海外学術調査フォーラム

研究連絡会 講演

「日本のアフリカ学術調査の回顧と展望」
  田中 二郎(京都大学名誉教授)


  1. はじめに

     ただいま総括班の市川先生からご紹介にあずかりました田中です。私は数年前まで総括班のメンバーだったので、そんなことから、本日この席で話をするように要請がありました。

     「日本のアフリカ学術調査の回顧と展望」という演題をいただきました。私は割と初期からアフリカの調査に携わってきましたが、とても広大なアフリカ全域を、そして様々な分野をカバーできるわけではありません。私の扱いうるのは、ごく限られた範囲にしかすぎませんので、主として私自身の調査を中心としてお話ししたいと思います。

     私自身の体験をお話しする前に、アフリカでの学術調査のそもそもの発端をお話しておくことにいたします。


  2. 1950年代から60年代にかけての「海外学術調査」

     アフリカへの最初の学術調査は、1958年2月から5月までの3ヵ月間、今西錦司、伊谷純一郎の両氏がケニア、タンザニア、ウガンダ、ブルンディ、コンゴ、カメルーンへゴリラを求めて踏査されたのがはじまりでした。設立間もない日本モンキーセンターが資金を出して2人を派遣したのです。

     当時、日本はまだ貧乏な時代で、1ドルが360円。しかも外貨不足で、大蔵省の外貨審議会で外貨購入のための許可が必要でした。海外旅行というのがまだ希な時代だったのです。今西さんら2人は結局、伊藤忠商事の嘱託という形で、商用の名目で外貨枠をもらってゆかれました。

     翌1959年には河合雅雄、水原洋城のおふたりが、1960年には伊谷氏が単独で出かけられました。日本モンキーセンター派遣の調査は3年間続いたわけです。これらの記録は『ゴリラ-人間以前の社会を追って』今西錦司、1960、文藝春秋新社、『ゴリラ探検記-赤道直下アフリカ密林の恐怖』河合雅雄、1961、光文社、『ゴリラとピグミーの森』伊谷純一郎、1961、岩波書店、として、それぞれまとめられています。

     この1960年に第1回南極観測が始まり、文部省の派遣という形ではじめての海外学術調査が国費で行われたのです。今西さんらは、科研費を利用しながら、1961年より、霊長類学に文化人類学、生態学、古人類学などを加えた学際的な京都大学アフリカ学術調査隊を発足させたのです。

     翌1962年には、名古屋大学から最初の調査隊がでています。地質学の諏訪兼位さん、薬草学の長沢元夫さんが3名の学生を連れて、ソマリ、エチオピア、スーダン、アラブ連合を3ヵ月間調査されました。

     60年代の調査では、たとえ科研費を利用していたとしても、資金の大半は民間からの募金に頼っており、資金繰りのための寄付集めは重要かつ、たいへんな労苦を伴うものでありました。

     1963年に、科学研究費の中に「海外学術調査」の枠が設けられ、初年度は7隊に4,200万円が交付されました。もちろん各隊は交付金だけでは足りず、多額の資金を民間からの募金でまかなったのです。民間からの募金に頼ることもなく、科研費の予算だけで海外調査を行っていくことができる現在からすれば、当時、海外へ調査隊を出すことは本当に大変な事業でありました。


  3. 5ヶ月もの手続き期間を経て、いざアフリカへ!

     さて、私が初めてアフリカへ行ったのは1966年のことで、外貨はある程度自由化されていましたが、まだ1ドルは360円で貧乏な時代でしたから、そもそものお金がなく、資金や物資の寄付をもらうため、会社まわりをして歩きました。北海道大学探検部が計画したカラハリ砂漠探検隊に、ブッシュマン調査担当として参加させてもらったのです。

     飛行機の格安チケットなどはない時代で、とても高い正規のチケット代など出せないものですから、大洋漁業の捕鯨船に食費1万円だけ払って便乗させてもらいました。現地で使う車は、日産自動車にお願いして、小型トラックを40万円で2ヵ月半借用することができました。

     ビザの取得にも大変苦労しました。ボツワナは当時まだ英植民地だったので、イギリスの大使館を通じてビザ申請するのですが、このやりとりに時間がかかり取得に何ヵ月もかかりました。昔は電信でやりとりしていたのです。今はファックスやEメールで通信できるので迅速に連絡ができるようになりましたが。

