陶安あんど「「應書」に關する覺書」

「應書」に關する覺書

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陶安あんど(東京外國語大學)

里耶秦簡の簡J1⑧0064には、「應書」という單語が見えており、『校釋』1には、

應書,亦見于居延漢簡。于豪亮先生認爲,上級官府就某一特定問題對下級有所探詢或索取資料,下級回復的文書便稱爲“應書”。《漢書·溝洫志》:“下丞相孔光、大司空何武,奏請部刺史、三輔、三河、弘農太守擧吏民能者,莫有應書。”
應書、亦た居延漢簡にも見う。于豪亮先生認爲(おも)えらく、上級の官府、某の一特定の問題に就きて、下級に對して探詢する所有り或は資料を索取せば、下級の回復するの文書は便(すなわ)ち稱して「應書」と爲す。『漢書』溝洫志には、「丞相孔光・大司空何武に下し、奏して部刺史・三輔・三河・弘農太守の、吏民の能ある者を擧ぐるを請うも、應書有る莫し」という。

という注釋を加えている。『漢簡語彙』2でも、『漢書』溝洫志を典據として、語義を

上級の要求に應じて提出する文書。

と説明しており、『漢語大詞典』でも

古時下級官府回復上級的公文。《漢書·溝洫志》:“云々。”
古時、下級の官府、上級に回復するの公文。『漢書』溝洫志には「云々」という。

というように、于豪亮を踏襲しているように見受けられる。3

于豪亮の見解に基づくこの通説的な理解に特徵的なのは、「應書」を、下級機關が上級機關に提出する文書の自稱と見なし、且つ「應」の字義を上級機關の要求に「こたえる」意味に捉えている點に纏められよう。里耶秦簡の簡J1⑧0064は、何有祖によって、簡J1⑧2010と綴合された4が、その簡文も一見通説を裏付けるように見える。

卻之:廷令尉、少内各上𤻮(應)書廷,廷校。今少内□〼
日備轉除以受錢,而尉言毋當令者。節(卽)〼 J1⑧2010+J1⑧0064正
當坐者,以書言。署金布發。  〼 J1⑧2010+J1⑧0064背

文書構造 讀み下し文
文書本體 前置 之れを卻(しりぞ)く。
本文 根據資料

廷、尉・少内に令して、各々應書を廷に上(のぼ)さしめ、廷、校す。

用件

少内□【……】日備わり、轉除し、以て錢を受くるに、尉、令に當たる者なしと言う。卽(も)し【……】當(まさ)に坐すべき者【……】書を以て言え。

附記 金布發(ひら)けと署(しる)せ。
結び

正面の第一行には、縣廷が少内と尉に對して「應書」を提出するように指示する文言が記されているので、「應書」を「上級の要求に應じて提出する文書」と捉えても、必ずしも明確な矛盾は感じられない。

ところが、不思議に思われるのは、このような語釋を取るなら、「應書」という語の構成原理が、同樣に「應+名詞」の組み合わせからなる他の熟語と異なる點である。例えば、『漢簡語彙』が「應書」のほか「應簿」・「應法」・「應令」という三つの單語を收錄するが、語釋はそれぞれ、

帳簿と對應する。帳簿通りである。
規則、規定にかなう。
規定にかなう。

となっている。つまり、「應書」が「應ずるの書」と理解されるのに對し、「應簿」・「應法」・「應令」は、例えば、

三月簿餘盾六十桼(七),  校見六十桼(七),應簿。 E.P.F22:314,A8
三月の簿餘、盾六十七あり。  校するに、見に六十七あり、簿に應(かな)う。

と、

甘露二年八月戊午朔丙戌,甲渠令史齊敢言之:第十九隧長敞自言:當以令秋射署功勞。卽石力發弩,矢□弩臂皆應令。甲渠候漢彊、守令史齊署發中矢數于牒。它如爰書。敢言之。 E.P.T53:138,A8

文書構造 讀み下し文
文書本體 前置 甘露二年八月戊午朔丙戌、甲渠令史の齊、敢えて之れを言う。
本文 根據資料

第十九隧長の敞、自ら言わく、

當(まさ)に令を以て秋射して功勞を署すべし。

用件

卽ち

石力もて弩(いしゆみ)を發(はな)ち、矢□弩臂、皆な令に應(かな)う。甲渠候の漢彊・守令史の齊、發中の矢數を牒に署す。

它は爰書が如し。

結び 敢えて之れを言う。

と見えるように、「簿に應(かな)う」・「令に應う」等と解釋される。「應+名詞」という共通の構成にはなぜそれだけの差異が生じるのだろうか。于豪亮の説は果たして正しいのだろうか。

