陶安あんど「『鞫書』と『鞫状』に関する覚書」

「鞫書」と「鞫状」に関する覚書

doc pdf

陶安あんど(東京外国語大学)

従来から、「鞫」は、秦漢時代における断獄手続の一環として知られており、伝世文献や張家山漢簡『奏讞書』を通じて、その大よその位置づけは可能となっていたが、『奏讞書』も一定の編集作業によって成立した文献もしくは古書籍に過ぎないため、最近までは、直接に「鞫」に関わる古代の文書もしくは記録が伝えられていなかったのを遺憾とせざるを得なかった。その空白を埋めるかのごとく、里耶秦簡[1]によって以下のような記録が齎された[2]。「鞫」との関わりに疑問の余地がないので、それを取りあえず「鞫書」と名付けておく。

廿七年八月丙戌,遷陵拔訊歐。辤(辭)曰:上造,居成固畜□□断簡記号
□獄。歐坐男子毋害𧧻(詐)僞自 断簡記号 (J1⑧0209正)
●鞫:歐失𢱭(拜)騶奇爵。有它論,貲二甲□□□断簡記号 (J1⑧0209背)

廿九年正月甲辰,遷陵丞昌訊断簡記号
書 断簡記号 (J1⑧1246正)
●鞫□悍上禾嫁租志,誤少五轂□断簡記号 (J1⑧1246背[補1]

廿六年八月丙子,遷陵拔守丞敦狐詣訊般芻等。辭各如前。断簡記号 (J1⑧1743+J1⑧2015正)
●鞫之:成吏、閒、起贅、平私令般芻、嘉出庸,賈(價)三百,受米一石,臧(贓)直(值)百卌。得。成吏亡,嘉死。審。 (J1⑧1743+J1⑧2015背)

廿九年七月戊午,遷陵丞昌訊断簡記号 (J1⑧2191正)
鞫之:又留不傳閬中漕断簡記号 (J1⑧2191背[補1]

廿六年六月癸丑,遷陵拔訊榬、蠻、𧘭断簡記号 (⑫10正)
鞫之:越人以城邑反,蠻、𧘭,害不智断簡記号 (⑫10背)[3]
正確な法量は未詳であるが、後掲の図版から見る限り、五例とも形状がほぼ一致している。約二行の書写スペースを与える02型の簡牘[4]に、それぞれ表と裏に文字が記されている。片面は、二行書きとなっており、文字が二行にわたらない場合も、文字を右に寄せて書き、左側に一行分の空白を残している。もう片方の面は、文字をやや大きくし、一行のみ簡牘の中央に書写している。一行書きの面には、冒頭に墨点を記している例が三つもある。⑫10の簡は、上端右半分が残欠しており、もと墨点があった可能性も排除できない。
書式も、正確に分からない残欠部分があるが、五例ともほとんど変わりがないように思われる。一行書きの面には、『奏讞書』からも知られている形で、「鞫」もしくは「鞫之」の書き出しに続けて、被告の罪状および「得」・「自出/告」の別[5]並びに締めくくりの「審」が記されている。二行書きの面には、年月日とともに、遷陵県長官が被告を訊問した事実と被告の供述が記録されている。供述原文の代わりに、「辭各如前」と略記する場合も一例ある。遷陵県長官は、県令(もしくは県長)単独、県丞単独および令・丞連名の三つのパターンが見られる。
 
