海外学術調査フォーラム
研究連絡会 講演
「植物遺伝資源の国境間移動を巡る最近の情勢-生物多様性条約と食料農業植物遺伝資源条約-」
長峰 司((独)農業生物資源研究所 ジーンバンク(上席研究官))
独立行政法人農業生物資源研究所ジーンバンクの上席研究官/長峰 司です。本日は、この講演会でお話する機会を与えていただきありがとうございます。茨城県つくば市にあります農業生物資源研究所は、農林水産生物ジーンバンクをもっており、私は植物遺伝資源を中心にジーンバンクの運営を仕事にしています。農業生物資源研究所は植物、微生物、動物遺伝資源の海外探索事業を実施しており、私は植物の探索収集に関する事前合意取り付けの担当でした。その実際の経験を本日は紹介してほしいとのことで静岡大学の佐藤洋一郎先生から依頼があり、お引き受けした次第です。
本日は、植物遺伝資源の国境間移動を巡る最近の情勢というタイトルでお話します。国境間移動というと分かりにくいかもしれませんが、遺伝資源を外国で入手して、日本へ持ち帰ることと考えてください。副題には生物多様性条約と食料農業植物遺伝資源条約としました。実は法律の話をするわけではなく、遺伝資源の外国からの入手は、これらの法律を無視してはできないということで、この副題にしました。
私の話の内容に対して、後ほど農林水産政策研究所の山本さんに本日コメンテーターとして特に法律面、背景などについて補足をお願いしています。
生物多様性条約と食料農業植物遺伝資源条約の呼称 (図)
生物多様性条約はみなさんご存知の条約と思いますが、食料農業植物遺伝資源条約は初めて聞く方が多いでしょう。生物多様性条約は、短く多様性条約と呼ばれることもありますが、正式には生物の多様性に関する条約といいます。英語では、Convention on Biological Diversity といいます。英語の略称はCBDです。CBDを聞かれた方はあると思います。今日は生物多様性条約、あるいはCBD といいます。
一方、食料農業植物遺伝資源条約は、短く遺伝資源条約と言われることもありますが、正式には、仮称ですが、食料農業のための植物遺伝資源に関する条約といいます。英語では International Treaty on Plant Genetic Resources for Food and Agriculture です。略して最初の頭文字をとってITということもあります。今日は遺伝資源条約、あるいはITといいます。
植物遺伝資源の種類 (図)
地球上にはたくさんの種類の資源があります。水資源、エネルギー資源、鉱物資源のような例があげられます。この資源の一つに、遺伝資源あるいは生物資源と呼ばれるものがあります。遺伝資源も生物資源も内容は同じものです。
遺伝資源の中には、大きく動物、植物、微生物の3つのグループがあります。遺伝資源とは、作物や家畜・家禽の品種改良の元になる材料であると考えていただくと分かりやすいと思います。遺伝資源の中で植物遺伝資源には在来品種、育成品種、野生種、実験系統などがあります。在来品種とは、農家が何百年、何千年にも渡って畑や水田で営々として選抜して保存してきた農家品種のことです。あるいは地方品種ということもあります。育成品種はメンデルの遺伝の法則発見以降、遺伝育種学の知識をもとに開発した品種です。野生種は自然条件で自生する植物種です。実験系統は交配などの手段を用いて作成し、遺伝実験などに用いる材料です。これらが植物遺伝資源の中身です。
これらを育種や産業に利用して、また、研究の材料に用いることが遺伝資源の利用です。日本は植物遺伝資源に関しては、あまり豊かな国ではありません。昔からたくさんの種類の遺伝資源を外国から導入してきました。これからも外国に多くの植物遺伝資源を頼らざるを得ません。今日は、外国の遺伝資源を入手すること、アクセスすること、国境間を移動させることに関する最近の情勢をお話します。
植物遺伝資源に対する考え方の歴史的な推移 (図)
今をさかのぼること約20年前までは、植物遺伝資源は人類共通の財産と考えられていました。研究者でも誰でも外国に出かけて自由にただで植物遺伝資源を探索収集して、そして利用することができました。研究者同士で連絡して植物遺伝資源を交換し、探索収集することができました。この考え方を背景にして1983年FAOで採択されたのが植物遺伝資源に関する国際的申し合わせです。英語でInternational Undertaking for Plant Genetic Resources 、略してIUといいます。