まず、于豪亮や『漢簡語彙』が共通して引用する居延漢簡の簡文から再檢討を始めよう。

陽朔三年九月癸亥朔壬午甲,渠鄣守候塞尉順敢言之:府書:移賦錢出入簿,與計偕。謹移應書一編。敢言之。 35.8A A8

文書構造 讀み下し文
添付書類 【應書一編】
文書本體 前置 陽朔三年九月癸亥朔壬午、甲渠鄣守候の塞尉の順、敢えて之れを言う。
本文 根據資料

府が書に(いう。)

賦錢出入の簿を移せ。計と與(とも)に偕(とも)にせよ。

用件

謹みて應書一編を移す。

結び 敢えて之れを言う。

この文書は、「應書一編」5を上級機關(府=都尉府)に提出するための送達文書と理解される。「應書一編」は現存していないが、もとはこの送達文書に添付して都尉府に送付されたと考えられる。つまり、この「應書一編」も確かに上級機關の要求に應じて、提出されるものである。しかし、もう一步踏み込んで、上級機關の要求内容を檢討してみると、都尉府が求めたのは、「賦錢出入」に關わる「簿」であり、文書ではない。通説にしたがって「應書」を「應ずるの書」と捉えるなら、甲渠鄣守候の提出物は本來「應簿(=應ずるの簿)」というべきではないだろうか。

居延漢簡に見られる「應書」の他の用例を調べると、文脈の分かる範圍では、上級機關が求めているのは、「計餘諸員見要具簿」(26.1,A8)・「命者縣別課」(47.6A,A35)・「財物出入簿」(169.18,A1)・「被兵簿」(E.P.F22:455,A8)というように、「簿」や「課」等と稱せられる帳簿類であり、文書の提出を求めた例は皆無のようである。

さらに、「應書」を上級機關に提出する送達文書のほかに、「應書なし」と報告する上申文書の事例も幾つか見られるが、そこに言及される「應書」も、文書の自稱とは理解しがたい。例えば、

謹案部吏卒,毋應書。敢言之。〼 E.P.F22:583,A8

文書構造 讀み下し文
文書本體 前置 【某年某月某日朔某日、某候長の某、敢えて之れを言う。】
本文 根據資料

【……。】

用件

謹みて部が吏卒を案ずるに、應書なし。

結び 敢えて之れを言う。

という一例では、「部吏卒」に關して、「應書」がないことが報告されるが、上級機關に提出すべき文書をなぜ「吏卒」が所持するのだろうか。管見の限り、「毋應書」という表現は三回ほど1970年甲渠候官遺跡出土の居延漢簡に出現する6が、上級機關に提出すべき「應書」はしばしば紛失するものなのか、やはり通説では腑に落ちない點が殘る。

そこで、次に里耶秦簡に見える「應」字と「應書」の用例を分析して、「應書」の語義を考え直してみたい。『里耶秦簡(壹)』に限って「應」の用例を整理してみると、「應書」を除けば、その大半は、「應+名詞」と「應+名詞+者」という二つの形式に大別することができる。「應+名詞」は、「不」・「何」等の否定詞や疑問詞を冠しつつ、文の中では、述語として用いられる。意味は、「對應する」・「かなう」・「あてはまる」等と理解することができ、西北漢簡の「應簿」・「應律」・「應令」と變わりがないように思われる。各簡から關連字句のみを引用すると、例えば、簡J1⑧0706+J1⑧0704には、

課皆不𤻮(應)式令。
課皆な式令に應(かな)わず。

と、簡J1⑧0041には、

死亡者別以爲二課,不𤻮(應)令。
死亡者をば、別ちて以て二課と爲すは、令に應(かな)わず。

という。簡J1⑧0157に

今有(又)除成爲典,何律令𤻮(應)?
今又た成を除して典と爲すは、何の律令にぞ應う。

とあるように、倒置法も見られるが、基本的な文法構造と意味には差異が認められない。

「應+名詞+者」の用例に目を轉じると、相變わらず「應」の字義は、「對應する」・「かなう」・「あてはまる」に疑いなく、「應」字と名詞の文法關係も「應簿」等と同樣に、名詞が「應」の目的語と理解される。一例のみ擧げると、J1⑧0648には、

