角谷常子「秦漢行政文書における「移」」

秦漢行政文書における「移」

docx pdf

角谷常子(奈良大学)

秦漢時代の行政文書に頻出する「移」という語はいうまでもなく「送る」の意であるが、漢簡ではあたかも「つげる」であるかのように使われることがある。里耶秦簡からその変遷をたどってみたい。

●里耶秦簡における「送る」―上・移・下
秦漢行政文書において、同じ意味でも上下関係によって用語が異なる語がある。「送る」がそれである。秦簡では、上級機関に対しては上、同格機関に対しては移、下級機関に対しては下が用いられる。1例づつ挙げる。
卅四年七月甲子朔癸酉、啓陵鄉守意敢言之、廷倉守慶書言、令佐贛載粟啓陵鄉。今巳載粟六十二石、爲付券一、。謁令倉守。敢言之。●七月甲子朔乙亥、遷陵守丞巸告倉主、券。以律令從事。/壬手。 8-1525
廿六年三月壬午朔癸卯、左公田丁敢言之、佐州里煩故爲公田吏、徙屬、事荅不備、分負各十五石少半斗、直錢三百一十四、煩冗佐署遷陵、今上責校券二、謁告遷陵、令官計者定、以錢三百一十四受旬陽左公田錢計、問可計付、署計年爲報、敢言之。三月辛亥、旬陽丞滂敢告遷陵丞主、寫券、可爲報、敢告主/兼手(以下略) 8‐63
1では、啓陵郷が県廷に券を送る場合は「上」を、遷陵県廷が啓陵郷に倉守慶の書を送る場合及び倉主に券を送る場合は「下」を用いている。また2では旬陽県から遷陵県に券を送る場合に「移」を用いている。
こうした上下関係には、中央地方の機関・官署のみならず、皇帝も含まれていた。
●令曰、制書及受制有問議者、皆爲薄(簿)、署初到初受所及上年日月・官別留日數・傳留状、與對皆(偕)上。                          岳麓〔伍〕第二組100/1679+1673
と、制書は「下」ると表現されている。
このように上下関係によって語彙が変わる語として周知されているのは「つぐ(言う)」である。上級機関に対しては「敢言之」を、同格機関には「敢告」を、下級機関には「謂」「告」を用いることが、里耶秦簡でも確認されている。從って秦簡の場合、先の「送る」と組み合わせると、上級機関に文書を送る場合は次のようになる。
丗四年十月戊戌朔辛丑、遷陵守丞説敢言之、上丗三年黔首息秏(耗)八牒、敢言之 8-183+8-290+8-530
「某敢言之」で始まり、「上~」と用件が続き、最後は「敢言之」で締めくくる。こうした書式は上掲1・2のような下行文書や平行文書でも同じである。ただ、「某につぐ」の部分(謂・告、敢告、敢言之)は省略されることがあったのである。