鞫書の図
さて、一枚の簡牘の二つの書写面にそれぞれ「訊」と「鞫」に関する記録が書かれることに如何なる意味が認められるのだろうか。『奏讞書』[6]事案17においては、受刑者の請求に基づく再審手続を通じて初審の判決が覆されるが、その中から、初審の手続進行について貴重な情報が得られる。つまり、再審文書に収録された初審の記録では、受刑者の講という人物および講がその共犯者とされた牛泥棒の毛の供述に続けて、簡105から106にかけて次のような記述が見られる。
詰訊毛于〈詰〉(講),〈詰〉(講)改辤(辭)如毛┓。其鞫曰:講與毛謀盜牛。審。二月癸亥,丞昭、史敢、銚、賜論黥講爲城旦。
「詰訊」もその前に記されていた供述と同じく、訊問の一部と見做しうるので、これによって、初審の手続の流れは、「訊問→鞫→論」というように復元することができる。また、『二年律令』簡093には
鞫獄故縱、不直,及診、報辟故弗窮審者,死罪,斬左止(趾)爲城旦,它各以其罪論之。
と規定されていることから、「鞫」が秦漢時代の司法手続の中核に位置づけられていたことが判明する。
ところが、通説的理解では、訊問と論との間に位置する「鞫」は、「事件の総括」もしくは「罪状を確定する」手続[7]とされる。訊問によって罪状が明らかにされ、「論」がいわば「判決」に相当するとすれば、その中間で「罪状が確定される」ということは、一体如何なる法的意味を有するのだろうか。また如何なる形で罪状が「確定」されるのだろうか。罪状が明らかになる訊問と、罪状が確定される「鞫」との間に法的な差異があるとすれば、それは何だろうか。管見の限り、通説の中には、このような常識的な質問に答える記述が見当たらない[8]
「罪状の確定」という通説は、『奏讞書』に収録されている奏讞文書から強い影響を受けているように思われる。多くの訓詁が示すように、「鞫」字は、「しらべる」もしくは「といつめる」などと訓ぜられ、断獄手続の中では、これは疑いもなく、取り調べて犯罪事実などを明らかにする意味を持つと考えられるが、『奏讞書』に抄録されている文書では、「辞」、「詰」、「問」、「診」、「鞫」と「当」の要素が列記されており、それを一つの統一的な訴訟手続の記録と理解すれば、訊問の記録である「辞」や「詰」と、「しらべる」・「といつめる」を意味する「鞫」の字義は重複することになる。そこで、「事件の総括」もしくは「罪状の確定」という解釈の出自を推測するに、恐らく「辞」や「詰」と「鞫」との重複を避けるため、内容的に「辞」や「詰」の記述とほとんど変わりがない「鞫」を、「事件の総括」もしくは「罪状の確定」と定義したのではないかと思われる[9]
しかし、「辞」や「詰」と「鞫」との間に挟まれる「問」や「診」から明らかなごとく、奏讞文書は、異なる主体が作成した文書を組み合わせた複合的文書であり、それを一つの統一的な手続に限定して解釈する必要は始めから存在しない。「辞」、「詰」と「鞫」が同じく取調べとそれに対する供述を指すにしても、現代における警察官や検察官による取調べと裁判官による審理が制度上全く異質な手続を構成するのと同様に、獄吏の訊問と県令などの「鞫」も、内容的に多くの重複が存在するにせよ、同日の論ではなかろう。つまり、獄吏などによる事前取調べとは違って、「鞫」は、県令や県丞、論断の権限を有する長官と副長官[10]による取調べを指す。喩えて言えば、それを現代の法廷審理のように理解することができよう[11]
相異なる主体によって繰り返し取り調べが行われることは、里耶秦簡によっても裏付けられる。例えば、J1⑧1556正は、上端が黒く塗りつぶされ、表題簡の一種と思われるが、そこには、次のような表題が記されている。
※史象已訊獄束,十六。已具断簡記号
史象が訊問を行った刑事事案の書類が一つの束に束ねられ、この表題簡をつけて保管されたと思われる[12]が、史象は獄史であったと推測される。こうした獄史によって行われた取り調べの記録として、何有祖によって復元された次の記録が取り上げられよう[13]
卂(訊)敬:令曰:諸有吏治已決而更治者,其罪節重若断簡記号 (J1⑧1832+J1⑧1418)
益輕,吏前治者皆當以縱、不直論。今甾等當贖 (J1⑧1133)
耐,是即敬等縱弗論殹。何故不以縱論【敬】 (J1⑧1132正)
等?何解?辤(辭)曰:敬等鞫獄弗能審,誤不當律。 (J1⑧0314)
甾等非故縱弗論殹(也)。它如劾。 (J1⑧1107)
