洞庭郡治小考
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青木俊介(学習院大学)
里耶故城が秦代の遷陵県城であり、洞庭郡に所属していたことはすでに学界の共通認識となっている。たとえばJ1⑨1には、
卅三年四月辛丑朔丙午、司空騰敢言之。陽陵宜居士五毋死有貲餘錢八千六十四。毋死戍洞庭郡、不智何縣署。●今爲錢校券一上、謁言洞庭尉。…〈略〉…
四月己酉、陽陵守丞廚敢言之。寫上。謁報。報署金布發。敢言之。/儋手。(正面)
…〈略〉…
卅五年四月己未朔乙丑、洞庭叚尉觿謂遷陵丞。陽陵卒署遷陵。…〈略〉…(背面)
とある。その内容は、陽陵県から洞庭郡へ戍卒を派遣したものの、どの県に配属されたのかわからない。そこで洞庭郡尉に確認したところ、遷陵県に配属されていたというもので、遷陵県が洞庭郡下にあったことは確実である。
郡−県間の行政の仕組みを研究するにあたり、太守府の所在地である郡治がどの県であったのかを把握しておくことは極めて重要である。しかし、洞庭郡については伝世文献に明確な記載がなく
[1]、郡の存在自体が里耶秦簡によって認知されたばかりであって、郡治の所在地も定かでない。
すでに先行研究において、いくつかの県が洞庭郡治に比定されている。ただ、里耶古城遺跡出土簡牘の正式な報告書である『里耶秦簡』(壱)の刊行以前に展開された議論は、参照可能な簡が限られていたこともあり、各人の推測を交えた状況証拠をあげるに過ぎない
[2]。
直接的な根拠を提示して洞庭郡治の所在地を指摘したのは、陳偉主編『里耶秦簡牘校釈』第1巻(武漢大学出版社、2012年。以下、『校釈』)がはじめてと思われる。『校釈』は里耶秦簡J1⑧657とJ1⑧1677の記述にもとづき、新武陵県を洞庭郡治とする(190~191頁注3)。
しかし筆者は、この説には再考すべき点があると考える。まず、『校釈』が依拠するJ1⑧657の記述は次のとおりである。
〼亥朔辛丑、琅邪叚守□敢告内史・屬邦・郡守主。琅邪尉徒治即默〼
琅邪守四百卅四里、卒可令縣官有辟、吏卒衣用及卒有物故當辟徵遝〼
告琅邪尉、毋告琅邪守、告琅邪守固留費、且輒卻論吏當坐者。它如律令。敢□〼
□一書。●以蒼梧尉印行事。/六月乙未、洞庭守禮謂縣嗇夫。聽書從事□
官
[3]軍吏在縣界中者各告之。新武陵別四道以次傳、別書寫上洞庭(正面)
尉。皆勿留。/葆手。
/驕手。/八月甲戌、遷陵守丞膻之敢告尉官主。以律令從事。傳別書
貳春、下卒長奢官。/□手。/丙子旦食、走印行。
□月庚午水下五刻、士五宕渠道來邑疵以來。/朝半。 洞〼(背面)
『校釈』の編者がこれをどのように解釈して、新武陵県を洞庭郡治と看做したのかは詳しく述べられていないが、おそらくは、洞庭太守の指示書が新武陵県を起点として洞庭郡内各地へ転送されたものと見て、新武陵県を洞庭太守府の最寄りの県、すなわち郡治と判断したのだろう。
『校釈』のこの見解は、「四道」を四条の路線と解した(p194注7)ことによるものである。ただ、「四道」は洞庭郡に属する四つの道(県と同等の行政単位)を指しているとも考えられる。J1⑧1516では、遷陵県令の業務が荊山道丞の印で代行されており、洞庭郡内に道が存在した可能性は高い。睡虎地秦簡「語書」では「南郡守騰謂縣道嗇夫」という表現が用いられているが、J1⑧657では「洞庭守禮謂縣嗇夫」というように、太守からの宛て先の中に道嗇夫が含まれていない。県へは太守府から直接伝送されるものの、道へは新武陵県から転送されることになっていたため、特に指示が附されたのではなかろうか。新武陵県の所在地は不明だが、これら四つの道へ対して地理的に「次を以て伝え」やすい位置にあったことから、転送の任をあてがわれたのかもしれない。
