0. はじめに:新しい試み 詳細
本研修では,AA研の言語研修として初めて手話言語を取り上げることとなった。 手話の学習に適した映像教材を準備すること,ろう者の講師を複数招聘すること, ろう者の受講生を受け入れること,手話通訳者を手配することなど,いくつもの新しい課題に取り組んだ。 各位のご協力により本研修が円滑に行われたことに感謝するとともに,手話関連事業の一事例として今後の 参考になればと願っている。
1. 期間と時間 詳細
フランス語圏アフリカ手話(以下,LSAFと表記)の研修は,2008年8月4日〜同9月5日の土日を除く毎日, 25日間にわたって行われた。毎日4時間の講義が行われ(9:50-12:00および13:00-15:10, 金曜日のみ10:50-11:50および12:50-16:10),総研修時間は100時間である。
2. 講師・スタッフ(敬称略) 詳細
- 2-1. 研修担当講師
- [主任講師] 亀井伸孝(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所)
- [外国人講師] エブナ・エトゥンディ・アンリ(カメルーンろう者キリスト教協会)
- 2-2. 文化講演講師
- 永井弓子
- 宮本律子(秋田大学)
- ニクソン・カキリ(Voluntary Service Overseas)
- 加藤嘉文(和歌山県立みくまの支援学校)
- 2-3. 手話通訳者
- 文化講演の開催時(計4回)に,5名の手話通訳者の方がた(日本手話-日本語通訳者3名, アメリカ手話-日本手話通訳者2名)のご助力をいただいた。
3. 教材 詳細
- 3-1. 教科書
- この研修のために,『On va signer en Langue des Signes d'Afrique Francophone!』(亀井伸孝, 2008)を執筆した。 日本の聴者の学生がカメルーンのろう者コミュニティを訪れて見聞を広めるというストーリーに沿って, LSAFの基本を学ぶテキストである。全20課,100ページの本書は,会話スキットのほか,文法,練習問題, アフリカろう文化のコラム,地図などで構成されている。また,手話を学ぶ上での心がまえや, 今回考案された手話の表記法の解説を盛り込むなど,手話言語ならではの工夫を凝らした。
- 3-2. DVD
- カメルーン(フランス語圏)現地で撮影された映像に基づく『DVD : Langue des Signes d'Afrique Francophone』 (編集: 亀井伸孝; デザイン: 青木悠一, 2008)を制作した。日仏の2言語を併用し,合計約3,300件(総時間約7時間40分) の動画を収録した本DVDは,手話辞典のほか,会話表現,文法,テキストの会話スキット, 自然な会話などを含む総合的な学習教材である。
- 3-3. 授業内配布資料
- 「手話銀行 (Banque des signes)」: 毎日新しい手話の語を暗記するための語彙のリスト,約650語。
- 「写真で学ぶアフリカ(Photo)」: 文化関連語彙・表現を学ぶためのアフリカの写真,180枚。
「最良の教材は授業終了時に完成する」と言えるかもしれない。 受講生たちの日々の鋭い質問の洗礼を受け,教材がまさに練り上げられていくという体験をした。 いずれ教科書やDVDの改訂版などの形で,この成果を還元できればと考えている。
4. 受講生 詳細
登録者は10名で,学部学生から還暦をこえた市民まで,さまざまな年齢層・職種の人が集まった。 動機として多くに共通していたのが,(1) 日本手話,アメリカ手話,フランス手話,ケニア手話など, 何らかの手話言語を経験したことがあり,(2) さらにレパートリーを増やして異文化への視野を広げたい, という傾向であった。手話に初めて触れる人が2名,LSAFと関わりの深いフランス語の未習者が2名おり, 一方でアメリカ手話通訳やフランス留学の経験者もいるなかで,進度のバランスをどのようにとるかがつねに課題であった。 しかし,少人数制講義での目配りや,受講生どうしの相互配慮なども功を奏し,1人のこらず高い学習効果を上げた。 10人全員のサインネーム(手話のニックネーム)を定め,授業の中でも外でもそれで呼び合う慣習ができ, たいへん仲のよいアットホームなクラスになったことを講師として喜んでいる。平均95.6%の高い出席率をもって閉講し, 全員が修了証を受け取った。 なお,受講生のなかにろう者が含まれていたことは特記されるべきであろう。本研修事業が耳の聞こえない市民に対して 開かれていくための,ひとつのモデルケースとなったと考えられる。このことを予期して,広報段階から 「授業の使用言語は日本語と日本手話」と明記し,申込み時点で,応募者がろう者か聴者か, 使用言語は日本語か日本手話かなどの質問を盛り込んだアンケートを行った。 これは,事前準備を進めるうえでたいへん有益であったため,今後の研修においても参考になるものと思う。