[14] (J1⑧1132背)
数枚の01型の簡牘にわたって訊問の記録が書写されているが、形状・書式とも、小文が問題にする鞫書とは顕著な差異を示す。
以上のように、獄史等による訊問[15]と県長官による訊問とが併存することは、もはや疑う余地がないが、鞫書に、訊問と鞫とが両面に区別して記されることについては、さらに説明が求められよう。筆者にはそれはいわゆる「劾状」と同様に理解できるように思われる。「劾状」の一例は、概ね次の通り整理することができる[16]
劾状の文書構造表
迺今月三日壬寅,居延常安亭長王閎、子男同、攻虜亭燧長趙E.P.T68:59常及客民趙閎、范翕一等五人俱亡。皆共盜官兵,E.P.T68:60臧千錢以上,帶E.P.T68:61刀劍及鈹各一,又各持錐、小尺白刀、箴各一,蘭越甲渠當E.P.T68:62曲燧塞,從河水中天田出。○案:常等持禁物,E.P.T68:63蘭越塞于邊關儌。逐捕未得。它案驗未竟。E.P.T68:64●狀辭曰:公乘,居延中宿里,年五十一歳,姓陳氏。E.P.T68:68今年正月中,府補業守候長,署不侵部,主領吏E.P.T68:69迹 候、備寇虜盜賊爲職。迺今月三日壬寅,居延常安亭長E.P.T68:70王閎、閎子男同、攻虜亭長趙常及客民趙閎、范翕等E.P.T68:71五人倶亡。 皆共盜官兵,臧千錢以上,帶大刀劍及鈹各一,E.P.T68:72又各持錐、小尺白刀、箴各一,蘭越甲渠當曲燧塞,從河E.P.T68:73水中天田出。案:常等持禁物,蘭越塞E.P.T68:74于邊關儌。逐捕未得。它案驗未竟。以此E.P.T68:75知而劾,無長吏使劾者。狀具此。E.P.T68:76建武六年三月庚子朔甲辰,不侵守候長業敢E.P.T68:54言之: 謹移劾狀一編。敢言之。E.P.T68:55三月己酉,甲渠守候 移〈移〉居延。寫移。如律令。/掾譚、令史嘉。E.P.T68:56
建武六年三月甲辰には、不侵守候長業が「移劾狀一編」を甲渠候官に送付し、三月己酉には、甲渠守候がそれを居延県に転送する。類似事例では、「移劾狀一編」を「移劾﹦(劾、劾)狀一編」(E.P.T68:13)に作っているため、不侵守候長業が甲渠候官に送った書類「一編」が「劾」と「(劾)状」という二つの記録から構成されることが判明している。実際に、関連する簡牘には、犯罪事実と按語は二重に書写されており、その一方が、「●狀辭曰」という書き出しと不侵守候長業の履歴に続けて記されているのに対し、もう一方は、書写が他の簡牘に続かず、犯罪事実と按語だけで一つの完結した記録を構成している。前者が「(劾)状」なのに対し、後者は「劾」である。「(劾)状」には、さらに「以此知而劾,無長吏使劾者」という一文が加えられており、それが「劾」に至った状況を述べたものとして、恐らく「(劾)状」の主文を成していると推測される。つまり、不侵守候長業が「長吏」等から指図を受けずに自主的に犯罪事実に基づいて「劾」を行ったことを証明するために、「劾」とほぼ同文の「(劾)状」が附せられていると考えられる。
では、「劾状」に倣って、「鞫書」を解釈すると、一行書きの面には、県長官が行った訊問の正式な記録が、二行書きの面には、訊問が行われた状況が書写されたと理解することができる。その意味では、前者のみが、狭義の「鞫書」、つまり「鞫」の記録であるのに対し、後者は、「劾状」との類似から、「鞫状」と名付けることができる。簡牘の正背、つまり表と裏は、整理者の考えと正反対に、「鞫書」の面が表で、「鞫状」は裏面としなければならない。「劾状」の場合と同様に、「鞫書」と「鞫状」には、内容が極めて近い成分がある一方、「鞫状」には、「鞫書」に見られない附加情報が加えられている。つまり、被告の供述は、両者に共通している[17]のに対し、「鞫状」には、さらに年月日と訊問の主宰者が明記される。興味深いことに、J1⑧1743+J1⑧2015正には、長官と副長官の拔と敦狐が被告の般芻等を訊問した状況は、「詣訊」と描写される。「詣」は、「いたる」と訓ぜられようが、まざまざと長官が臨席して取り調べを行った有様が強調されるように思われる。
要するに、「鞫」とは、獄吏による事前取調べと対蹠的に、断獄の権限を有する長官もしくは副長官による訊問もしくは審理を指しており、それを記録した「鞫書」には、表に訊問の内容を伝える正式な記録が、裏に訊問の状況を描く「鞫状」が記されている。

