里耶秦簡9-0600の釋讀と「益僕」について
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陶安あんど(明治大學)
一、 字形の檢討
張春龍氏が執筆した『里耶秦簡(貳)』では、簡9-0600の原釋文は、次の通りとなっている
[1]。
令史□自言爲遷陵吏去家過十里當以令□□錢以爲遷陵買鳥
毛它郡縣盡歳不來□□〼(正)
五月辛丑日入守府□行(背)
『里耶秦簡牘校釋(二)』は、句讀を加えつつ、それを次のように改めている
[2]。
令史□自言:爲遷陵吏,去家過千里,當以令益【僕】錢……
屯它郡縣,盡歳不來……(正)
三月辛丑日入,守府□行。(背)
二つの釋文が一致している文字については、墨蹟が極端に薄くなったり不鮮明になったりする箇所もあるものの、總じて釋讀が首肯できるので、以下はまず出入のある文字を中心に、字形を再檢討していく。
十(原釋文)もしくは千(校釋)と釋讀された字は、從來から十もしくは千として知られている字と次の通りと比較できる。
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9-0600a
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5-18
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8-0597
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8-0858
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8-0989
中央で交差する縱と橫の筆畫が容易に確認できるほか、縱畫の右上にはさらに小さな墨點が明確に見える。その墨點から左下に向かって薄い影が走っているようである。十にはそういう墨蹟が一切ないはずなのに對し、千にはそれがぴったりと合う。文脈からしても「十里を過ぐる」よりも「千里を過ぐる」方が理に適っているといえる。
校釋が「益僕」と釋讀している二字の字形は、次のように、それぞれ「益」と「僕」の特徵的構成要素をはっきりと殘しているので、この釋讀も十分に首肯できる。益の場合は、橫方向となっている水と皿とが、僕の場合には、壬もしくは王の形をした丵の下半分と、菐下方の𠬞の交差する筆畫の一部が確認できる。後述するように、「益僕」は、その他にも里耶秦簡に用例が檢出できるから、字義からしても問題がない。
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9-0600a
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6-07
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8-1499a
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8-2113
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8-0190a+0130+0193a
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8-0966
原釋文が「以」と釋讀する字は、一瞥して「以」に近いところがあるが、右側に明確に「以」という釋讀と矛盾する墨蹟も認められるので、決して「以」とは考えられない。
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5-17
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8-0070a
斜めの筆畫が左右で縱の筆畫で止められる特徵はむしろ買字上方の网部に近いように思われる。つまり、この墨蹟は、その下方で空白となっている簡面まで占めていた比較的細長い字の冒頭部分のみが殘存して形成されたものと考えられる。後述の通り、字義からして「買」の可能性が高い。
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8-0210
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8-0420
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8-1549
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8-2329