5. 会場 詳細
原則として,AA研3階マルチメディアセミナー室(306)を用いた。 8月11-13日の全学閉館期間のみ府中市生涯学習センターを, 8月22日の公開文化講演のみマルチメディア会議室(304)を用いた。 また,個別面談形式で手話表出試験を行うため,試験日のみ306の隣の調整室(305)を用いた。
6. 授業 詳細
原則として,毎日の授業(4時間)を,「復習」「文法」「語彙・文化」「会話」と割り振り, 金曜日に週のまとめの試験を行うという形式をとった。以下,概要を記す。
- 6-1. 文法(おもに亀井担当)
- LSAFの文法は,今回の研修の教材作成の過程で初めて記載された。フランス語文法の用語を借用して作成された テキストに沿って,主要な文型,疑問詞,形容詞,副詞,時制,関係代名詞,話法など,日常手話会話の中で必要と 思われる項目を,全20課に分けて学んだ。 LSAFの文法の記載は研究途上にあり,今回の研修を通して明らかになった事項については,改訂版などの形で還元したい。
- 6-2. 語彙(おもにエブナ担当)
- 毎日午後は「手話銀行」という単語丸暗記のコーナーを設けた。「動物」「数」「国名」「形容詞」などのテーマを決め, 毎日20-30個の語を覚えるというもので,その数は650語に達した。 テキストなどで学んだ語彙とあわせ,受講生が身につけた語は1,000語ほどにおよんだであろうと考えられる。
- 6-3. 文化=読解(おもにエブナ担当)
- 毎日「写真で学ぶアフリカ」というコーナーを設け,手話読解の訓練をした。カメルーンの写真を見ながら, ネイティブ講師の手話による解説をしっかりと見て理解しようというものである。これには, あわせてアフリカの食文化や固有名詞の語彙を学ぶねらいもある。受講生たちの手話読解力は,最終的に, 2時間のろう者の手話での講演を通訳なしで理解できるレベルに達した。
- 6-4. 会話(エブナ・亀井共同担当)
- 毎日,その日に習った文法,語彙,文化の知識を用いて,2人1組での会話練習を行った。 やがて,各班が寸劇を創作して披露するということが日課となり,必ずギャグを仕込む受講生たちのノリのよさに いつも笑わせていただいた。最終的には,各5人からなるふたつの班による卒業制作演劇として結実し, 流暢なLSAFにより演じられた2幕の演劇は,全員の確かな達成ぶりを示すものであった。
- 6-5. 試験(エブナ・亀井共同担当)
- 毎週金曜日は試験日とし,計5回実施した。指文字読解,手話の語の読解,手話の文の読解, そして手話表出の4つの分野を中心に,毎週の新出語彙や文法事項の理解度を見た。読解試験は記述式で行い, 手話表出試験のみ別室における個別面接形式を用いた。あわせて授業評価・意見聴取の機会をもった。
7. 文化講演 詳細
アフリカの手話の世界」を統一テーマとし,4人の外部講師による4回の講演,ならびに2人の研修担当講師による 2回の講演を企画した。外部講師には,研修担当講師らの専門(中部・西アフリカ)以外の地域の広い話題を を得た。
- 1. 2008年8月8日(金)「北アフリカに住むろう者と触れ合って: モロッコ・チュニジア・エジプトのろう文化」
- 講師: 永井弓子(ろう者)
- 講演言語: 日本手話(音声日本語への通訳を用意)
- 2. 2008年8月15日(金)「東アフリカ3カ国(ウガンダ・ケニア・タンザニア)のろうコミュニティと手話教育」
- 講師: 宮本律子(秋田大学,聴者)
- 講演言語: 音声日本語(日本手話への通訳を用意)
- 3. 2008年8月22日(金)「ケニアのろう者コミュニティでろう者とともに働く」(公開開催)
- 講師: ニクソン・カキリ(Voluntary Service Overseas,ケニアのろう者)
- 講演言語: アメリカ手話(日本手話および音声日本語への通訳を用意)
- 4. 2008年8月29日(金)「ザンビア聴覚障がい児者の実態: 青年海外協力隊活動を通して」
- 講師: 加藤嘉文(和歌山県立みくまの支援学校,ろう者)
- 講演言語: 日本手話・日本語(音声日本語への通訳を用意)
- 5. 2008年9月2日(火)「西・中部アフリカろう文化紀行: カメルーン,ガボン,ベナン,ガーナ,ナイジェリア」
- 講師: 亀井伸孝(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所,聴者)