編集者注記:2014年03月24日入稿

[1] 注記しない限り、里耶秦簡の釈文や綴合は、湖南省文物考古研究所編『里耶秦簡〔壹〕』(文物出版社、2012年)と陳偉主編『里耶秦簡牘校釈(第一巻)』(武漢大学出版社、2012年)を参照した。
[2] この記録への筆者の注意を喚起したのは、籾山明「簡牘文書学と法制史——里耶秦簡を例として」(近刊)である。公表に先立って閲覧を許されたことに謹んで感謝の意を表したい。
[3] この一例は、湖南省文物考古研究所編『里耶発掘報告書』(岳麓書社、2006年〕に見える。
[4] 簡牘の形状分類は、高村武幸「中国古代簡牘分類試論」(木簡研究第34号、2012年)による。
[5] J1⑧1743+J1⑧2015の場合は、一部の被告の逃亡や死亡が記されており、『奏讞書』から知られる鞫書の文例とは異なる。
[6] 張家山漢簡『奏讞書』および『二年律令』の釈文は、張家山二四七号漢墓竹簡整理小組『張家山漢墓竹簡』(文物出版社、北京、二〇〇一年)と彭浩、陳偉、工藤元男主編『二年律令与奏讞書——張家山二四七号漢墓出土法律文献釈読』(上海古籍出版社、上海、二〇〇七年)を参照した。
[7] 具体的記述は著者によって微妙に異なるが、大同小異のように思われる。池田雄一「江陵張家山『奏讞書』について」(『堀敏一先生古稀記念中国古代の国家と民衆』、1995)は、「治獄者による事実関係の確定」(117頁)と言い、また、『爾雅』釈言に見える「窮也」および『漢書』景武昭宣元成功臣表の顔師古注に引く如淳注の「以其辭,決罪也」という二つの訓詁を参照しつつ「治獄者自身による審理全体の総括・確定」(121頁)とも定義する。池田雄一『奏讞書——中国古代の裁判記録——』(刀水書房、2002年)は「事件の総括」(9頁・32頁)と称する。張建国「漢簡『奏讞書』和秦漢刑事訴訟程序初探」(中外法学1997年第2期)は、「審判者による調査の結果」、すなわち「審理を通じて得られた犯罪の過程と事実に対する簡明な総括」(311頁)と解釈する。宮宅潔「秦漢時代の裁判制度——張家山漢簡『奏讞書』より見た」(史林第81巻2号、1998年)は「犯罪事実(の)総括」(56頁)とし、籾山明『中国古代訴訟制度の研究』(京都大学学術出版会、2006年)第二章「秦漢時代の刑事訴訟」68-69頁・80-82頁は、「罪状すなわち犯罪内容(の)確定」とする。万栄『張家山漢簡『奏讞書』集釈与相関問題研究』(武漢大学博士学士論文、2006年)は、「犯罪事実の総括(原文:案情的総括)」(144頁)という。Ulrich Lau und Michael Lüdke「Exemplarische Rechtsfälle vom Beginn der Han-Dynastie: Eine kommentierte Übersetzung des Zouyanshu aus Zhangjiashan/Provinz Hubei」(東京外国語大学、2012年)は「Ergebnis der Tatbestandsaufnahme(構成要件に関わる事実の認定結果)」と翻訳する。
なお、小嶋茂稔「読江陵張家山出土『奏讞書』劄記」(アジア・アフリカ歴史社会研究第2号、1997年)は、「鞫」について比較的慎重な態度をとる。つまり、「鞫」を原文のまま使用し、且つ注47では、「再審請求にも『鞫』字が用いられていることは、案例16までに獲得された「鞫」概念に修正を迫るかの如くである。この点も含めて『奏讞書』における「鞫」の意味については、本稿では検討しきれなかった」と注記している。また、徐世虹主編『中国法政通史第二巻 戦国・秦漢』(法律出版社、1999年)は、張家山漢簡整理小組の『奏讞書』注釈に従い、『尚書正義』呂刑にいう「漢世問罪謂之鞫」に基づいて、鞫を「審理(原文:審訊)」の意味に捉える(181頁)が、「事案審理の後、判決を下し、並びに『読鞫』を行う」という簡単な記述しかなく、他の訊問との関係などについては一切言及しない。