     ボツワナは内陸国なので、南アのダーバンに上陸し、陸路千キロ以上を旅行してボツワナ国境まで行かなければなりません。南アはアパルトヘイト体制下にあり、日本との間にスポーツ、学術の交流はなかったので、1週間ほど通過ビザを交付してもらうのに、これもたいへん苦労しました。

     7月、8月の猛暑の東京を駆けずりまわり、資金や物資の調達、船の便乗、車借用の段取り、大使館通いなどに汗を流し、横須賀港を出航したのは11月でありました。

     北大隊として2ヵ月半、カラハリ砂漠を踏査し、3名の隊員が帰国の途についたあとは、私は1人で居残ってブッシュマン調査を続けました。以来38年にわたって、ブッシュマン研究は私のライフワークとなったのであります。


  4. フィールドでの知識やテクニックの応用

     さて、奥地での調査には移動や輸送手段として自動車が必需品です。野外調査のノーハウの1つとして、覚えておくと役に立つ簡単な知識を少しだけご披露しておきましょう。

     奥地へのドライブにはできるだけ新しい車を選ぶことが大切です。機械は新しいものほど故障も少なくトラブルは少なくてすみます。それでも故障はつきものですから、故障した時にスペア・パーツが入手しやすいよう、現地でよく普及している車種を選ぶのが最も望まれるところです。工具に加えて、プラグやポイント、ファン・ベルトなど最低必要限の部品を携行する。特に、パンク修理用具、空気入れ、ロープ、針金、ガムテープ、予備燃料、水、食料は必携品といってよいでしょう。

     うっかりミスによるバッテリーあがりは、ベテラン・ドライバーでもたまに犯すものです。人数がいれば押しがけが可能ですが、問題は1人ぼっちだったときです。こういうときにロープが威力を発揮いたします。まず駆動輪の一方をジャッキ・アップします。駆動輪でない方の車輪の前後に石や丸太をかませて固定しておく必要があるのはジャッキ・アップするときの常識です。ジャッキであげた車輪のタイヤにロープを巻きつけ、このロープの他端を引っ張って車輪を回転させ、押しがけと同じ原理でエンジンを始動させようという訳です。

     この方法は、バッテリーあがりのときだけでなく、スターターが作動しない場合にも使えることはお分かりになろうかと思います。

     また、水溜り、ぬかるみ、深い砂地などを突破するときには、絶対に途中で止まらず一気に走り抜ける必要があります。しかし、運悪くぬかるみや砂地の中で立ち往生したときには、悪あがきをせずに早目に次の手を施すことです。車輪を1つずつジャッキ・アップして、木の枝や石などを丁寧に敷いて脱出を試みる。それでも出ないときには、やはりロープのお世話になりましょう。

     この場合には、駆動輪の1つをウィンチとして使用するのです。ジャッキ・アップした駆動輪の片方にロープを巻きつけ、ロープのもう一方の端を近くの立木や岩に結び付けてピンとします。低速ギアで駆動輪をゆっくりと回転させ、車輪がロープを巻き取っていく力で車体をピンの方向に移動させようという訳です。

     ロープがタイヤからはずれにくいように、ロープの張力が進行方向と一致する位置にピンを定める必要があります。適当な場所にピンが見つからない場合には、地面に穴を掘ってスペアタイヤを埋め込み、これをピンとして使ってください。

     こうした知識やテクニックは、都会のドライバーにはまったく不必要なものでしょうが、田舎道、山道、砂漠の奥地などへ出かけようとする人ならば、いざというとき、一度聞いたり読んだりした知識がひらめいて応用できる機会があるかもしれないと思います。


  5. ブッシュマン調査を始めるにあたって

     さて、本題に入りまして、研究の中味について、お話しておきたいと思います。私が、ブッシュマン調査を始めるにあたって意図したのは、人類進化史のなかに正確に狩猟採集社会を位置づけたい、ということでありました。農耕や牧畜の生産手段が出現した1万年前までの人類が、どのようにして狩猟と採集だけによって生活を営んでいたのか、そのときの人々の社会の成り立ちはどのようなものであったか、当時の生活や社会を復元するために、現在もなお100%狩猟採集によって生活をしている人々の姿をこの眼で確かめ、500万年間持続してきた狩猟採集時代の姿を復元するための資料にしたいと考えたのです。

