日本学術振興会 人文・社会科学振興プロジェクト研究事業
領域II - (1) 平和構築に向けた知の展開

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帯谷知可(おびや・ちか)
1991年東京大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻博士課程中退。
現在、国立民族学博物館地域研究企画交流センター助教授。
主要業績:
『スラブ・ユーラシア世界における国家とエスニシティII』(共編著、国立民族学博物館地域研究企画交流センター、2003年。)
Komatsu, H., Obiya, C., Schoeberlein, J. S.,Migration in Central Asia: Its History and Current Problems(JCAS Symposium Series No. 9), Osaka: The Japan Center for Area Studies, National Museum of Ethnology, 2000.
「ロシア革命期の中央アジアにおける『トルキスタン』の政治的領域をめぐって」(黒田卓・高倉浩樹・塩谷昌史編『中央ユーラシアにおける民族文化と歴史像』(東北アジア研究センター叢書第13号)東北大学東北アジア研究センター、2003年。)


  帯谷と申します。どうぞよろしくお願いいたします。私は主に旧ソ連の中央アジア、とりわけウズベキスタンを中心に近現代史などをやっておりますが、今日は最近考えていることと、「人間の安全保障」という問題を何とか結びつけてお話しできればと思っています。

 今日お話ししたいトピックですが、先ほど松里先生から、ソ連が解体した後、旧ソ連圏でたくさんの独立国が一気にできて、新しい国境が生まれたというお話がありました。旧ソ連中央アジア、つまり、カザフスタン、ウズベキスタン、クルグズスタン、タジキスタン、トルクメニスタンの5カ国の間でも、近年、国境の存在感はますます大きく立ち現れてきました。ソ連解体後、これら新しい国民国家の安全保障がそれぞれに追求される中で、逆にその国々に住む人々に様々なかたちの不便や不足、場合によっては危険が生じているという側面があるのではないかということを最近とみに感じています。やや雑駁にはなりますが、今日はこうした視点からお話させていただきたいと思います。
  中央アジア諸国は、ロシアの南方、アフガニスタンの北方、内陸中の内陸に位置しています。例えば、ウズベキスタン、クルグズスタン、タジキスタンにまたがるフェルガナ地方などを見てみますと、非常に複雑に国境線が錯綜しているのがおわかりいただけるかと思います。

 この国境線は、ロシア革命が中央アジアに波及した後、ソ連の民族理論を反映させたかたちで中央アジアを民族別に再編成するために行われた、中央アジア民族別国境画定によって引かれたものです。いま中央アジア5カ国の国名にはそれぞれ民族の名前が付いていますが、国の名前に冠されている民族がソ連における「民族」として認定され、固有の領域を得て、その領域で民族的な自治を実現させる。そしてそのもとで社会主義建設を行っていくというのが当時の理念でした。

 この国境線が引かれたのは1924〜25年です。ソ連時代の、民族名のあとにソビエト社会主義共和国という名称が続く国家が、本当の意味での国家だったかどうかはまた別の議論があるところだと思いますが、少なくとも近代的な意味での枠組みとして民族と国家が設定されてから、すでに80年弱の月日が流れていることになります。歴史的に見れば中央アジア諸国の民族は兄弟民族とも呼べるような関係だという側面がありますし、あるいは20世紀初頭を例にとれば、民族別に分かれるのではなく、トルキスタンというようなもう少し大きな枠組みで中央アジアの政治的統合を果たそうとした運動もありました。しかし、民族別国境画定後、ソ連時代を通じて、共和国を単位として、それぞれが別個の民族であり、別個の伝統、歴史、文化を持つことが強調され、多くの場合共和国史のかたちで民族史が書かれてきたのです。

 ところが中央アジア諸国が独立すると、国境線が引かれた当初のソ連的な理念はどこか後ろのほうへ押しやられてしまって、現在の国境線も、民族も、それぞれの国の存在も、自明の前提として、まったく既成のものとして前面に出てくることになりました。ソ連時代の民族理論、民族政策を引き継いだ結果、現在の原型ともいえる民族と国家が誕生したことにはあまり注意が向けられずに、あたかも太古からその領域をもち、それぞれの民族の国として存在してきたかのような側面が、歴史叙述や様々な言説の中で強調されるようになりました。こうした語り自体が実はソ連史学の遺産なのですが、ともあれ中央アジア諸国では、独立以降、それぞれ温度差はあるにせよ、こうした状況は各国であったと思います。