やや特異な見解は、高恒『秦漢簡牘中法制文書輯考』(社會科學文獻出版社、2008年)第18章「漢代訴訟制度論考」に見られる。高恒によれば、「鞫」とは、「裁判官が取り調べ中の事案に対して行う結論」(456頁)であり、奏讞文書に見られる「疑某人罪」や「吏議/当」の記述なども「鞫辞」もしくは「鞫文」の一部とされる(456-457頁)。また、李均明「簡牘所反映的漢代訴訟関係」(文史2002年第3輯)は、「訊鞫」を「当事者や証人に対する訊問や証拠収集と審査を含む事案の審理」と捉え、「鞫」を独立した手続要素と見做さない(67-73頁)。
[8] 池田雄一「漢代の讞制について——江陵張家山『奏𤅊書』の出土によせて」(中央大学文学部史学科紀要第40号、1995)は、27-29頁にかけて、諸種の訓詁を引用しつつ鞫の手続を論じており、その中では、『周礼』秋官小司徒の鄭玄注に見られる「読鞫」に対する孫詒讓『周礼正義』の解釈を、「囚人と衆の双方の反応を確かめてから刑を確定したとしている」と説明しているが、「治獄者による事実関係の確定」という鞫の定義との関係については、言及がない。
また、飯島和俊「《鞫…審》の構図(奏讞書研究)——『封診式』、『奏讞書』による再構築」(中央大学人文科学研究所『アジア史における社会と国家』、中央大学出版部、2005年)は「鞫」に関する専論として幾ばくかのヒントが期待されようが、むしろ、「審」という判断がなされる基準に重点が置かれ、鞫という手続についてほとんど分析が加えられず、通説的な理解が踏襲される。
一方、宮宅潔の前掲論文は、折角「診問」という手続に関する記述の中で「多くの人間が(裁判)に関わ(り)」、「供述聴取がまずこうした分業、分担によって進められる」(56頁)ことに気付きつつも、一つの統一的司法手続への収斂に急なあまり、「診問」までも「事実関係を総括する」手続と捉えてしまった。「診問」において「事件の全体像が総括される」のに対して、「鞫」は、「犯罪事実が総括され」、つまり「律令適用の前提となる行為が如何なるものだったのか確認するという点に目的が絞られている」という。事実の総括をさらに二分化したことにより、中国古代の訴訟像が一層非現実的なものになっていく。
[9] 彭浩「談『奏讞書』中的西漢案例」(文物1993年第8期)では、案例に反映される前漢時代の審理(「審訊」)の手続を、「訊」・「詰」・「診問」・「鞫」・「吏議」・「廷報」というように、奏讞文書の構成要素を短絡させて復元している(34頁)。池田雄一「二二〇〇年前の裁判」(サティア『あるがまま』第21号、1996年)にもとんとん拍子に奏讞文書の構成要素を繋げて「秦代の裁判を復元して」いる段落がある(27頁)。その中では、「鞫」は、判決のための確定調書と説明される。
また、万栄前掲博士論文は、多くの訓詁学的根拠を挙げて「窮究」すなわち「審問」を原義としつつも、わざわざ「『奏讞書』の「鞫之」文書の分析に基づいて」と断り、「『鞫』は訊問が既に終結した段階で、訊問者が、犯罪過程と事実を含めて犯罪事実全般について簡単な総括を行うことである」という定義を行う。高恒前掲書も、『奏讞書』における「鞫」の記載に基づいて、旧来の訓詁学的史料とは違った知見が得られたことを強調する。
興味深いことに、前掲籾山書の第二章「秦漢時代の刑事訴訟」は、籾山明「秦の裁判制度の復元」(林巳奈夫『戦国時代出土文物の研究』、京都大学人文科学研究所、1985年)に基づくが、『奏讞書』の釈文が公表される以前に書かれた1985年の論文には、まだ罪状確定説を連想させる記述は見られない。
一方、李均明前掲論文は、『史記』酷吏伝もしくは『漢書』張湯伝に由来する「訊鞫」概念を中心に据えて、西北出土文書類漢簡と睡虎地秦簡『封診式』に見られる「爰書」史料によってその有様を復元するところに力点が置かれている。李均明は、張家山漢簡整理小組に身を置きつつも、その古代訴訟像はあまり『奏讞書』の影響を感じさせない。