爲という字に關しては、そもそも簡面においてそれに對應する明確な墨蹟が確認できない。以と遷とされた字の閒に、むしろ一字もしくは二字の空白があり、その空白のあちらこちらにポツンと僅かな墨蹟の缺片が認められるに過ぎない。以と釋讀されていた字を、買のように比較的細長い字と想定すれば、この空白は一字の未釋讀字、つまり□と讀むのが穩當であろう。
原釋文が遷と釋讀したのは恐らく次の墨蹟であろう。下方の四角形がそもそも墨蹟か否かについて疑問が持たれるほか、上方の墨蹟は同簡に確認される遷字と全く似ておらず、むしろ從字と近似性を示す。左端の墨蹟は行人偏を思わせ、中央と右側には、山形をしている人の字形が複數見える。ただ、從字にしては、山形の人が多すぎて、やはり釋讀を確定しかねる。後述のように、人名の可能性が高いので、字義から釋讀のヒントを得るのも難しい。
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9-0600a
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8-0063a
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8-0532a+0674a+0528a
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8-1575
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9-0600a(遷)
原釋文が陵と釋讀した字形について調べると、左下の斜めの拂いは、陵の旁の夌が從う所の夊形と似ておらず、しかも原釋文が恐らく阜偏と理解した左上の縱方向の筆畫との位置關係も不自然である。縱方向の筆畫はむしろ行人偏に近く、恐らく左下の拂いとともに、之繞を構成すると考えられる。さらに、上方中央には、三つの縱方向の筆畫と、その閒を幽かに繫げる薄い影が認められる。それは、遣字の聲符である𠳋の上方の輪郭とよく似ている。
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9-0600a
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8-0144a+8-0136a
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8-1090
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8-2217
原釋文が買と釋讀した字形は、下方の貝がほぼ完全に殘っており、上方の网も特徵的な中央の交差する筆畫の一部と右の縱畫がよく見えているので、買と讀んで閒違いがなかろう。
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9-0600a
鳥字も字形に疑う餘地がなく、原釋文に從うべきように思われる。校釋は恐らく文意に不安を持ち、前のやや難解な墨蹟に引きつられ、この字も合わせて未釋讀字に戾したのであろう。
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9-0600a
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8-1515a
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8-1562a
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8-1562a
校釋が原釋文の毛を屯に改めている字形については、兩字の見分けがやや難しいものの、毛の特徵である上方の左向きの灣曲がないことから、屯の可能性がより高いと言える。
9-0600a |
8-0056 |
8-0081 |
8-0140a |
8-1545 |
8-1710 | 屯 |
|
8-0835 |
8-1529a |
8-1694 | | | 毛 |
第二行の末尾については、原釋文が二字の未釋讀字とするのに對し、校釋は未釋讀字の字數が判らないとしつつ、注においては最初の字を有と疑うとする。その字形は比較的鮮明に殘っており、校釋が有と疑う理由となったであろう手の形のほか、その手を縱に貫く筆畫も確認できるので、有よりも書の方が可能性が高かろう。
9-0600 |
5-22 |
8-0041 |
8-0069a |
8-0135a |