     カラハリ砂漠は、一見荒涼とし、不毛の土地に見えますが、そういった外観からは想像ができないほど、動物相、植物相は豊かで、ブッシュマンはこの地でおよそ100種類の植物を食料としています。動物についても、哺乳類33種をはじめとして、多数の鳥類、爬虫類、昆虫類を食物としています。バントゥ系のカラハリ人の影響で、ごく一部トウモロコシ、スイカ、豆を栽培し、少数のヤギを飼育している人が例外的にいましたけれど、大半のブッシュマンは100%野生の動植物の狩猟採集だけで生活をしておりました。

     捕まえるのは難しく、収穫も不安定な動物の狩猟に比べて、植物採集は容易であり、また、収穫が確実で安定しているため、食料の80%はじつは植物の採集に依存しているのです。狩猟採集民は一般に狩猟民といわれて、動物の肉を主食にしているように考えられがちですが、じつは、肉を主食にしているのは北極などの高緯度地域で、氷に閉ざされ、植物が生えないところ、そして寒いから肉の冷凍保存が効くようなところにいる、イヌイット、いわゆるエスキモーのような人たちだけなのです。赤道熱帯地域では、ピグミーにせよ、オーストラリア原住民にせよ、マレー半島のセマンにせよ、食物の7、8割は採集によって得られる植物からなっていることがわかってきました。狩猟民というよりは、むしろ採集民といった方がよりふさわしいのであります。

     私が調査地としたカデ地域のブッシュマンでは、100種の食用植物のうち、なかでも質量ともに豊かな11種の植物が季節ごとの重要な主食を形成していて、人々の1年間の食生活を支えている事実が明らかになりました。

     飲料水については、水溜りの水が手に入るのは雨季の間の30日から50日ていどにすぎず、1年のうち300日以上は、必要な水分を野生のスイカやウリ科植物の根などから摂っていることがわかりました。雨季が始まる12月ごろから食べ物は豊富になり、5月ごろまでは生活は比較的楽なのですが、冬枯れになる6月ごろからは乾季も深まり、食物は乏しくなっていきます。

     冬が過ぎ、乾季の終わりの暑くなる時期、9月から11月ぐらいは、地上にはほとんど食べるものがなくなり、根茎が唯一、食料と水の供給源となりますから、根っこはカラハリでの生活にとって一番大事な食料源だということができます。人類は掘り棒を発明して地下資源を開発利用できるようになったおかげで、森林から乾燥したオープンランドに進出し、ヒト化の道を歩むことができたといってもよいでしょう。

     さて、狩猟採集生活ではどのくらい働かなければならないかと申しますと、労働時間は1日3~4時間と意外に少ないことがわかりました。多くの時間を睡眠、休息、余暇に当てていたのであります。荒野での頻繁な移動生活はたしかに過酷なものでありますが、人々の生活は、自然資源の十分な保証の上に成り立っていて、何万年にもわたってこうした生活が続けられてきたわけです。

     一方、社会生活の面についても、ざっと概観しておきたいと思います。

     ブッシュマンの社会には身分や階級、職業などといった社会的分化がなく、みなが対等な立場で暮らしております。その日暮らしの狩猟採集生活は、共同と分配によって維持されています。最小限度の持ち物は仲間うちで貸し借りされますし、特に顕著に見られるのは、食物の分配であります。弓矢の猟で得られる大きな獲物は1ヵ月に一度ぐらいしか獲れませんので、獲れたときには、キャンプに居合わせる50人ほどの人々の間で、平等に分配がなされます。あるときにはみんなが大ご馳走にあずかれるかわりに、食べ物の乏しいときには、全員が飢えに苦しむことになります。

     権力による支配や命令もなく、リーダーも存在しませんが、人々の生活は親族の絆や友人関係に加えて、個人個人の良識に基づく行動によって維持されているのです。さらに、頻繁な移動に伴う開放的な、離合集散的、流動的な集団の構造が、全体としての社会を永続させるための大きな役割を果たしているのであります。