[10] 県レベルで断獄の権限が県令・県丞に限定されることは、『二年律令』簡102の次の規定から分かる。
縣道官守丞毋得斷獄及𤅊(讞)。相國、御史及二千石官所置守叚(假)吏,若丞缺令一尉爲守丞,皆得斷獄𤅊(讞)┓(。)獄
縣道官の守丞は、獄を斷じ及び讞するを得るなかれ。相國、御史及び二千石官の置く所の守・假の吏、若しくは丞缺けて一尉に令して守丞と爲すは、皆な獄を斷じ及び讞するを得。獄
なお、簡末の「獄」字の前には、「┓」があり、誤写がなければ、「讞」と「獄」の二字を続けて「讞獄」と読むことはできない。その場合には、獄の下に文章が続き、この簡を他の簡と接続する必要が生じる。逆に「┓」が誤写に係るならば、簡の前半の「讞」の後ろに「獄」の一字が脱落していると推測される。
[11] 拙稿「試探“断獄”、“聴訟”与“訴訟”之別——以漢代文書資料為中心」(張中秋編『理性与智慧:中国法律伝統再探討——中国法律史学会2007年国際学術研討会文集』、中国政法大学出版社、北京、2008年)および拙稿「張家山漢簡《奏讞書》吏議札記」(華東政法大学法律古籍整理研究所編『第二届「出土文献与法律史研究」学術研討会論文集』、2012年12月)を参照されたい。
[12] 表題簡と付札については、籾山明「簡牘文書学と法制史——里耶秦簡を例として」(前掲)において、形状と使用方法にわたり極めて説得的な形で斬新な見解が展開される。
[13] 何有祖「里耶秦簡牘綴合(八則)」(簡帛網)。
[14] 何有祖によれば、「贖」字は、表題の一種であろう。
[15] 次のJ1⑧0877の記述から明らかなように、獄史のほか、獄佐による訊問等も存在した。
六月乙丑,獄佐瞫訊戌,戌私留苑中。
[16] 冊書の復元は、主として鷹取祐司「居延漢簡劾狀關係冊書の復原」(史林第79卷第5號、1996年)と「漢代の裁判手續き「劾」について——居延漢簡「劾狀」の分析から」(中國出土資料研究第7輯、2003年)を参照した。また、次の論考にも、この「劾状」に関する議論がなされている。李均明「居延漢簡訴訟文書二種」(『中國法律史國際學術討論會論文集』,陝西人民出版社,1990。後に李均明『初學錄』(蘭臺出版社、1999年)に収録)、角谷常子「漢代居延における軍政系統と縣との關わりについて」(史林第76卷第1號、1993年)、徐世虹「官劾制管窺」(『簡帛研究第2輯』、1996年)、佐原康夫「居延漢簡に見える官吏の處罰」(東洋史研究第56卷第3號、1997年)、高恒「漢簡牘中所見舉、劾、案驗文書輯釋」(『簡帛研究二〇〇』、廣西師範大學出版社、2001年。後に高恒『秦漢簡牘中法制文書輯考』(社會科學文獻出版社、2008年)に収録)、宮宅潔「“劾”小考——中國古代訴訟制度の展開」(神女大史學第18號、2001年。後に宮宅潔『中國古代刑制史の研究』(京都大學學術出版會、2010年)に収録)。
関連する簡牘にはさらに次の二枚がある。
劾状の附記
建武六年三月庚子朔甲辰,不侵守候長業劾。移E.P.T68:57居延獄,以律令從事。E.P.T68:58
鷹取祐司などはそれを一つの文書と理解するが、「劾」の主体が不侵守候長業なのに対し、「移」の主体が甲渠守候であるほか、「以律令從事」も不侵守候長業の居延県に対する指示としては不自然である。これは、甲渠候官における保管用の表題と、甲渠守候が居延に通知して律令の通り処理させた事実を記した附記であろう。詳しくは、拙稿「《嶽麓書院藏秦簡(叁)》標題語境中“狀”字字解訂正——試談秦代文官參考書類“狀”與“式”」(近刊)を参照されたい。
[17] J1⑧1743+J1⑧2015では、例外的に、供述が「辭各如前」と略記される。被告が多数いたため、供述は「鞫書」の背面に収まらなかったのであろう。「前」とは、獄史等による訊問を指すと考えられる。

補注
[補1]「鞫」はもと誤って「鞠(鞫)」に作っていたが、復旦大学出土文献与古文字学研究中心の施謝捷教授のご教示に基づき訂正した。施先生に感謝の意を表したい。(2014年4月22日)