●「某につぐ」省略型
まず秦簡の例を挙げる。
元年七月庚子朔丁未、倉守陽敢言之、獄佐辨・平・士吏賀具獄縣官、食盡甲寅、謁告過所縣郷以次續食、雨留不能決宿齎、來復傳、零陽田能自食、當騰期卅日、敢言之/七月戊申、零陽襲過所縣郷/齮手/七月庚子朔癸亥、遷陵守丞固倉嗇夫、以律令從事/嘉手(背面は略) 5-1
これはいわゆる続食文書である。まず、零陽県下の倉が零陽県廷に、吏の出張にかかる食糧支給の状況を述べ、通過地点の県・郷に転送して食料を支給してもらうよう要請した。それを受けて零陽県廷は「過所県郷」に文書を転送した。転送文書を受け取った遷陵県廷は屬下の倉に命じた、という流れである。最初の零陽倉守陽が県廷に送った文書は、「敢言之」+用件+「敢言之」という典型的な上行文書の書式である。また最後の遷陵守丞から倉に送った文書も「告倉嗇夫」で始まり、具体的な用件は省略されているが、律令に基づいて執行せよという文言で終わる、これも下行文書の書式に則ったものである。ところが零陽縣が「過所県郷」に宛てた文書には、「某につぐ」(「敢告」)の部分がなく、いきなり「送る」(「移」)という用件から始まっている。零陽縣は単に転送するだけであるし、相手は同格機関であるため、こうした簡単な書式でもよかったのだろう。もちろん「敢告」から始まり、用件の「移」と続く完全な書式の文書はある。
卅三年五月庚午己巳、司空守㝡敢言之、未報、謁追、敢言之、敬手/六月庚子朔壬子、遷陵守丞有敢告閬中丞主、、爲報、署主倉發、敢告主 橫手 六月甲寅日入、守府色行 9-2314正
遷陵県下の司空から県廷に送られてきた督促依頼を、遷陵県が閬中県に転送したものである。「敢告」から始まり、「移」という要件、そして「敢告」で終わる。
さてこのように用件から始まるのは同格機関で用いる「移」だけではない。下級機関への文書にもみられる。送る「下」、督促の「追」、却下の「郤」である。1例づつ挙げよう。
卅一年後九月庚辰朔乙巳、啓陵郷守 (最)敢言之、佐(最)爲假令史、以乙巳視事、謁令官假□□(養・走)敢言之(正)        
  卅二年十月己酉朔壬子、遷陵丞昌倉、以律令従事(背)以下略 9-48
卅三年正月壬申朔戊戌、洞庭叚守□謂縣嗇夫、廿八以來所以令䊮粟、固各有數、而上見或別署或弗□。以書到時、亟各上所䊮粟數、後上見、左署見、左方曰若干石斗不居見 。□報署主倉發 。它如律令。縣一書。●以臨沅印行事。        
  二月壬寅朔甲子、洞庭叚守齰、縣亟上,勿留。/巸手。●以衍印行事。 J1⑫1784正
卅二年正月戊寅朔甲午、啓陵鄕夫敢言之、成里典・啓陵郵人缺、除士五成里匄・成、成爲典、匄爲郵人。謁令尉以從事。敢言之。 8-0157正
  正月戊寅朔丁酉、遷陵丞昌卻之、啓陵廿七戶、巳有一典。今有(又)除成爲典、何律令𤻮、尉巳除成・匄爲啓陵郵人。其以律令。/氣手。/(以下略) 8-0157背
なお「下」や「追」についても、「某に言う」から始まるものは確認できる。「下」の例としては先にあげた1が、「追」では以下のような例がある。
10 卅四年十二月丁酉朔壬寅、司空守沈敢言之、與此二追未報、謁追、敢言之/沈手         
  正月丁卯朔壬辰、遷陵守丞巸敢告 閬中丞主、、報、署主倉發、敢告主/     
  壬手/正月甲午日入守府色行 (背面略) 9-2314
「敢告閬中丞主」+「追」+「敢告主」となっている。
では、「某に告ぐ」+用件という書式と、用件から始まる書式にはどのような違いがあるのだろうか。用件から始まるのが簡略で、軽微なニュアンスをもつであろうことは容易に予想されるが、それはこうした書式が上行文書に見られないことや、以下の例からも窺えよう。
11 卅一年後九月庚辰朔乙巳、啓陵郷守(最)敢言之、佐(最)爲假令史、以乙巳視事、謁令官假養・走。敢言之。/卅二年十月己酉朔辛亥、啓陵郷守(最)敢言之、重謁令官問(最)當得養・走不當、當、何令史與共、不當、問不當状、皆具爲報、署主戸發、敢言之。/(最)手(正)十月甲寅遷陵丞昌倉嗇夫、以律從事、報之/(背)   (以下略) 9-30
これは前掲7と関連するものである。7は、佐の最が假令史として職務についたので、養と走を支給してほしい旨、啓陵郷が遷陵県廷に上申し、県廷がそれを受けて倉に指示を出したものである。しかし回答がなかったためか、啓陵郷が重ねて上申したのが11である。一回目の7では、遷陵県から倉への文書は、「下倉、以律令従事」と、簡略な書式であったが、二回目の11では「謂倉嗇夫、以律従事」と、「某につぐ」から始まっている。正式な形をとることによって緊張感をもたせようとしたのではないだろうか。
以上、秦簡において「送る」の語は、上下関係によって上・移・下の使い分けがあったこと、同格間の移、下級機関への下・郤・追の場合、「某につぐ」を省略する簡略な書式があったこと、の2点を述べた。次にこれらの西北出土漢簡における展開をみておこう。

