」(代表:陶安あんど)の研究成果を含む。

編集者注記:2016年6月22日入稿

[1]圖版と釋文の公表は2003年から始まる。湖南省文物考古硏究所・湘西土家族苗族自治州文物處・龍山縣文物管理所「湖南龍山里耶戰國——秦代古城一號井發掘簡報」(《文物》2003年一期)や湖南省文物考古硏究所・湘西土家族苗族自治州文物處「湘西里耶秦代簡牘選釋」(中國歷史文物2003年第一期)その後は、湖南省文物考古硏究所『里耶發掘報告』(嶽麓書社、2007年)に全部、鄭曙斌・張春龍・宋少華・黃樸華編著『湖南出土簡牘選編』(嶽麓書社、2013年)には、一部再收錄された。

[2]人名は「○」に、重文記號は、該當文字に置き換えた。

[3]王偉氏は、この差異が書き手(「書手」)の違いに由來する可能性を指摘する(王偉「里耶秦簡“付計”文書義解」(魯東大學學報(哲學社會科學版)第32卷第5期、2015年)59頁注1)。

[4]從來の學説及び句讀については、前揭の王偉氏の論文に的確な要約があるので、ここでは、詳述を省く。

[5]何有祖「里耶秦簡牘綴合(八則)」(簡帛網、2013年05月17日)。

[6]王偉「里耶秦簡“付計”文書義解」(前揭)。

[7]J1⑨0001>等の「受」字については、それを「授」と読み替える説があり、筆者も以前その方向で解釈を模索していたが、里耶秦簡の証明文書類では、明らかに「付」字と対比して用いられる点からすれば、「うける」と「さずける」を同じ「受」字で表す両義性は、いたずらに混乱を招く原因になるから、想定し難いというご教示を鈴木直美氏からいただいた。説明の仕方は異なるが、王偉氏と同様に、会計用語における「受」と「付」の対応関係に主眼を置いたご指摘と理解する。今後他の用例についても「授」への読み替えはより慎重な再考を要する警鐘とも言えよう。

[8]「受責」という表現は、簡J1⑧0060+J1⑧0656+J1⑧0748+J1⑧0665にも見られ、そこも、それを、「受ける」という方向から見た債権の移動と捉えて差し支えなかろう。

[9]胡平生・張德芳『敦煌懸泉漢簡釋粹』(上海古籍出版社、2001年)148-149頁、I0112③: 61-78。

[10]前述の通り、舊來の句讀は多種多樣ではあったが、管見の限り、二つの「司空」を跨って連續して讀む句讀は王偉氏が初めてである。

[11]籾山明「湖南龍山里耶秦簡槪述」(同『中國古代訴訟制度の硏究』(京都大學學術出版會、2006年。初出は、「秦代公文書の海へ――湖南龍山里耶出土の簡牘を讀む」、東方第268號、2003年)286頁。

[12]籾山氏のご敎示によれば、「署計年名」は、計年と計名を封檢上明記する意で、「卅二年遷陵内史計」と記した簡J1⑧1845がそうした封檢の實例である可能性があるという。

[13]この表には、冒頭の「令」字の下に債務者の名前が記されているか否かという違いを反映させていない。

[14]「名」については、「明」に通ずるという馬怡氏の説に從う。馬怡「里耶秦簡選校」(中國社會科學院歷史硏究所學刊第四集、2007年)163頁。