今以初爲縣卒𤺊死及傳槥書案致,毋𤻮(應)此人名者,上眞書。
今、初め縣卒の𤺊(せい)の死し及び槥(ひつぎ)を傳うるの書が爲に案致するも、此の人名に應う者なきを以て眞書を上す。

という。縣卒の𤺊の死に伴い、槥を用意して故鄕への移送を準備すべきところ、調べてみたら、𤺊という名が縣卒の名簿になかったため、司空は傳槥書の原本を縣廷に返上する、というようにこの一文は理解されるが、「應名」はやはり「(傳槥書に記載されている)名にあてはまる」と解される。

注目すべきは、「應+名詞+者」の用例には、「應書者」という表現が含まれる點である。簡J1⑧0768には、次のように記されている。

卅(三十)三年六月庚子朔丁未,遷陵守丞有敢言之:守府下
四時獻者上吏缺式曰:放(倣)式上。今牒書𤻮(應)書者一牒,上。敢言之。 J1⑧0768正
六月乙巳旦,守府卽行。履手。 J1⑧0768背

文書構造 讀み下し文
添付書類 【四時獻者上吏缺一牒】
文書本體 前置 三十三年六月庚子朔丁未、遷陵守丞の有、敢えて之れを言う。
本文 根據資料

守府、四時獻者の吏缺を上すの式を下して曰わく、

式に倣(なら)いて上せ。

用件

牒もて書に應う者一牒を書し、上す。

結び 敢えて之れを言う。
附記 送達記錄 六月乙巳、旦、守府の卽、行る。
作成記錄 履手す。

この文書では、遷陵縣は太守府の要求に應じて、吏缺を太守府の式に從って列記して上呈するが、「牒書𤻮(應)書者一牒,上」をよりコンパクトに表せば、「上𤻮(應)書者一牒」とも言える。さらに數詞と「者」字を省略すれば、前揭の簡J1⑧2010+J1⑧0064の如く、「上𤻮(應)書」という表現が生まれる。正確にはそれは、「應うの書を上す」ではなく、「書に應(かな)うを上す」と讀まなければならない。つまり、「書」は、資料提出を指示する上級機關の文書を指し、その文書(の指示)にかなう資料を上呈するのを「書に應うを上す」という。

「書に應う」という構造を一層明確に表すのは、簡J1⑧1564に見られる。簡J1⑧1564は「卻」という文書類型の斷片であるが、その中には、

𤻮(應)令及書所問,且弗𤻮(應)?弗𤻮(應)而云當坐之狀何如?
令及び書の問う所に應うや、且(は)た(これに)應わざるや。(これに)應わざるに、當(まさ)に坐ずべしと云うの狀は何如ぞ。

という。「書の問う所」は疑いなく「應」の目的語であり、たとえ「所問」という限定を取り外しても、「令及び書に應ずるや」というように文章は問題なく成立する。

前揭の居延漢簡の用例も、里耶秦簡の「應書」と全く同樣に、「書に應うの一編を移す」と讀まなければならない。例えば、簡35.8Aでは、都尉府の指示通りに、「賦錢出入簿」が上呈されると考えられるが、指示内容の「賦錢出入簿」・「計餘諸員見要具簿」・「命者縣別課」・「財物出入簿」等を繰り返して明記する代わりに、「書に應う(もの)」、つまり「指示通りの資料」という表現が用いられる。有能な書記官が簡明な言葉を好むのは、古今東西を問わない普遍的な現象と言えよう。

「書に應う(もの)」という新しい解釋は、さらに二つの傍證によって裏付けられる。一つは、極めて零碎な斷片に過ぎないが、簡J1⑧2480には、「上應式」の三字が見える。前後に干支と「今」字に挾まれているため、この三字が文を構成すると推定されるが、「式」は通常前揭の簡J1⑧0768と同樣に上級から下級に頒布され下級の方でそれに倣って帳簿等が作成されることになる。從って、この「上應式」も恐らく「應(こた)うるの式を上す」とは讀むことができない。これも、式に應う資料を上呈するという意味で、「式に應うを上す」と讀まなければならない。

今一つの傍證としては、「當令」という表現が擧げられる。これは、西北漢簡には檢出されず、或いは「應令」に取って代わられたとも考えられるが、里耶秦簡では、「當」は實に「應」とよく似た働きをする。例えば、前揭の簡J1⑧2010+J1⑧0064と同樣に、簡J1⑧0652+J1⑧0067や簡J1⑧0767等には「毋當令者」というが、それは何れもその前に記されている郡もしくは縣の命令に該當する者もしくは狀況がないことを表しており、簡J1⑧0648の「毋𤻮(應)此人名者」とは文法構造も「當」と「應」の字義も共通している。また、簡J1⑧1514には、