また、J1⑧657は洞庭守の発した文書部分(正面全部および背面「/騎手」)と遷陵守丞の発した文書部分(「/騎手」を除く背面全部)で筆跡が異なっているため、遷陵県廷が洞庭太守府からの文書原本に転送の文言や送受信の記録を書き込んだものとわかる。もし、新武陵県などを経由して遷陵県に到来したのであれば、遷陵守丞が尉に対して述べているのと同様な転送文言があって然るべきだがそれがない。したがって、本文書は洞庭太守府から遷陵県廷へダイレクトに送られたものと見ることができる。
新武陵県を洞庭郡治に比定するにあたり、『校釈』があげるもう一つの根拠が、J1⑧1677の以下の記述である。
一人與佐帶上虜課新武陵。
「虜課」の「課」は考課(勤務評定)のことで、里耶秦簡中に頻見する上計資料の一種である。その上呈先となっているがために、新武陵県を郡治と解したのであろう。
〼□吏曹當上尉府計者行齎勿亡。
というように、県廷内部局である吏曹
[5]の計(会計記録)を郡尉府に上呈しており、県の上計は太守府のみに対して行われていたのではないことがわかる。そのため、資料の上呈先になっているからといって、直ちに郡治と判断することはできないのである。
『校釈』はJ1⑧756~757に、労働力が不足している場合、治虜御史に請求して人員を補うという規定が見えることから
[6]、「虜課」の「虜」を雑役に従事する奴隷・僕役の類いと解している(377頁注1)。しかし、一般的に「虜」とは捕虜のことであり、虜課は群盗などの捕獲に関する考課記録ではないだろうか。J1⑧756~757の規定にしても、治虜御史の管下にある捕虜を労働力として転用する内容とも読み取れる。そしてそれならば、虜課の上呈先としては太守府よりも郡尉府のほうがより相応しかろう。また、先に引用したJ1⑨1からもわかるように、郡尉府は労働力の管理に関与しているため、たとえ「虜」が『校釈』の解釈どおりであったとしても、虜課の上呈先が郡尉府である可能性は残る。
さらに前掲J1⑧657は県嗇夫に対して、県内の軍吏などへ通達するよう命じたものであるので、郡の軍事を統轄する郡尉も当然その対象に含まれるわけだが、洞庭郡尉府への通達は新武陵県によって行われている。ということは、新武陵県内に洞庭郡尉府が所在したということになろう。
以上のように、J1⑧657とJ1⑧1677は、新武陵県が洞庭郡治であったという決定的な証拠とはいえない。むしろ、史料からうかがえる新武陵県の特殊性は、洞庭郡尉府の治所であったことに起因すると考えられるのである。
新武陵県でないのであれば、いったいどの県が洞庭郡治であったのか。結論からいえば、沅陵県こそがそれに該当すると考えられる。
まず、J1⑧173にこのような記述がある。
卅一年六月壬午朔庚戌、庫武敢言之。廷書曰令史操律令詣廷讎、
署書到・吏起時。有追。●今以庚戌遣佐處讎。
敢言之。(正面)
七月壬子日中、佐處以來。/端發。 處手。(背面)
県廷からの指示書に従い、県官の一種である庫から佐を派遣して、県廷において律令の校勘を行わせるという内容である。このことから、県レベルで用いられる律令は、県の中枢である県廷が所蔵するテキストを基準としていたことがわかる。ちなみに、睡虎地秦簡「秦律十八種」186簡では、(「県廷」と明示されてはいないが)県が県内に所在する都官に告げ、その用いる律を写させるよう規定されている