●西北出土漢簡における「送る」
秦簡のように語彙が変わることはなく全て「移」が用いられる。上行文書は「謹移」として敬意を表わす。ただ、詔書を伝達する時だけは語彙が変わり「下」が用いられる。秦簡では皇帝以下全ての下行文書に用いられていた「下」が皇帝に独占されるようになったのである。詔書の場合は書式も「某につぐ」の部分が省略され「下」から始まる形が取られる。こうした書式は秦簡では簡略なものと述べたが、皇帝が「下」を独占する段階では、簡略形がむしろ皇帝の権威を示す書式となったのではないだろうか。

●西北出土漢簡における「某につぐ」省略書式
この書式は詔書の「下」以外に、やはり「移」に確認できる。ただ、「某につぐ」省略書式における「移」が、里耶秦簡同様、用件=「送る」の意であるかは注意が必要である。まずは例を挙げよう。
12 ……長□□行大守事守丞宏、部都尉、官縣、大將軍莫府移計簿錢、如牒……莫府録律令 E.P.F22:173A
13 (前略)六月張掖大守毋適・丞勳、敢告部都尉卒人、縣、寫移書到趣報、如御史書律令、敢告卒人/ 掾【人艮】守卒史禹置佐財 73EJT1:2
12は、太守府から都尉には移が、候官と縣には謂が用いられている。この移の部分は13では「敢告」が使われている。このことからすると、12の移は「送る」ではなく、「つげる」と同意ではないかと思える。また、
14 建昭三年三月丁巳朔丁丑、冥安丞光效穀、遣吏御送迎過客往來過廩、今移券墨、書到簿入四月、報、如律令 Ⅰ90DXT0110①:10
15 永光元年十一月甲子朔丁丑、冥安丞光效穀、遣御持傳馬送迎客往來過廩、各如牒、今寫券墨移、書到受簿入十一月、報、毋令繆、如律令 Ⅰ90DXT0206②:11
これらはともに冥安縣から效穀縣宛ての文書であるが、一方は移をもう一方は謂を用いている。この移も「つげる」の意か思われるが、仮に14の「移」を「送る」と訳すと、「效穀県に送る。…今券墨を送る」と、動詞が重複してしまう。
以上のように、「移」が謂と並列したり、「送る」の意だとすると動詞が重複してしまうことから考えると、「つげる」省略型の「移」は、「送る」という原義から遠のき、「つげる」と同義の「移」になっていたのではないだろうか。
ただし、完全に「謂」「告」と同じように使われたわけではない。本来の「送る」という意味や、里耶秦簡で見たように同格機関間での用語だという観念は引き継がれているようである。例えば12・14でも、同格機関に計簿錢や券墨を送っている。こうした感覚が最もよく表れているのは通行証であろう。
16 永始五年閏月己巳朔丙子、北郷嗇夫忠敢言之、義成里崔自當自言、爲家私市居延、謹案自當毋官獄徴事、當得取傳、謁移肩水金關居延縣索關、敢言之、閏月丙子【角樂】得丞彭肩水金關居延縣索關、書到如律令 掾晏令史建 15・19,A32
17 元延二年七月乙酉、居延令尚・丞忠、移過所縣道河津關、遣亭長王豐以詔書買騎馬酒泉敦煌張掖郡中、當舍傳舍從者如律令 /守令史【言羽】佐襃 七月丁亥出 170・3A,A21
18 五鳳四年十一月戊辰朔己丑、居延都尉德・丞延壽、謂過所縣道津關、遣屬常樂與行邊兵丞相史楊卿從事移簿丞相府乘所占用馬二匹當舍傳舍從者如律令 / 掾仁屬守長壽給事Z73EJT37:782(+836A姚磊)
民間人の通行証は、16のように民が郷に申請し、郷が縣に上申し、県が発給するのだが、その際縣は「過所」に対して「移」を用いている。17・18は役人を出張させるための通行証であるが、17の居延県発行のものは「過所縣道河津關」に対して「移」を用いるのに対して、18の居延都尉発行のものは「謂」を用いている。都尉や太守など二千石レベルの官が発行した通行証に「謂」が使われる事例は、90・33A+19・8+192・29+192・17+182・49+19・44+293・10+182・11、102・6、303・12、Ⅰ90DXT0111②:73、ⅠDXT0210-①:086、ⅡDXT0114-④:338、ⅡDXT0115-③:099、ⅡDXT0315-②:036、ⅤDXT1312-③:006、73EJT24:269+264、73EJT35:3、73EJT37:782+836+1255、73EJT37:1500、73EJD:40、73EJD:64など多数見られるが、県の長官が発行した通行証で「謂」を使った例は管見の限り見当たらない。このことから、ここの「移」も同格間で使われるもので、意味は「送る」ではなく「つげる」であると思われる。しかもこれらは12・14のように別の帳簿などを送っているのではないが、通行証明書として本人が携行するのだから、いわば人間を送っているともいえるものである。このように考えると、「移」が「つげる」と同意に使われたとしても、「送る」という原義ゆえに何かを送る場合に用いられたのではないかと推測する。
以上、西北漢簡の簡略書式の「移」は、秦簡の簡略書式のように「送る」ではなく「つげる」であること、秦簡での用法を継承して同格間で使われること[1]、原義の意識から何かを「送る」場合に用いられること、を述べた。ただ、「つげる」の意になった「移」[2]と「敢告」の使い分けについては今後を期したい。最後に「移」についての考察結果を表にまとめておく。