8-0166a+0075a |
書 |
| 5-19 |
6-01b |
8-0157b |
8-0176+0215a |
8-0478 |
有 |
この字から、簡面は斜めに缺けていく。書字に屬すると考えられる墨蹟のさらに下には、シミか墨蹟か判斷に迷う影がやや右によって見える。原釋文は恐らくこれを二字目の未釋讀字と解したと推測されるが、その可能性も完全に否定できないので、暫くその解釋に從う。
以上の字形檢討を纏めると、釋讀は次のように改めるべき可能性が大きいように思われる。
令史□自言爲遷陵吏去家過千里當以令益僕錢買(?)□□遣(?)買鳥
屯它郡縣盡歳不來書(?)□(?)〼(正)
五月辛丑日入守府□行(背)
二、 文書樣式の檢討
圖版から判斷する限り、本簡は、少なくとも二行を收容する書寫面を持ち、上下端および正面からみた右側は完形である。左側は斜めに缺けているが、上方は二行とも完全に殘っており、第四字の「縣」邊りから、左の側面が明確に缺落し始める。最初の三文字分の簡面には明確な缺損が認められないから、本簡の上方部分が本來の完形の姿を殘している可能性も、圖版だけから排除できない。
一方、背面の一行は左に寄せて書寫されており、本簡に記載されていた主要な文書の送達記錄に係る。「行(や)る」とあるから、この文書は、本簡出土の官府から外に發信されたものである。令史が作成に關わっているようであるから、恐らく縣廷から發信された文書であろう。この文書の書寫に不可缺であるから、本簡の正面からみて左側に元はもっと廣い簡面が存在していたことが判る。つまり、本簡は本來基本形態が〇三型の幅廣の簡であったと考えられる
[3]。
自言を手掛かりに、その失われた文書の樣式論的特徵を推測して復元することは可能である。自言とは、自ら申し述べることを謂い、法律用語としては、官府に對する陳述や諸種の申請行爲を指す。例えば、『二年律令』簡508には、
508 諸乘私馬出,馬當復入而死亡,自言在縣官,縣官診及獄訊審死亡,皆〖告〗津關。
諸(すべ)て私馬に乘りて(津關を)出で、馬、當(まさ)に復(ま)た入るべきに死・亡するは、自ら在る(ところの)縣官に言え。縣官、(馬を)診(み)及び(人を)獄訊して審(つまび)らかに死・亡したらば、皆な津關に告げよ。
と、馬の死亡もしくは逃亡を屆け出る行爲を表す。
里耶秦簡の實例からすると、自言が文書に現れる狀況は二通りある。一つには、文書の本文に引用される場合がある。簡8-1459+8-1293+8-1466には、次のような例が見受けられる。
卅(三十)五年三月庚寅朔丁酉,貳春鄕茲敢言之:佐詘自言
[4]:士五(伍),居泥陽
前書,畏其不〼 8-1459正+8-1293正+8-1466正
[8]
四月壬戌日入,戍卒寄以來。/瞫發[9]。 詘手。 8-1459背+8-1293背+8-1466背
文書構造 |
讀み下し文 |
文書本體 |
書出
|
三十五年(212)三月庚寅朔丁酉(08)、貳春鄕の茲(じ)、敢えて之れを言う。 |
本文 |
状況説明 |
佐の詘(くつ)、自言すらく |
士伍なり。泥陽(縣)の益固里に居す。故と廢戍、女陰に署す。 |
今□□□【……】四歲。 |
用件 |
謁うらくは、泥陽に告げて詘(くつ)に令して□【……】せしめよ。
【……】前書、その【……】せざるを畏る。【……。】 |
書止 |
【敢えて之れを言う。】 |
附記 |
集配記録 |
四月壬戌(04)、日入、戍卒の寄、以て來る。/瞫(しん)發(ひら)く。 |
作成記録 |
詘手す。 |
もう一つには、自言が別の文書の根據資料等としてその前に添付される場合がある。次の簡8-1532+8-1008+8-1461がその一例である。
令佐華自言:故爲尉史,┘養大隸臣豎負華補錢五百,有約券。豎捕戍卒〼
[10]事贖耐罪賜,購千百五十
二。華謁出五百以自償。
卅(三十)五年六月戊午朔戊寅,遷陵守丞銜告少内:問如辤(辭)。次(資)豎購當,出畀華及告豎令智(知)之。/華手。 8-1532+8-1008+8-1461正
[11]
華〼 8-1461背
文書構造 |
讀み下し文 |
添付書類(自言文書) |
書出 |
令佐の華、自ら言わく、 |
本文 |
資料根據 |
故(もと)尉史たりしに、養の大隸臣の豎、華に補錢五百を負い、約券有り。豎、戍卒の【從】事【せず】
[12]、贖耐罪ある賜[13]を捕え、千百五十二を購す。 |
用件 |
華謁うらくは、五百を出だし、以て自らに償わしめよ。 |
附記 |
送達記錄 |
- |
作成記錄 |
華【手す。】 |
文書本體 |
書出 |
三十五年(212)六月戊午朔戊寅(21)、遷陵守丞の銜(かん)、少内に告ぐ。 |
本文 |