今牒書當令者三牒,署苐(第)上。
今、令に當たる者三牒を牒書し、第(つい)でを署して上す。

といい、簡J1⑧0175には、

今上當令者一牒。
今、令に當たる者一牒を上す。

という。それは、簡J1⑧0768の「今牒書𤻮(應)書者一牒,上」や簡J1⑧2010+J1⑧0064の「上𤻮(應)書」と酷似する。ただ、者字をも省略した「上當令(令に當たるを上す)」という最もコンパクトな表現は出現していない。

最後に、于豪亮が既に指摘しているように、『漢書』溝洫志の「莫有應書」については、王先謙『漢書補注』と楊樹達『漢書窺管』はそれぞれ次のように述べる。

先謙曰:言無應詔書者。
先謙曰わく、詔書に應ずる者無きを言うなり、と。

樹達按:書乃者之誤字,王強説之,非也。
樹達按ずるに、書は乃ち「者」の誤字なり。王(先謙)強いて之れを説くは、非なり。

楊説は、確かに于豪亮のいう通り、「強いて自己の臆測により『漢書』(の原文)を改める」誹りを免れまいが、「應書」を「應書者」と言い換えて文法構造を明らかにする王説は、小文と軌を一にする。簡牘などの膨大な同時代資料がまだ出現しない時代にこの表現を正しく分析するところに、語感の鋭さが示されると言えよう。『漢書』董仲舒傳

今以一郡一國之衆,對亡應書者,是王道往往而絶也。臣願陛下興太學,置明師,以養天下之士。
今、一郡一國の衆を以てするも、對(こた)うるに書に應ずる者亡きは、是れ王道の往往にして絶うれば也。臣願わくは、陛下、太學を興し、明師を置き、以て天下の士を養わんことを。

といい、顏師古注には、「應書」の「書」について

書謂擧賢良文學之詔書也。
書は、賢良文學を擧ぐるの詔書を謂う也。

というのに對し、王先謙は、

既以對言,則所謂亡應書者,皆是不應經義也。此仲舒泛論平日郡國之衆。顏說非。
既に對を以て言えば、則ち所謂「亡應書者」は皆な是れ經義に應ぜざる也。此れ仲舒、平日郡國の衆を泛(おとし)めて論ずるなり。顏が說、非なり。

という論駁を加えている。「書に應ずる」という文法構造に對する理解は、顏師古も、王先謙が溝洫志について述べた通りであるが、顏師古が書を詔書と捉えているのに對して、王先謙は、溝洫志の補注と違って、書經等に記されている「經義」と捉える。確かに「對」という以上は、郡國は詔書に應じてその衆の中から「賢良文學」を擧げているに違いない。董仲舒が問題にしているのは、郡國が折角擧げた「賢良文學」の「對」、つまり皇帝の下問に對して意見を具申する「對策」が何れも書にかなわないことである。この文脈では、王先謙が溝洫志の「詔書」と違って「書」を「經義」と解釋するのは理に適うのみならず7、于豪亮の次のような批判が當たらないことも如實に語るように思われる。

這裡的「莫有應書」向來的注釋家都沒有作出正確的解釋。王先謙《漢書補注》解釋說:「言無應詔書」,雖然勉強可通,但是把「應書」解釋爲「應詔書」,就縮小了「應書」一詞運用的範圍。因爲在居延漢簡中,下級對上級均用「應書」,決不限於「應詔書」。
這裡(ここ)の「莫有應書」は、向來の注釋家、都(すべ)て沒(いま)だ正確なる解釋を作出する有らず。王先謙『漢書補注』解釋して「詔書に應ずる無きを言う」と說くは、勉強(し)いて通ずべしと雖然(いえど)も、但是(ただ)し「應書」をば解釋して「應詔書」と爲すは、就(すなわ)ち「應書」一詞の運用範圍を縮小するなり。因爲(けだ)し居延漢簡の中に在りては、下級、上級に對して均しく「應書」を用い、決して「應詔書」に限らざるなり。

王先謙は、「應書」の「書」を文脈によって「詔書」以外の意味にも捉えており、居延漢簡を見る機會があったならば、恐らく上級機關の文書と解することも十分にあり得たように思われる。つまり、王先謙は、決して于豪亮のいうようにその「運用範圍を縮小し」ていない。むしろ、