[7]。
以上を踏まえたうえで、次にJ1⑥4を見て欲しい。
□年四月□□朔己卯、遷陵守丞敦狐告船官
□令史懬讎律令沅陵、其假船二㮴、勿
留。
令史が律令の校勘をしに沅陵県へ行くので船を2艘貸し出すよう、遷陵守丞から船官に対して通達した文書である。前述のように、県レベルで用いられる律令は県の中枢である県廷において校勘が行われた。それならば、郡レベルで用いられる律令は郡の中枢である太守府所蔵のテキストにもとづいて行われたとするのが自然であろう。したがって、遷陵県廷の令史が律令の校勘に赴く沅陵県こそ、洞庭太守府の所在地、すなわち洞庭郡治と見なし得るのである。
張家山漢簡「二年律令」116~117簡によれば覆獄は、
…〈略〉…气(乞)鞫者各辭在所縣道、縣道官令、長、丞謹聽、書其气(乞)鞫、上獄屬所二千石官、二千石官令都吏覆之。都吏所覆治、廷及郡各移旁近郡、御史・丞相所覆治移廷。
というように、二千石官隷下の都吏によって行われるものであった。したがって都吏は、基本的に郡守府の官吏と考えられるわけである。
しかし里耶秦簡には、本来県の属吏であるはずの沅陵獄佐が覆獄を担当していたことを示す記述が存在する。
覆獄沅陵獄佐
己治所遷陵傳洞庭(J1⑧255)
覆獄沅陵獄佐己治
在所洞庭(J1⑧265)
覆獄沅陵獄佐己治在所洞庭(J1⑧492)
覆獄沅陵獄佐己
治所發(J1⑧1729)
覆獄沅陵獄□
治所發(J1⑧1897)
髙村武幸氏は、県属吏が二千石官府へ派遣されたり、その指揮下に入ったりすることが、秦・漢時代には広く行われていたようであり、この沅陵獄佐も一時的に洞庭郡の指揮下に入り、都吏に準じた扱いを受けた可能性が強いとしている
[8]。
もし、郡太守が県の属吏を指揮下に置くのであれば、最も身近な郡治の県の属吏がその有力候補となろう。沅陵県の獄佐が都吏の扱いを受けているのは、郡太守府と沅陵県との距離的な近さを背景にしたものではなかろうか。
遷陵県をはじめ里耶秦簡に登場する県の多くは、『漢書』地理志では武陵郡に所属している。武陵郡に対する『続漢書』司馬彪の自注には、「秦昭王置、名黔中郡。高帝五年更名」とあり、秦の黔中郡を漢の高祖五年に改名したものであるという。
ところが、里耶秦簡中に黔中郡がまったく登場しないことから、当時の秦に黔中郡は存在せず、当該地域に実際に置かれていたのは洞庭郡であったとする説が有力になりつつある
[9]。少なくとも、里耶秦簡に見える郡県の統属状況からすれば、酉水および沅水中・下流域については、これまで黔中郡と認識されていたものを洞庭郡に改めて問題ない。
このことを念頭に置いたうえで注目したいのが、『元和郡県図志』巻三十一江南道六・黔州条の次の記述である。
其秦黔中郡所理、在今辰州西二十里黔中故郡城是。
すでに述べたように、秦の黔中郡は洞庭郡と読み替えることができるので、「黔中故郡城」は洞庭故郡城ということになる。また、唐代の辰州は現在の沅陵県であり、秦の洞庭郡城が沅陵に所在していたと解し得るのである。
そして、現在の沅陵県から西南約6kmの太常郷窖頭村においては、東西450m、南北250m、総面積11万㎡の楔形をした古城遺跡が発見されている。城址の年代は戦国晩期、周囲には戦国から漢に至る墓が数百基分布しているとのことで
[10]、里耶秦簡の年代とほぼ一致する。これが『元和郡県図志』のいう秦の黔中故郡城=洞庭故郡城であり、洞庭郡治である沅陵県城の遺跡と考えられる。