先進国は途上国からの遺伝資源と自らのバイオテクノロジーを利用して新品種や特許を出願して多くの利益を得ました。しかし、遺伝資源をもともと持っていた途上国はなんらの恩恵も受けませんでした。1992年リオの地球サミットにおいて採択された生物多様性条約では、各国が自国の遺伝資源について主権的権利を有すると認められました。取得の機会で定める権限はその国の国内法令に従うこととされました。多様性条約の発効により遺伝資源に対する考え方が今までとガラリと変わりました。原産国の主権が大きく脚光をあびました。遺伝資源を得るためには事前の同意を必要とし、利用から生ずる利益を公正、衡平に配分することとされました。
しかし、主要な食料に使う遺伝資源は世界各地へ伝播し、その土地土地で長い栽培の歴史があって原産国を特定するのが難しいこと、また、食料安全保障の観点からも、多様性条約とは別の扱いをすることが適当とされました。そこで多様性条約に調和した形で国際的申し合わせを見直す交渉が1994年から始まり、ようやく2001年に食料農業植物遺伝資源条約が採択されました。
植物遺伝資源を巡る開発途上国と先進国の関係 (図)
遺伝資源に関する国際的申し合わせから生物多様性条約に至る間の、植物遺伝資源に関する開発途上国と先進国の間の一般的な構図は次のようです植物遺伝資源を開発途上国は豊富にもっており、一方、先進国はもともとはあまり持っていませんでした。科学技術、特にバイオテクノロジーに関しては、途上国は十分に発達していませんが、一方、先進国は発達しています。植物遺伝資源に関する知的財産権には、育成者権と特許権があります。育成者権は種苗法、特許権は特許法で定められています。
開発途上国は知的財産権に関しては制度の整備が不十分であり、先進国は整備されています。種苗販売による金銭的利益は、開発途上国ではほとんどありませんが、先進国では民間種苗会社による作物の品種改良が進んでおり、種苗の販売を通した金銭的な利益が多くあります。
以上の構図があり、生物多様性条約が環境保護条約でありながら、環境保護の一つとしての遺伝資源の保全に関して、遺伝資源を用いて生ずる利益に配分を原産国にも公正、衡平に求める内容の条文が盛り込まれることになりました。この構図は、いわゆる南北問題といえるものです。
どのように植物遺伝資源を外国から入手するか (図)
現在、生物多様性条約が発効し、また、食料農業植物遺伝資源条約という新しい条約も採択されました。生物多様性条約は大きな枠組み条約で、この中に食料農業植物遺伝資源条約が含まれます。このような植物遺伝資源を巡る国際的な情勢のもとで、どのように外国から植物遺伝資源を入手して、日本に持ち込むかについてお話します。
植物遺伝資源の保存の現状 (図)
本論に入る前に、植物遺伝資源の保存あるいは保全の現状を説明します。今から100年くらい前までは、植物遺伝資源はすべて自然の状態及び農家の畑や水田で保存されていました。その後、植物遺伝資源の保存技術が発達して、ジーンバンクなどの生息域外保存あるいは施設内保存技術が確立され、そこに保存される遺伝資源がでてきました。すなわち、低温低湿の種子貯蔵庫あるいはジーンバンクに保存されている種子です。一般に種子は低温低湿条件で保存すると長く保存できます。さらに、研究機関の圃場、フィールドに保存されているリンゴ、カンキツなどです。これらの生息域外保存では、在来品種、改良品種、野生種、実験系統が保存されています。
もう一つは、生息域外保存、または現地保存です。自然の植生、あるいは国立公園などの管理区域内で保存されている野生種です。さらに、農家が畑や水田で毎年栽培する農家品種あるいは地方品種もその例です。そのほとんどは在来品種です。
生物多様性条約と遺伝資源条約の概略 (図)
生物多様性条約と遺伝資源条約の概概です。生物多様性条約は、1993年に批准されました。2003年5月現在、187カ国が加盟しています。日本は受諾していますが、アメリカは署名のみです。日本はこの条約を受諾しているので、この国際法にしたがって遺伝資源を入手して国境間移動をしなくてはなりません。
一方、遺伝資源条約は今のところ2004年に発効できるどうかというところですが、順調に批准する国は増えていますから、もうまもなく国際法として発効すると思います。
現在78カ国が署名し、21カ国が批准しています。条約では40カ国が批准して90日後に国際法として発効することになっています。遺伝資源条約に対して米国は署名し、カナダは署名と批准をしました。しかし、日本は今のところ署名も批准していません。
生物多様性条約と遺伝資源条約の目的 (図)
生物多様性条約と遺伝資源条約の目的は、二つの法律ともに、遺伝資源の保全、遺伝資源の持続的利用、遺伝資源を利用して得られる利益の配分を掲げています。両方の目的は同じです。
それぞれの法律に対するわが国のフォーカルポイントは、生物多様性条約は環境省です。環境省には生物多様性条約のホームページが開設されています。しかし、生物多様性条約の第15条5項の事前通報に関しては外務省が関係します。
遺伝資源条約は、食料農業が対象なので農水省がフォーカルポイントになると思われますが、未定です。