同時,「應書」是當時公文中的專用名詞,把它割裂開來講,也不妥當。
同時に、「應書」は、當時の公文中の專用名詞にして、它(そ)れを割裂して講ずるも、也(ま)た妥當ならず。

という于豪亮の發想が問題を狹隘化する危險がある。文書行政の專門用語も所詮生きた古漢語から生まれたものであり、その生きた文脈の中から理解すべきように思われる。

附記:小文は、アジア・アフリカ言語文化硏究所共同利用・共同硏究課題「里耶秦簡と西北漢簡にみる秦・漢の繼承と變革――中國古代簡牘の橫斷領域的硏究(二)」における議論を踏まえているほか、科學硏究費(基盤硏究B、課題番號16H03487)「最新史料の見る秦・漢法制の變革と帝制中國の成立」の硏究成果を含む。

編集者註記:2016年12月6日入稿

1 陳偉『里耶秦簡牘校釋』第1卷(武漢大學出版社、2012年、該當箇所は何有祖の執筆による)。

2 京都大學人文科學硏究所漢簡硏究班編『漢簡語彙――中國古代木簡辭典』(岩波書店、2015年)34頁。

3 この通説を部分的に修正する説には、裘锡圭「漢簡零拾」の第十節「應書」がある(文史第12輯、1981。後に同『古文字論集』(中華書局、1988年)や同『裘锡圭學術文集(簡牘帛書卷』(復旦大學出版社、2012年)に收錄)。裘文によれば、「應書」には二通りの用法があり、一つは、詔書もしくは上級機關の文書に應ずる意味を持ち、もう一つは、于豪亮の説くように、上級の要求に應じて提出する下級機關の文書を指す。居延漢簡に後者の用例が見えるからと言って、前者の用法を否定することができないという。

なお、裘文は、王先謙に對する于豪亮の批判を論駁する形で展開され、小論末尾の記述にはそれと重複する點もあるが、裘文の主眼は、「應書」を「詔書に應ずる」と理解できるか否かに置かれており、小論が關心を寄せる「應」の字義および名詞「應書」の構成原理には觸れていない。

4 何有祖「里耶秦簡牘綴合(七則)」(簡帛網、2012年5月1日)。

5 「某一編を移す」という表現は、「移賜勞名籍一編」(159.14,A8)・「移病卒爰書一編」(255.40A,A33)・「移日迹簿一編」(267.15A,A8)等の如く、「應書」以外にも、多數のバリエーションが存在しており、その多くは確かに送付資料の自稱と捉えることができる。そうした文脈の中では、「應書」が文書の自稱と解釋されたのも自然の成り行きと言えよう。

なお、所謂「劾狀」を巡る議論の中では、鷹取祐司「居延漢簡劾狀關係册書の復原」(史林第79卷第5號、1996年)がすでに、「一編」の前に文書名稱の代わりに文書の内容が記される狀況に注意を喚起している。鷹取文が取り上げる例は、擧劾文書にみえる「移劾狀一編」のほか、「移戍卒自言貰賣財物吏民所定一編」(E.P.T53:25)である(104頁)。鷹取文は後に同『秦漢官文書の基礎的硏究』(汲古書院、2015年)に第三部の第一章「漢代の擧劾文書の復原」として收錄されるが、「狀」を文書名稱と捉える蘇俊林に論駁を加える過程で、「劾狀一編」から「狀」の字義に論述の重點が置かれ、「某一編」および簡E.P.T53:25への言及が削除されたようである。

6 一方、1930年代の居延漢簡等にはこの表現は見出せない。前注の鷹取文が指摘するような、明らかに文書名稱とは捉え難い「某一編」の用例も、やはり1970年代の居延漢簡の出現を俟たねばならない。通説は恐らくそれ以前に形成されてしまったため、その後も小論の指摘するような矛盾に氣付きにくい狀況が形成されたのではないかと推測される。裘锡圭が、小論の後述と同樣に、「應+名詞」を「應+名詞+者」と解釋する可能性を認めつつ、そうした解釋を居延漢簡の用例に應用しなかったのもそうした狀況を反映しているように思われる。

7 なお、「かなう」という「應」字の字義からすれば、「對亡應書者」を、經義に重きを置く詔書の趣旨にかなう對策がなかったと理解して、顏師古注の通り「書」を「詔書」と捉えることも不可能ではない。