- 講演言語: フランス語圏アフリカ手話(通訳なし)
- 6. 2008年9月5日(金)「わが国カメルーンとろう者コミュニティ」
- 講師: エブナ・エトゥンディ・アンリ(カメルーンろう者キリスト教協会,カメルーンのろう者)
- 講演言語: フランス語圏アフリカ手話(通訳なし)
8. 研修の成果と課題 詳細
10人の受講生全員が,十分な読解と表現のスキルを身につけて修了したことが,何よりの成果であろう。 また,初めてLSAFのDVD動画辞典と文法書が完成したことも,研究上の大きな達成である。
あわせて,大学の研究・教育の中で外国の手話言語をあつかうことが可能であることを示し, 実際にその関連作業のノウハウを蓄積したことが,大きな成果として残ったものと思われる。この事業において, ろう者たちの果たした役割の大きさは特筆すべきであろう。初めてろう者の講師が本研究所に長期間滞在して 講師の重責を担い,また,文化講演の外部講師4人のうち3人はろう者であった。手話話者であるろう者の講師や 受講生を受け入れることにより,大学・研究所はいっそうその機能と魅力を増すことができるというひとつの 好事例となったのではないだろうか。
このほか,一般社会啓発への寄与について触れたい。開講前に2回,開講中に2回の計4回の新聞取材を受け, 7件の新聞報道がなされた。このことは,AA研の広報に寄与しただけでなく,大学が本格的な事業として取り組むに 値する言語として手話が注目されたことでもあり,手話に対する一般の認知を新たにする効果をも伴ったものと思われる。
課題として,「通学定期券を購入したい」「短期集中,あるいは夜間の開講は可能か」などの希望や問い合わせがあった。 また,応募希望者からのFAQ(よくある質問)をすみやかにウェブサイトにあげていくなど, 広報面でもいくつかの工夫の余地はありそうである。これらは,受講者層のすそ野を広げるために, 長期的な課題として検討に値するであろう。
主任講師たる私の率直な要望としては,外国人ろう者講師招聘に伴う日々の手話通訳や, DVD制作のための映像編集作業が,とりわけ重労働であった。必要に応じて柔軟に,手話通訳者や映像関連の 専門家の応援を頼めるなどのサポート態勢について検討すればよかったと思う。 教育の質をいっそう高めるためにも,主任講師の負担を多少分散させるシステム作りに取り組んでもよいかもしれない。
9. おわりに:総合格闘技としての言語研修 詳細
教材作成を含むこの1年を振り返って,言語研修は楽しいながらも,実に激しい濃密な時間の連続であった。 私はその経験を,「言語研修とは総合格闘技である」ということばにまとめたい。
「主任講師」と言っても,少なくとも授業担当講師のほか,言語調査者,ビデオ編集者,辞典編者,教科書著者, 手話通訳者,翻訳者,イベントコーディネータ,通訳コーディネータ,広報担当者,外国人講師お世話係を業務として兼ねていた 。時には,受講生の要望や行事運営の状況に応じて,カメラマン,進路相談員,宴会幹事,会場設営者,司会,基調報告者, 印刷屋さん,清掃員を兼ねることもあった。およそ大学の知的活動に関わるすべての業務が凝縮されているこの事業は, まさしく「総合格闘技」の名にふさわしい。
少数言語である手話とLSAFの存在を十二分に世に示しきろうと,研究者としての存在証明をかけて身を投じた この「言語研修」という総合格闘技であったが,それにしても,共同講師1名と受講生10名という同志を得たこの闘いは, 何ともさわやかな結末を迎えることができた。この成果と課題を引き継ぐ形で,アジア・アフリカのさまざまな手話言語が 日本の語学教育のなかに浸透していくことを願ってやまないし,そのためのノウハウはぜひ提供していきたいと思う。
最後に,お力添えをたまわった多くの方がたに謝意を表したいが,とりわけこの期間をともに格闘した共同講師 エブナ・エトゥンディ・アンリ君,10人の受講生のみなさん,AA研所長の大塚和夫先生,研修専門委員会委員長の 稗田乃先生ほか教員各位,DVD共同制作者である青木悠一さん,事務の滝澤未希子さん,高坂香さんほか職員各位, 文化講演の企画段階からご助言・ご助力をいただいた秋田大学の宮本律子先生に厚くお礼を申し上げたい。 そして,カメルーン現地での手話収録モデルでありながらDVDの完成を見ずに天に召された故ンヴェ・フィリップ君の魂に, この終了を報告したいと思う。
/merci/beaucoup/!
(亀井伸孝)
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