以上に述べた理由から、沅陵県こそ洞庭郡治であった見なすことができる。加えて沅陵県は、沅水と酉水が合流する水上交通の要衝でもあり、郡治とするに相応しい地理条件を備えている。
なお、『史記』恵景間侯者年表によれば、高后元年(前187年)に沅陵県は侯国となるため、それ以降郡治でないことは確かである。また、郡治を侯国にしたとも考えづらいため、沅陵県は秦の洞庭郡治であったものの、漢の武陵郡治ではなかったようである。
それから『里耶秦簡』(壱)には、仮の太守である洞庭仮守の繹という人物が、沅陽県の長官印で文書を発している事例
[11]が存在する。便宜上、職務の兼任・代行は任地の近い官吏があたると考えられるので、洞庭仮守繹の本官は沅陽県令(長)であり、沅陽県が郡治である可能性が高まった。
ところが、その可能性は『湖南出土簡牘選編』に収録されたJ1⑫1784正面
[12]の記述によって否定される。
卅三年正月壬申朔戊戌、洞庭叚守□謂縣嗇夫。廿八年以來、縣所以令䊮粟固各有數=
=而上見、或別書、或弗□以書。到時亟各上所䊮粟數、後上見左。
署見左方曰、若干石斗不□□□署主倉發。它如律令。縣一書。●以臨沅印行事。
二月壬寅朔甲子、洞庭叚守

追。縣亟上勿留。/巸手●以上衍印行事。
正月壬申朔戊戌(1月27日)段階では臨沅印が用いられているのに対して、二月壬寅朔甲子(2月23日)では上衍印を使用している。この一か月弱の間に郡治が移転したとは考えにくく、仮守が用いる印の県名と郡治とは関連がないものと思われる。
編集者注記:2014年11月17日入稿
注
[1]『戦国策』楚策一に、「楚地西有黔中・巫郡、東有夏州・海陽、南有洞庭・蒼梧、北有汾陘之塞・郇陽」とあり、この「洞庭」が楚の洞庭郡を指している可能性がある。そして、同秦策一には、「秦與荊人戰、大破荊、襲郢、取洞庭・五都・江南」というように、秦が楚の洞庭を奪取したとあり、そのまま洞庭郡として取り込んだとも考えられる。
[2]この間の研究動向については、伍成泉「近年来湘西里耶秦簡研究綜述」(『中国史研究動態』2007年第6期にまとめられている。
[4]何有祖「里耶秦簡牘綴合(四則)」(『簡帛網』http://www.bsm.org.cn/show_article. idph p?=1920、2013年10月4日)による綴合。
[5]例えばJ1⑧241の封検のように、「廷吏曹」と表記されていることからわかる。
[6]…〈略〉…令曰、吏僕・養・走・工・組織・守府門・

匠及它急事不可令田、六人予田徒四人。徒少及毋徒、薄(簿)移治虜御史、御史以均予…〈略〉…
[8]髙村武幸「二千石官指揮下の県属吏—覆獄沅陵獄佐と蕭何」(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所「中国古代簡牘の横断領域的研究」ホームページ研究ノート。http://www.aa.tufs.ac.jp/users/Ejina/note/note01(Takamura).html#_ednref1、2013年7月14日)。
[9]陳偉「秦蒼梧・洞庭二郡芻論」(『歴史研究』2003年第5期)、周振鶴「秦代洞庭・蒼梧両郡懸想」(『復旦学報(社会科学版)』2005年第5期)など。
[10]胡建軍「湖南黔中故地発現戦国古城址」(『中国文物報』1992年8月16日)。
[11]J1⑧759とJ1⑧1523。なお、J1⑧1523正面一行目の「洞庭守繹」は、「仮」の字を書き落としたものと思われる。
[12]鄭曙斌・張春龍・宋少華・黄樸華編著『湖南出土簡牘選編』(岳麓書社、2013年6月)126頁。