 ウズベキスタンを例にとると、独立後、とかく独自路線を追求し、中央アジア諸国の間においても自らを差異化しようとするような傾向がかなり強かったと言えます。独立後の新しいナショナリズムが政治、経済、外交、文化など、様々な分野にかなり強く作用してきたと思います。さらに、ウズベキスタンでは、いわゆるイスラム過激派の活動が国境を越えて活性化したことも絡んで、ますます国境の問題が立ち現れてきているという感じを、私は漠然と持っていました。

 さて、私の所属先で発行している『地域研究論集』の5巻1号(2003年2月)で、「9.11事件から1年」という特集が組まれ、そこにタジキスタンの研究者に寄稿していただいた論文が私の訳で掲載されています。その中に9.11事件が起こったあとの1年間に大きな問題になってきたこととして、国境統制の厳格化があげられています。著者は、次のように述べています。「ソ連解体後の中央アジアにおける独立国家群の誕生と国境の明確化は、幾世紀にもわたって分かたれることのなかった地域を分割し、歴史的に生成された経済的、文化的、政治的人間関係を分断してしまった」と。

 私はこれを訳す作業の最中、この箇所を読んだときに、かなりハッとしました。私自身、中央アジアの民族別国境画定というプロセス自体に非常に関心があって、少し勉強していたのですが、そういった立場からすると、現在の民族と国家の原型は1924〜25年にできあがったということがまず頭にあったわけです。しかし、ソ連時代を実際に中央アジアで生きてきたタジキスタン人が、中央アジアという分かたれたことのなかった地域が、ソ連の解体によって分かたれてしまったという意識を実感として持っていたことがショックでした。そういったことから、これがきっかけになって、国境が人々の前にいかに立ち現れているかということを少し気をつけて見るようになりました。そこで今日は、そういったいくつかの事例をご紹介しようと思います。

 ソ連時代に人々がどれほど移動の自由を持っていたかは別の問題だと思いますが、少なくとも一定の手続きを踏んでいれば共和国間の国境通過は、大きな問題ではなかったでしょう。通常、共和国と共和国の間には両共和国の友好の碑というようなシンボルがあり、検問などもなくその前を通過するということだったと思います。

 ウズベキスタンでは1990年代後半からイスラム過激派の運動が先鋭化したことと関連して、国境警備が極度に強化されました。最も警戒されたのは、クルグズスタンで日本人人質事件を起こしたことでも知られる、ウズベキスタン・イスラーム運動(IMU)という組織です。もともとこの運動のリーダーたちはフェルガナ地方のナマンガン出身で、彼らのグループが1990年代初めに現在のウズベキスタン政権と鋭く対立し、結果的にはウズベキスタン領内では活動ができなくなったという背景があります。隣接するタジキスタンやアフガニスタンといった内戦状態の地域で次第に軍備強化し、IMU自体はアフガニスタンで結成されました。このIMUが現政権打倒をめざして帰還してくることをウズベキスタンは非常に恐れていたのです。そのためにウズベキスタンが行った国境警備強化は近隣諸国との同意を必ずしも経ない、かなり一方的なものだったようです。ウズベキスタンは各共和国との国境地点に非常にものものしい検問所をつくり、一定の国以外は査証取得を義務づけました。国境で荷物の検査、パスポートの検査などが厳重に行われるようになり、長い行列ができるというのは、1990年代末ごろから観察されるようになった光景でした。