     ブッシュマンの最大の永続的な集団は家族で、家族は親子関係や兄弟姉妹関係でつながった分裂を起こしにくい家族群、私はcluster of families と呼んだのですが、を作っています。生活の単位は、1つだけのこともありますが、普通はいくつかの家族が一時的に作るキャンプであり、頻繁に離合集散をおこないあういくつかのキャンプが1つの地域集団を形成しています。従来、狩猟採集民のつくる居住集団はバンド、ノマディック・バンドと呼ばれてきたのですが、これは一定のテリトリーを持つ自律的な機能集団をさす用語ですから、ブッシュマンのつくるいかなる集団も、その意味ではバンドとはいえないわけであります。


  6. 1980年代は大きな転換期に

     1980年代は、アフリカは大旱魃に見舞われ、政治、経済の混乱もあいまって、アフリカにとっての「失われた80年代」と呼ばれる時代でありました。1980年は、私の研究にとっても、大きな転換点となった時期であります。

     80年から81年にかけて2ヵ月間、私はNHKのドキュメンタリー・フィルムの撮影のためにカラハリを訪れたのでありますが、ブッシュマンの生活がそのとき急激に変貌を遂げようとしていたのです。旱魃被害に対する救援、開発援助の国際的な波がカラハリの奥地、カデにも波及しつつありました。カデの地は、いま政府のてこ入れによって急速に、定住化、近代化への道を進もうとしているところでした。

     学校教育と近代医療が導入され、井戸の周囲が定住地として大きく整備されつつあったのです。大人数の人々が集まってきて定住生活をするようになれば、従来の狩猟採集生活は成り立たなくなります。狩猟採集の生活様式は、少人数の人々が広大な面積を移動することによってはじめて可能なものだったのです。カデ地域以外のところからも多くの人々が移住してきて、居住地はすでに数百人規模にまで拡大しつつありました。

     政府はトウモロコシ栽培やヤギの飼育を奨励しましたが、とても人々の需要を満たす収穫は期待できないので、3ヵ月に1度ぐらいのペースで食糧配給をおこなわざるを得ませんでした

     狩猟採集から農耕牧畜へ、平等分配から貨幣経済へ、そして、小さな遊動的キャンプの生活から何百人規模の定住生活へと急激な移行が進行しつつあり、カデはいま歴史的な一大実験場となっているといってもよかったのであります。

     1年の大半飲料水が得られず、野生のスイカや草の根っこによって渇きを癒してきた人々にとって、定住地に整備された井戸水は人々をひきつける最も魅力ある誘引となりました。学校や診療所の建設、道路工事、水道工事などといった建設作業への従事や民芸品の売却などによって現金収入の道が開かれ、人々はいやおうなく貨幣経済の世界へと踏み出すことになりました。1981年から南部アフリカは大旱魃に襲われたのですが、それに伴う救援物資の配布が定住地へのさらなる人口集中を促しました。定住地のカデには、80年代に600人、90年代には800人の人々が住むようになったのであります。

     たかだか50人ばかりの小さな集団に分かれて移動を繰り返しながら、資源を広く利用することによって、狩猟採集の生活は成り立っていたのですが、何百人という大人数が1ヵ所に集まり、定住するようになれば従来の生活が根底から崩れ去るのは当然のことであります。食料の80%を依存していた植物性食物はたちどころに枯渇し、配給の食糧に頼らざるを得なくなります。

    小規模な畑を耕して、トウモロコシ、スイカ、豆を栽培するようになり、また、政府はヤギを3頭ずつ配布しましたが、とても食糧自給できるところまでには至っておりません。


  7. 狩猟による生活から貨幣社会へ

     動物の狩猟は、それではどうなったのでしょうか。伝統的な狩猟の代表は、単独でおこなう弓矢猟だったのですが、定住地の近くからは獲物となる大型の有蹄類がいなくなってしまったため、日帰りの徒歩による弓矢猟は衰退して、代わって泊りがけでおこなう集団騎馬猟が盛んになりました。