秦簡

漢簡

一般文書 対上級機関 敢言之…上 敢言之…謹移
対同格機関 敢告…移/移 敢告…移/移
対下級機関 告…下/下 告・謂…移
詔  書
*秦簡の「移」は全て「送る」の意。
*漢簡の対同格機関 「敢告…移」の「移」は「送る」、簡略書式の「移」は「つげる」の意。

 

 

附記:小文は、アジア・アフリカ言語文化研究所共同利用・共同研究課題「秦代地方県庁の日常に肉薄する――中国古代簡牘の横断領域的研究(4)」(陶安あんど代表)および科学研究費(基盤研究A)「平城宮・京跡出土木簡とその歴史環境のグローバル資源化」(課題番号18H03597、渡辺晃弘代表)の研究成果を含む。

編集者注記:2020年10月2日入稿

[1]筆者は以前「移」が用いられた文書を下行文書と考えたことがあるが、ここに訂正する。(「中国古代下達文書の書式」『簡帛研究』2007 広西師範大学 2010)。移が平行文書に用いられることは李均明氏が指摘する。(同氏『秦漢簡牘文書分類輯解』(文物出版 2009)。
[2]ここで検討した移が、同じく上下関係のない官庁間でやりとりされるという、唐代の移とどうかかわるかも、今後の課題としたい。(『唐六典』巻一「諸司自相質問、其義有三、曰闗刺移」。また養老令令集解の公式令の移式について、佐藤進一氏は「対等の位置づけをもつ官庁相互」の文書とする。(佐藤進一『新版 古文書学入門』法政大学出版局 2009 第5刷)