問うに、辭が如し。豎が購より、當たるを資(と)り[14]、出だして華に畀(あた)えよ、及び豎に告げて令して之れを知らしめよ。 |
附記 |
送達記錄 |
- |
作成記錄 |
/華手す[15]。 |
本簡において、「令史□」が正面第一行の冒頭から記されていることから、簡8-1532+8-1008+8-1461のように、自言が添付資料であり、失われた左の簡面には、令史が勤務している縣廷發信の文書が記されていたと推測される。簡8-1459+8-1293+8-1466のような文書本文における引用の場合には、自言の前に文書の書出のみ記載されることになるから、たとえ本簡の右側にも失われた簡面があったとしても、書出の通常の長さから、「令史□自言」が第二行の冒頭に位置することはほぼ不可能に等しい。
縣廷發信の文書は、簡8-1532+8-1008+8-1461のように、縣内の鄕や官に宛てられた下行文書の可能性もあれば、郡もしくは他縣を受信者とする上行もしくは平行文書とも考えられる。背面の記載から守府が文書の送達に關わったことが判明しているが、守府の某による送達は、簡8-0768や8-0158等のように縣外宛ての文書でも、簡8-1560や8-1525等のように縣内の文書でも、複數確認される。
三、 益僕槪念の檢討
「益僕」は、『里耶秦簡(壹)』の收錄する第六層等の出土簡にも見られる。一つには、簡6-07以下の三枚の簡牘には、遷陵縣廷から郡の太守府に宛てられたと考えられる上行文書の斷片が發見されている。
敢言之:前日言:當爲徒隸買衣及予吏益僕, 6-07
用錢八萬,毋(無)見錢。府報曰:取臧錢臨沅五 8-0560
[16]
文書構造 |
讀み下し文 |
添付書類
|
文書本體 |
書出 |
【某年某月某日朔某日、某職の某人、……。】 |
本文 |
【……。】 |
書止 |
【……。】 |
附記 |
集配記錄 |
【……。】 |
作成記錄 |
【某手す。】 |
文書本體 |
書出 |
【某月(某日朔)某日、遷陵の某、】敢えて之れを言う。 |
本文 |
狀況説明 |
前日言えらく、 |
當(まさ)に徒隸が爲に衣を買い及び吏に益僕を予(あた)え、錢八萬を用うべきに、見錢[19]無し。 |
府[20]、報じて曰わく、 |
臧錢を臨沅より五【萬……】取り、【……せよ。】 |
用件 |
【今】 |
【……】萬、見錢無ければ、謁うらくは【……。】 |
書止 |
【敢えて之れを言う。】 |
附記 |
集配記錄 |
【……。】 |
作成記錄 |
【某手す。】 |
もう一つの用例は、簡8-0877+8-0966に確認される。
六月乙丑
[24]、獄佐の瞫、戌を訊ぬるに、戌、私かに□中の吏が益僕を留め,人ごとに【……】
二つの用例とも、益僕を名詞として用いているようである。簡6-07では、益僕は吏に與えられる對象であり、簡8-0877+8-0966では、本來□中の吏と關わりのある益僕が被告人の戌のため違法に留められ、恐らく私的な目的に使役されていたと推測される。そうすると、益僕とは、吏に與えられるべき僕の一種であり、通常の僕との違いは、益という限定詞によって表現されるように、何かの增加分の僕に係る點にあると考えられる。
僕が役人に下僕として貸し與えられることについては、『秦律十八種』に、
073 (前略)都官佐、史不盈十五人者,七人以上鼠(予)車牛
074 僕,不盈七人者,三人以上鼠(予)養一人。小官毋(無)嗇夫者,以此鼠(予)僕、車牛。(後略)
都官の佐・史、十五人に盈たざる者は、七人以上ならば車牛・僕を予(あた)え、七人に盈たざる者は、三人以上ならば養を一人予う。小官の嗇夫なき者は、此れを以て僕・車牛を予う。
と、都官の屬吏に限定される形ではあるが、明文規定が殘されている。僕に當てられる徒隸が不足する事態もまま生じたことは、
165 ●倉律曰:毋以隸妾爲吏僕、養、官〖守〗府┘。隸臣少,不足以給僕、養,以居貲責給之;及且令以隸妾爲吏僕、
166 養、官守府。有隸臣,輒伐〔代〕之┘。倉廚守府如故。
●倉律に曰わく、隸妾を以て吏が僕・養、官が守府と爲すなかれ。隸臣少く、以て僕・養を給するに足らずんば、貲責に居するを以て之れに給す。及(ま)た且(しばら)く令して隸妾を以て吏が僕・養、官が守府と爲さしむ。隸臣有らば、輒(ただ)ちに之れに代えしめよ。倉廚は守府すること故(もと)の如くせよ。
という嶽麓秦簡(肆)の律令簡牘の記述から推測される。
問題は、僕はなぜ「益(ま)す」對象とされるかである。從來は漠然として何かの不足を解消するために特別に增員された徒隸とも考えられたが、簡9-0600には、
去家過千里當以令益僕。
家を去ること千里を過ぐれば、當(まさ)に令を以て僕を益すべし。