     騎馬猟は、1頭ないし2頭の馬と数頭のロバを用いて10人ほどの人数でおこなわれます。馬上の狩人は槍1本を持っただけの軽装で獲物を探索し、動物の足跡を発見すると追跡してこれを槍でしとめます。ロバ隊は往きは飲料水を、そして帰りには解体した肉の運搬を担当します。騎馬猟では、馬の調子さえ良ければ獲物を見つけ次第100%仕留めることのできるきわめて効率の良い方法で、例えば1週間も遠征すれば、まず間違いなく2、3頭はしとめてきます。

     騎馬猟によって得られる肉の総量は、平均すると伝統的な弓矢猟によって得られていた量とそれほど違いはないという統計的な数値もあります。しかし、獲物を見つけさえすれば容易にしとめられるだけに、騎馬ハンターが一気に6頭ものエランドをやっつけるといったすさまじい乱獲をおこなうこともまれに見かけました。

     余分なものは求めず、必要なときにはいつでも手に入るのだ、という自然への信頼に基づいた楽観主義こそが狩猟採集民の真髄であったのですが、社会情勢の変化と新しい技術の導入の中で、長年培われてきた彼らの自然観は崩壊の危機に瀕しているといってもよいのだと思います。

     騎馬猟という行動体系の中で、とりわけ顕著な変化が見られるようになったのは、消費のシステムであろうと思われます。獲物の所有権は狩猟具の持ち主に帰属することになっているのですが、弓矢猟の場合だったら肉は用いた矢の持ち主に属していたところが、騎馬猟の場合には肉は馬の持ち主のものとなります。一方で、貨幣の流入以来、現金で売買するような外部世界のものは、所有や分配にかかわる彼らの社会規範の体系から外れたものだという認識が定着してきており、したがって、現金で買った馬を用いて手に入れた肉は本来の分配のルールに乗せる必要はないのだという考えが出てきています。

     騎馬猟では、馬の持ち主つまり肉の所有者の観点からみれば、分配はじつに割りに合わないものとなったのです。すなわち、彼は馬を持たないものからの見返りを期待できないからです。かつては弓矢は誰もが製作し、これを弓矢猟の名手に預けておくことによって、誰もが獲物の所有者となりえたのです。機会均等の条件の下に、平等主義は成立しえたのであります。ところが高額の現金によって購入しなければならない馬というものが現れ、貧富の差や不平等が発生したのです。狩猟採集社会を通底していた平等原則の価値観は、新たな貨幣経済原理が流入する中で、大きく揺らぎを見せているのであります。


  8. 住み慣れた土地をおわれ移住する人々

     カデでの定住化政策が実施されてからおよそ20年を経過した1997年5月に、ボツワナ政府はカデの住民を、約70キロ離れて保護区の西側に位置する場所へ移住させようとしました。中央カラハリ動物保護区は、野生生物の保護と同時に、ブッシュマンの狩猟採集生活をも保証することを目的に、1963年に当時のイギリス保護領政府によって策定されたものなのですが、これを無人の国立公園にしようとする計画は、独立当初から進められておりました。

     住民たちは、長年住み慣れたカデの地を捨てて、狩の獲物となる動物も少ない見知らぬ土地へ移住することにはもちろん大反対し、政府の決定に対して10年以上にわたって根強く抵抗し続けました。政府は移住計画を推し進めようとして、カデでは住民への説明会が何度も開かれましたが、十分に納得はされないまま。移住は強引に進められていったのです。移住の条件として、水道、学校、診療所などの施設の移転拡充はもちろんのこと、牛を各家族に無償で供給し、農業、牧畜のいっそうの振興を約束しました。住居の小屋の移設のために、小屋材の運搬に加えて、小屋の大きさと数に応じて1家族あたり3万円から25万円という高額の補償費を支払うことを申し出ました。

     それでも多くの人々は住み慣れた土地から出て行くことに断固反対したのでありますが、定住化に伴ってハンシー農場からカデに移ってきた人たちなど、牛の供与を望む一部の人たちが、真っ先に政府の提案に同意したようであります。