 先ほど言及したタジキスタンの研究者があげている事例では、特にフェルガナ地方では、IMUのウズベキスタン帰還を懸念して、ウズベキスタン側は国境地帯に地雷を設置しました。国境周辺のタジキスタン側の住民は地雷設置を知らず、誤って地雷を踏む事件が続発、子供や老人、女性、国境警備隊員も含めて、2002年段階の数字で、53人の犠牲が出たということです。それによって一時、両国の関係までもが非常に先鋭化したと述べられています。のちにソ連時代から未画定のまま曖昧に残されていた部分の国境を明確化する交渉が両国間で行われたそうですが、この論文が書かれた時点では、地雷撤去までには至りそうもないという懸念が示されていました。

 これは国境警備の強化によって国境周辺の人々の生命が危険にさらされたという、やや極端な例であったかもしれません。しかし、ある国家が自国の安全保障を極端に前面に出すと、それが、隣国との対立につながるだけでなく、ウズベキスタンの例でいえば、ウズベキスタンという国家が本来なら国家が守るべき国境周辺に住むウズベキスタン国民をもいたずらに危険にさらしてしまう、という事態をも生みかねないことを示唆する例です。この場合、国家の安全保障を優先するあまり、国境周辺に住む人々の安全への配慮が決定的に欠けていたといわざるをえないでしょう。

 もう少し日常的な事例をあげると、中央アジアでは国境線をまたいで同じエスニック集団の人々が存在しますし、親族のネットワークや人々の生活圏も形成されています。ソ連時代には共和国国境はあるけれども、そこには事実上何もなかったわけで、国境近辺の人々はある程度の日常的な往来はできていました。国境の強化はこうした日常的な往来にも思わぬ波紋を投げかけています。たとえば国境地域の住民には査証が免除されて日常的な往来は保障されているのですが、その際パスポートに1回ずつ出入国スタンプが押されます。これはインターネットのニュースで配信された例ですが、日常的に往来を続けると、あっという間にパスポートがスタンプでいっぱいになって、ページがなくなります。ページがなくなると、パスポートの増ページや再発行が必要になりますが、そのために月収の何倍もの料金がかかります。国境周辺に住む人々にとっては、パスポート業務を行う町の役所に行くのも費用と時間がかかり、大変です。しかも先ほどの松里先生のお話にもあったことですが、パスポートの再発行あるいは増ページなどの便宜をすみやかに図ってもらうために、役所でワイロを払わざるを得ないこともしばしばです。このような多大な不便が国境周辺の人々に生じているのです。同時に、パスポート業務を担当する役所や国境検問所に勤務する人々のモラル低下も問題になっています。

 もう一つの事例としては、ウズベキスタンの首都タシュケントと第二の都市サマルカンドを結ぶ幹線道路をあげてみましょう。有料道路ではありませんが、機能からいえば日本の東名高速のようなものです。この道路の一部はカザフスタン領になっています。これまで検問所や税関はあっても問題なく通行できていたのですが、2002年後半から2003年はじめ頃にこのカザフスタン領の部分が完全に封鎖されてしまいました。言ってみれば、東名高速の真ん中が封鎖されているような状況です。これにはウズベキスタンへのカザフスタン製品の大量流入を遮断する目的があったようです。首都と第二の都市を結ぶ幹線道路ですから、常時盛んな往来がありますが、カザフスタン領の通行を避けるため、本来の道路を30キロほども迂回した後に元の道路に戻ります。迂回路は畑の間の1車線ずつしかないような道で、そこを大型トラックが絶え間なく通るという状況になっています。

 いくつか例をあげましたが、国境がますます目に見えるかたちで、「壁」として人々の前に立ち現れ、それが様々な不便、不足、危険をもたらしている状況の一端がおわかりいただけたかと思います。

 さて、こういった状況に対して地域研究者として何ができるのでしょうか。私自身も、文書館や図書館で史資料を読むような地味な仕事をメインにやっている研究者ですが、そうした仕事をしながらも、現地の人々の声に耳を傾ける姿勢、その声が事実であるかどうかをチェックする姿勢、そしていろいろなチャンネルを使ってそれを何とか発信する姿勢を持つことがささやかな貢献になるのではないでしょうか。地域研究者の現地へのコミットメントや実践については最近常に問われているところですが、こうした地味な発信を続けることもある種のコミットメントになりうるのではないかと思います。

 

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