と明記されている以上、少なくとも一つの法的要件には、居住地と勤務地の距離が設定されていたことが判る。恰も現代の單身赴任手當のように、家から遠く離れた所に勤務すると、色々と餘分な負擔が掛かるから
[25]、それを和らげるために、特別な手當てがなされる。單に、現代の金錢的支給と違い、勞働力として使役できる僕が支給される
[26]。その勞働力は、遠く離れた實家との連絡係としても使えるし、また、生活據點を少なくとも二か所に持たなくてはならない過剩負擔を輕減する意味も持ち得よう。
簡9-0600のみからすれば、「益僕」を後續の「錢」と續けて讀むことも考えられる。その場合には、「僕錢を益(ま)す」とも讀めそうには見えるが、上揭の他の用例では、現に僕が吏に與えられ(簡6-07)、且つその支給のために現にプールされた僕が違法な流用の危險にさらされている(簡8-0877+8-0966)。そうした狀況から、本簡においても、僕を肉體を持った人閒と理解すべきであろう。
一方、官吏の下僕を用意するために、金錢が必要になることも、簡6-07から簡8-0517+8-0619までの文書の斷片から讀み取れる。その記載によれば、恐らく遷陵縣が、徒隸に支給すべき衣服と、官吏に支給すべき益僕を調達するために、錢八萬という金錢が必要になったが、實際に現金がなかった。そうした事情を郡に報告したところ、郡は、臨沅などから「臧錢」を取り寄せるように指示を出したものの、臨沅にも然るべき金錢の用意ができない模樣だったので、遷陵縣は改めて郡に對應を「謁(こ)う」こととなった。
益僕の支給に金錢が必要になるということは、言い換えれば、僕が市場から調達されることを意味する。官府が「徒隸」を購入する事實は簡8-0154の記載から窺える。
卅(三十)三年二月壬寅朔﹦(朔朔)日,遷陵守丞都敢言之:令曰:恆以
朔日上所買徒隸數。●問之:毋當令者。敢言
之。 8-0154正
二月壬寅水十一刻﹦(刻刻)下二, 郵人得行。 圂手。 8-0154背
文書構造 |
讀み下し文 |
文書本體 |
書出 |
三十三年(214)二月壬寅朔朔日(01)、遷陵守丞の都、敢えて之れを言う。 |
本文 |
狀況説明 |
令に曰わく、 |
恆(つね)に朔日を以て買う所の徒隸の數を上せ。 |
用件 |
●之れを問うに、 |
令に當たる者なし。 |
書止 |
敢えて之れを言う。 |
附記 |
集配記錄 |
二月壬寅(01)、水十一刻、刻下二に、郵人の得、行る。 |
作成記錄 |
圂(こん)手す。 |
徒隸の購入代金として錢三萬餘りが少内から支出された秦始皇29年の實例は、次の簡9-1406に見える。
買徒隸用錢三萬三千□〼
少内根、佐之主。 〼
二十九年少内【……。】
徒隸を買うに、錢三萬三千□【……】を用い、【……。】
少内(嗇夫)の根・佐の之、主(つかさど)る。
簡9-0600の「錢買(錢もて買う)」も、前述した事情と符合する。つまり、本簡の前半が述べている内容は、佐史の某が家を千里以上も離れた遷陵で官吏として勤務するに當たり、法令の規定で益僕を支給されるべきところ、遷陵縣が實際に錢で僕を購入したというように纏めることができる。「買」字の下の未釋讀字の少なくとも一つは恐らくそのように購入された僕の名に當たると考えられる。
四、 全體的考察
本簡からその斷片が窺える益僕に關わる文書の記載内容が前述のように槪ね明らかになってみると、一つの氣がかりな點が浮上してくる。僕の購入後如何なる問題が發生したのであろうか。言い換えれば、本簡に記された自言書は如何なる意圖を込めて縣廷に提出されたのであろうか。以下はこうした問いを中心により全體的な考察を試みたい。
官吏に支給される僕は、貸し與えるもの、もしくは借り受けるものであり、何時かは返さなければならない責務が發生することになる。そうした返濟に支障を來す事情もいろいろと想定できるが、盜律に一般に分類される張家山二四七號漢墓竹簡『二年律令』簡078-079には、その場合の對應が定められている。
078 諸有叚(假)於縣道官,事已叚(假)當歸。弗歸,盈廿(二十)日,以私自叚(假)律論。其叚(假)別在它所,有物故毋(無)道歸叚(假)者,自言在
079 所縣道官,縣道官以書告叚(假)在所縣道官收之。其不自言,盈廿(二十)日,亦以私自假律論。其假已前入它官及在縣道官廷
諸て縣道官より假るる有るは、事已まば、假りたる(もの)當(まさ)に歸すべし。(これを)歸さず、二十日に盈ちば、私自に假すの律を以て論ず。其の假るる(もの)、別ちて它所に在り,物故有りて假るるを歸すの道(すべ)無き者は、自ら在る所の縣道官に言い、縣道官、書を以て假るる(もの)の在所の縣道官に告げて之れを收む。其れ自ら言わず、二十日に盈ちば、亦た私自に假すの律を以て論ず。其の假るる(もの)已に前(さき)に它官に入り及び在縣道官廷【……。】