     小屋の移転のための多額の補償金を受け取って大型トラックでカデをあとにする人々を目の当たりにして、残っていた人たちも次々とあとに続きました。長年住み慣れた土地への執着は断ちがたく、しかし、かといって政府の権力にじかに対抗するのも恐ろしく、大半の住民はどうしてよいか決断がつかないまま将来への不安を募らせていたことだろうと思います。結局は、めったにお目にかかることもない大金を目の前にちらつかせられて、あっけなく移住への波に乗ってしまった、ということになるのだろうと思います。移住開始から4ヵ月後、1997年の8月には、カデは無人の地となったのであります。

     保護区の外に作られたこの新しい移住地はニューカデと名づけられたのですが、ニューカデへの移住によって、定住化政策は最終的な局面を迎えております。


  9. 21世紀のブッシュマン世界

     15世紀にはじまるバントゥの大移動とそのあとに続く17世紀以降のヨーロッパ人による植民地支配の結果、ブッシュマンはカラハリ砂漠の奥に追い詰められて、かろうじて少数が生きながらえてきました。しかしこの地においても彼らは20世紀後半の独立国家形成と経済や情報のグローバリゼーションの波の中で、従来の生活様式、経済、社会の枠組み、価値観の変更を余儀なくされ、固有の文化を喪失しかねない危機に瀕しているのは、今までに述べてきたとおりであります。

     ブッシュマンは、かつて動物を狩り、植物を採取し、自然の素材を巧に利用して道具をこしらえ、暮らしを立ててきました。

     カラハリの自然は荒々しく粗野で、人間が生活する場としてはけっして安逸なところではありません。降雨量は乏しく飲料水もめったになく、夏には40度を越す酷暑になるかと思えば、冬の夜には氷点下10度を記録し、夜毎に霜がおります。

     人々は100種類ばかりの野生の植物を採取して食物としますが、10月から11月にかけての最も暑く最も乾いた季節には、草木はすべて枯れはて、頼みの綱とするのは根っこだけとなります。動物の肉はおいしいし、ブッシュマンが最も好みとする食べ物ですが、そもそも動物の密度はそれほど高くないうえに、弓矢や跳ね罠や犬の助けを借りたつたない狩猟法では獲物を手に入れるのはそれほど簡単なことではありません。食事全体の中で、肉の占める割合はわずか2割ていどにすぎず、大半は植物によってまかなわれていたのであります。

     厳しい自然の中に溶け込んで生活を営むために、ブッシュマンがどれほど見事に適応してきたか、その具体例を挙げれば枚挙にいとまがありません。彼らは素晴らしい観察者であり、現実主義者であり、そしていかなる情況にも素直に対処できるオポーチュニストでもありつづけたのです。その即物的、情況主義的性向は、いったん事あれば、外界の変化にも巧に順応する力を発揮してきたといってもいいでしょう。

     最後の生き残りのブッシュマンたちの世界に、いま重大な危機が訪れています。1千人というかつて経験したことのない大集落が出現しており、社会関係は、具体的、直接的な人的つながりから、巨大な数と非現実的な集団的抽象へと移行しつつあります。狩猟採集経済は破綻し、配給と年金に依存せざるをえない現金経済の世界へと足を踏み入れました。平等分配の基本原理はその成立基盤を奪われ、価値体系そのものが根本的な変革を迫られているのであります。

     定住化政策は、ブッシュマンたちが悠久の歴史を経てカラハリの自然の中で築き上げてきた絶妙のバランスを突き崩す、きわめて深刻な矛盾に満ちたものでありましたし、その導入はあまりにも性急なものでありました。

     人々がこの先どのように情況に対応し、いかなる生活世界を作り上げていくのか、将来を予測するのはまことにむずかしいことであります。しかしながら、確信を持っていえることはただ1つであります。彼らが過去20数年に及ぶ定住化の過程で培ってきたたゆまざる努力、農耕や牧畜の導入、民芸品の生産と販売、狩猟法の改善や工夫、貨幣経済への転換、社会関係の再編と秩序の再構築、政治意識の台頭などなど、こういった困難な課題を、情況を見極めながら、とにもかくにも克服してきた実績を考えれば、彼らはこれからもなお、彼らなりの流儀で、したたかに適応を遂げつづけ、21世紀のブッシュマン世界を構築していくに違いない、と私は思うのであります。


 ご清聴ありがとうございました。

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