これによれば、借りたものが他所にあり返却できない場合や、その他「物故」つまり事情があって返濟できない場合には、所在地の縣道官に自言する定めとなっていた。そのように處置せず20日以上放置しておけば、「私自に假すの律」つまり公有物の違法な貸し借りに關する法令に基づいて罰せられることになる。違法な貸し借りに關する規定は『二年律令』簡077に見えており、盜みに準じて處罰されることとなっている。
本簡の自言は恐らくこの規定を意識して提出されたものであろう。「遣(?)買鳥,屯它郡縣,盡歳不來」は物故、つまり返濟に支障を來した事情に關する説明であり、「書(?)□」以下は、適切な初期對應をしたという釋明に當たると考えられる。
より細かく調べてみると、「遣わして鳥を買わしむ」とは、支給された益僕を使いに行かせた事情を述べたものである。「鳥を買う」ということが、獻上と關連する公務に係るのか、それとも私的な用務であるのかは俄かに判斷しかねるが、家を遠く離れて勤務していることを理由に益僕が支給されるからには、私的な目的のために使い走りさせることも差し支えなかったはずである。
僕を使いに出した後は、「它郡縣に屯する」という特別な事情が生じた。「屯」の主語は、令史の某であり、公務のためその後僕に對する監督管理が十分にできなかったことを言うと考えられる。その閒に、僕が行方不明となり「歳を盡(つ)くすも來(こ)ず」という始末であるから、「書もて□……」というように、書面でもって適切に對應してみたが、やはり返濟不能という事情に變化はなかった、という申し開きの筋が見えてくる。
その先の處理については、本簡に全く記載がなく、憶測するほかないが、令史の某が望むのは、恐らく逃亡によって僕が失われたことを確認し、その僕を帳簿上抹消することであろう。僕が帳簿から消えれば、當然令史某の返濟債務も免除されることになる。そのために、縣廷が直接に徒隸の管理に當たる縣官(倉か司空か)に抹消手續を指示したことも、指名手配の依賴を兼ねた報告を太守府に上呈したことも考えられる。
いずれにせよ、本簡は益僕が支給される制度的背景およびその使役狀況を傳える貴重な史料である。第一節末尾に揭げた釋文案が正しいとすれば、その句讀および讀み下し文は次の通りとなろう。
令史□自言:爲遷陵吏。去家過千里,當以令益僕。錢買(?)□□。遣(?)買鳥,
屯它郡縣,盡歳不來。書(?)□〼(正)
五月辛丑日入,守府□行。(背)
文書構造 |
讀み下し文 |
添付書類(自言文書) |
書出 |
令史の□、自ら言わく、 |
本文 |
狀況説明 |
遷陵が吏たり。家を去ること千里を過ぐれば、當(まさ)に令を以て僕を益すべし。錢もて□□を買えり。遣わして鳥を買わせ、它郡縣に屯する(とき)に、歳を盡くすも來(きた)らず。書もて□【……。】 |
用件 |
【□、謁うらくは、……せよ。】 |
附記 |
送達記錄 |
- |
作成記錄 |
【□手す。】 |
文書本體 |
書出 |
【某年某月某日、遷陵某職の某、某官に謂う/告ぐ/敢えて之れを言う。】 |
本文 |
【……。】 |
附記 |
送達記錄 |
五月辛丑日入、守府の□、行る。 |
作成記錄 |
【□手す[28]。】 |
附記
小文は、アジア・アフリカ言語文化硏究所共同利用・共同硏究課題「中國古代簡牘の橫斷領域的硏究(5):歷史情報學活用による總合的文書簡牘學の確立を目指して」2024度第10回硏究會における議論を踏まえて執筆したものである。また、『里耶秦簡(壹)』に關わる史料引用には、中國古代簡牘の橫斷領域的硏究班『里耶秦簡譯注稿2022年1月ワード形式試作版』(中國古代簡牘の橫斷領域的硏究HP、2022年1月31日作成、2024年7月2日公開)を參照した。
編集者注記:2024年10月7日入稿
注
[1]湖南省文物考古硏究所編著『里耶秦簡(貳)』文物出版社、2017年(以下里耶秦簡第九層出土簡と關連して、「原釋文」と略稱する)。
[2] 陳偉主編、何有祖・魯家亮・凡國棟撰著『里耶秦簡牘校釋(二)』武漢大學出版社、2018年(以下里耶秦簡第九層出土簡と關連して、校釋と略稱)。
[3] 理論的には編綴でその簡面が確保された可能性も否定できないが、現時點で遷陵縣廷發信の文書が二行書きの簡に書寫されて殘されている例は確認できない。
[4] 原釋文と校釋は「佐」を「□」に作るが、伊強「《里耶秦簡牘校釋(第一卷)》〉補正(3)」(簡帛網、2013年12月5日)に從って補釋した。なお、里耶秦簡第五・六・八層出土簡と關連しては、原釋文とは、湖南省文物考古硏究所編著『里耶秦簡(壹)』(文物出版社、2012年)、校釋とは、陳偉主編、何有祖・魯家亮・凡國棟撰著『里耶秦簡牘校釋(一)』(武漢大學出版社、2012年)を指す。
[5] 原釋文と校釋は「廢」を「履」に、「女」を「文」に作るが、陳偉「“廢戍”與“女陰”」(簡帛網,2015年5月30日。また同『秦簡牘校讀及所見制度考察』第十二章第五節「嶽麓秦簡奏讞類文獻」第二項、武漢大學出版社、2017年)に據って改めた。「陰」と「今」は、原釋文と校釋は「□」に作るが、施謝捷「里耶秦簡釋文稿」に據って補釋した。
[6] 原釋文と校釋は「┘今」を「□□」に作るが、何有祖「讀里耶秦簡札記(四則)」(簡帛網、2015年6月10日。また同「《里耶秦簡(壹)》釋地(四則)」、考古與文物 2019年第2期)に據って補釋した。
[7] 原釋文は「泥」を「沅」に、校釋は「沂」に作るが、高一致「讀秦簡雜記」(《簡帛》第九辑,2014年)および黃磊「里耶秦簡牘綴合札記(一則)」(簡帛網,2015年5月29日。また同「耶秦簡牘札記(三則)」、『簡帛』第十二輯、2016年)に據って改釋した。
原釋文と校釋は「詘」を「□」に作るが、陳偉「“廢戍”與“女陰”」(前揭)に據って改釋した。
[8] 本簡の綴合は、黃磊「里耶秦簡牘綴合札記(一則)」(前揭)に據る。
[9] 原釋文と校釋は「瞫」を「□」に作るが、施謝捷『里耶秦簡釋文稿』に據って補釋した。
[10] 「卒」と「事」の閒に二字ほど簡面の缺損がある。原釋文と校釋は「□□」と表示するが、ここでは、斷簡記號により缺損を明示する。
[12] 「事」の前の缺字は、考釋注4を參照して簡8-0992「捕戍卒不從〼」に基づいて「不從」と補った。懸賞金の「購」は何れも錢千一百五十二となっており、本簡によってさらにそれが贖耐相當の罪を犯した者を捕獲した時の懸賞金額であることが判る。
[13] 賜は、人名。身分は戍卒、不從事という「贖耐」相當の罪を犯して、隸臣の豎に捕えられる。
[14] 資の讀み方については、拙稿「試釋里耶秦簡“資購當”」(『簡帛』第17輯、2018年)を參照されたい。
[15] 本文書について二點が注目に値しよう。一つには、申請人の令佐華は、文書作成者と同名である。令佐が縣廷において長官の文書を作成する任務にある以上、作成者の華は申請人と同一人物の可能性が極めて高い。もう一つには、送達記錄が記されていない。本文書は、縣廷に保管されていた副本と考えられるが、正式な經路を通じて文書が發送される時は、副本に送達記錄が記される。よって、本文書の原本は、簡8-0163等と同樣に、文書作成者によって受信者の所に持參されたと推測される。受信者はまた懸賞金の一部を申請人に交付することになっている少内なので、實質的な機能からすれば、本文書は手形の一種と理解することができる。すなわち、振出人(發信者の遷陵守丞銜)が、支拂人(受信者の少内)に對して、受取人(令佐華)に一定の金額(債權相當分の五百錢)を支拂うよう指示する。受取人の華は、この手形を支拂人の少内に提示することで支拂いを受ける。なお、實際の作成者が受取人となっている以上、振出人の銜がどれほどこのことを關知したか、また文書本文の「問辭如」等がどれほど事實を反映しているかは定かではない。
[16] 簡6-07と8-0560の連讀は、何有祖「讀里耶秦簡札記(五)」(簡帛網,2015年7月15日)に據る。簡8-0517+8-0619は、筆跡、形制および記載内容もまたこの兩簡に近いから、同じ文書を構成する可能性が高い。
[17] 謁字の下には、一字ほどの空白があり、簡面に削った痕跡が認められる。
[18] 本簡の綴合は、何有祖「里耶秦簡牘綴合(二則)」(簡帛網,2012年7月30日)に據る。
[19] 見、現有の意、その時點で所藏されている物品や財物に冠せられることが多い。『漢書』王嘉傳には、
是時外戚貲千萬者少耳、故少府・水衡見錢多也。
是の時、外戚の貲千萬なる者少ければ、故に少府・水衡の見錢多きなり。
とあり、顏師古注には
見在之錢也。
見在の錢なり。
という。睡虎地秦簡『效律』には、
12 縣(懸)料而不備其見(現)數五分一以上,直其賈(價),其貲、誶如數者然。十分一以到不盈
13 五分一,直過二百廿(二十)錢以到千一百錢,誶官嗇夫;過千一百錢以到二千二百錢,
14 貲官嗇夫一盾;過二千二百錢以上,貲官嗇夫一甲。(後略)
懸料して、其の現數を備えざること五分の一以上ならば、其の價を直(はか)れ。其の貲(はか)る・誶(せ)むるは、數が如くして然らしめよ。十分の一より五分一に盈たざるに到るは、直(あたい)、二百二十錢を過ぎて以て千一百錢に到らば、官嗇夫を誶(せ)め、千一百錢を過ぎて以て二千二百錢に到るは、官嗇夫に一盾を貲(はか)り、二千二百錢以上を過ぎば、官嗇夫に一甲を貲れ。
とあり、「見數」は廣く物品や財物の現有の數量を意味する。
見錢、現有の錢。遷陵縣、もしくは少内などにその時點で所藏されている錢をいうのであろう。縣所藏の錢の用途は複數考えられるが、一例として肩水金關漢簡には
錢入其縣、邊以見錢取庸。(後略) 73EJT37:1164
錢其の縣に入り、邊は見錢を以て庸を取る。
とあり、邊境において官が人を雇う際に、官府所藏の錢が用いられていたことが窺われる。
[20] 府は、本文書の受信者である洞庭太守府を指すと考えられる。
[21] 原釋文と校釋は「□」を「苑」に作るが、字形が合わないため、圖版に據り、未釋讀字に戾した。
[22] 原釋文と校釋は「人」を「□」に作るが、圖版に據り補釋した。
[23] 本簡の綴合は何有祖「里耶秦簡牘綴合札記(四則)」(簡帛網,2015年2月18日)に據る。
[24] 本簡の作成年月は、秦始皇三十五年六月の可能性がある。案ずるに、瞫という人物は、三十五年四月には縣廷の文書に携わる令史もしくは令佐として二回ほど、二世元年十一月には倉嗇夫として三回ほど史料上現れる。一方、戌という人物は、本簡の記載によれば、吏僕の違法な使役のため取り調べを受けており、8-0533に「有罪爲鬼薪」として見える「戌」と同一の人と考えて差し支えあるまい。戌の官職は不明であるが、役人が業務關連の犯罪を犯す時には、周邊の役人に簡單に知られることから、役所の中に共犯者がいることは珍しくない。そこで、戌とともに8-0533に名を連ねている者の中に、城旦の瘳という人物が見える點が目を引く。秦始皇三十四年後九月から三十五年六月にかけて、少内佐に、また三十五年九月には、令史もしくは令佐にそれと同名の者が見えており、その後史料から姿を消してしまう。この人物が戌の共犯者として三十五年九月以降免職の上城旦に處せられたとすれば、8-0533に戌とともに城旦の瘳が登場することについても合理的な説明がつく。このように、戌の處罰と瘳の經歷を關連づければ、本簡の「六月乙丑」は、「三十五年六月戊午朔乙丑」を指すと推測される。「乙丑」は、當月の八日に當たる。なお、遷陵縣設置期閒中、「六月乙丑」は、二十五年六月丙辰朔乙丑(10)・二十六年六月辛亥朔乙丑(15)・二十九年六月癸亥朔乙丑(05)・三十二年乙巳朔乙丑(21)・三十三年六月庚子朔乙丑(26)・三十五年六月戊午朔乙丑(08)・三十六年六月壬子朔乙丑(14)・三十七年丁未六月乙丑(19)の八例が確認される。また、感という人物が倉史を務めた三十一年後九月以前には、上記の瘳と同名の隸臣が史料上現れるが、三十四年から三十五年まで少内佐や令佐もしくは令史を務めた瘳とは當然別人と見なければならない。
ちなみに、官員が刑徒身分に貶められる事例は、簡9-1516に見えており、司空色が鬼薪に處せられたことになっている。
[25] 一部そうした負擔を理由に辭職がなされていた事例は、張家山三三六號漢墓竹簡によって傳えられる次の「功令」から窺える。
177 九十九 丞相下中尉請書言:彘官大夫若思等五人、陽平公乘縱等二人皆辤(辭)曰:調爲都官佐,家去官
178 遠,不能自給,願罷,得復歸居縣須缺。請所前調河東郡爲都官佐未遷欲罷者,比若思等。
九十九 丞相、中尉が請書を下して言わく、彘官(ていかん)大夫の若思等五人、陽平公乘の縱等二人、皆な辭して曰わく、調して都官佐と爲るも、家官を去ること遠く、自給する能(あた)わざれば、罷め、復た居縣に歸り缺を須(ま)つを得んことを願う。請うらくは前に河東郡に調して都官佐と爲り未だ遷さず罷めんと欲する所の者は、若思等が比(ごと)くせられん。
[26] そのほかに、置吏律とされる張家山二四七號漢墓竹簡『二年律令』の次の記載から、遠距離勤務者に、歸宅用の特別休暇が與えられたことも知られる。
217 吏及宦皇帝者、中從騎,歲予告六十日,它内官卌日。吏官去家二千里以上者,二歲壹歸,予告八十日。
吏及び皇帝に宦(つか)うる者・中從騎は、歲ごとに告六十日、它の内官は卌日を予(あた)う。吏の、官、家を去ること二千里以上なる者は、二歲に壹(ひと)たび歸るに、告八十日を予う。
[27] 原釋文と校釋は、「内」の直下に斷簡記號を置くが、「内」の下には、解讀不可能な墨蹟が多數みられる。文字數も確定できないから「……」と釋讀した。本簡の釋讀はそのほか里耶秦簡博物館等編著『里耶秦簡博物館藏秦簡』(中西書局、2016年)および游逸飛・陳弘音「里耶秦簡博物館藏第九層簡牘釋文校釋」(簡帛網、2013年12月22日)に負うところがあるが、これについては、校釋にすでに明記があるのでそちらを參照されたい。
[28] 樣式論的には、背面の左下には、某手という作成記錄があったはずである。圖版には、それらしい所に幾つかの影が見えているものの、墨蹟と斷定できるほどのものではない。あったとするならば、恐らく自言書の發信者の令史□であった可能性が高い。