二つの条約で対象となる生物種についてまとめました。生物多様性条約は、ヒトをのぞくすべての生物種が対象です。植物であれ、動物であれ、微生物であれ、この条約の対象になります。微生物は、それを直接利用して新しい物質を発見して特許を取ることなどが可能です。そのため、現在、外国では微生物の収集は難しくなっています。野生の花、たとえば、ユリの野生種なども日本に輸入して増殖すれば直接利用が可能ですから外国での収集は難しくなっています。
一方、遺伝資源条約ですが、イネ、コムギ、オオムギ、バナナなどの35の主要農作物と、29属の牧草種が対象です。しかし、日本人にとっても重要な作物であるダイズやラッカセイが遺伝資源条約の対象から外れています。この理由は、遺伝資源条約の交渉の段階で、ダイズについては中国が自分の国はダイズの遺伝資源をたくさん保存しているので、自分の国で独占しようと考えたためかリストから外したためです。それに対抗してブラジルはラッカセイをリストから外しました。そのような経過があり、ダイズとラッカセイはリストにありません。
コンニャク、イグサは日本でしか用いられない特殊な作物なのでリストに載っていません。また、花き類、薬用植物は食料でないということで外れています。遺伝資源条約で対象となる作物種をすべて示します。作物は種で指定され、牧草は属で指定されています。作物種のリストには、イネ、コムギ、オオムギ、トウモロコシ、ソルガム、カンショ、バレイショ、タロイモ、ヤムイモ、インゲンマメ、ササゲ類、キマメ、ココナツ、キャッサバ、バナナ、イチゴ、ナスなど主要な作物が載っています。
牧草のリストには、レンゲ属、ウマゴヤシ属、トリプサクム続、アグロパイロン属などほとんどの牧草種が載っています。
植物遺伝資源の外国からの入手方法 (図)
遺伝資源、植物遺伝資源を外国からどのように入手して、日本に入れたらいいか、その方法についてお話します。
現在、日本は生物多様性条約を受諾していますから、生物種であればなんでもこの条約にしたがって入手して、日本に持ち込まないといけません。また、遺伝資源に関してその国独自に国内法を整備している国があります。たとえば、フィリピン、インドネシア、アンデス諸国などです。それらの国から遺伝資源を入手する時にはその国内法に従わなければなりません。
近い将来に、遺伝資源条約が国際法として発効しますと、主要な農作物については遺伝資源条約に従って外国から入手して日本へ輸入します。それ以外の生物種については、今と同じように生物多様性条約に従って入手して日本に輸入します。まとめると、主要な作物種だけ生物多様性条約からはずれるということになります。
多様性条約におけるボンガイドライン (図)
生物多様性条約にしたがって遺伝資源を入手する場合の指針として、昨年多様性条約の第6回締約国会議でボンガイドラインが定められました。正しくは、遺伝資源のアクセス及びその利用から生ずる利益の公正かつ衡平な配分に関するボンガイドラインといいます。
生物多様性条約では、アクセスと利益配分は2国間で行います。このガイドラインは、遺伝資源のアクセスと利益配分に関する行政、立法上、政策上の措置を策定するための指針です。締約国が国内法を整備する際の指針です。
多様性条約におけるアクセスと利益配分 (図)
例として、日本からロシアの植物遺伝資源を入手したい場合、事前にロシアのCBD担当の機関に連絡します。この場合、対象とする植物遺伝資源があるジーンバンクなどに保存されている場合でも、あるいは自生の野生種や農家の圃場に栽培されている作物であっても手続きは同じです。日本とロシアの間で、その植物遺伝資源のアクセスとそれを利用して得られる利益配分に関して合意するMTAを結んで、遺伝資源の交換や、探索収集の活動を行います。日本とカナダ、ロシアとカナダ、日本とラオスの場合も同じです。2国間で協議を行って条件に合意してはじめて遺伝資源が入手できます。ここで、MTAは、Material Transfer Agreementの英語略であり、遺伝資源を入手して日本に輸入するときに相手国と交わす契約書のことです。
遺伝資源条約で植物遺伝資源を入手する方法 (図1/図2/図3)
遺伝資源条約では、2国間協議でなく、マルチラテラルシステム(多国間システム)で遺伝資源のアクセスと利益配分を行います。これは主として、ジーンバンクなど生息域内保存の遺伝資源が対象になります。
遺伝資源条約では、国際ジーンバンクがあると仮想してみてください。そこに日本のたとえば生物研で保存している植物遺伝資源を預ける、アメリカの農務省にある遺伝資源を預けるというように、遺伝資源条約に加盟した国が、クロップリストに載っている作物遺伝資源を預けると考えてください。国際農業研究機関、たとえば国際イネ研究所などに保存されている植物遺伝資源も預けることになります。民間からも預けられることが可能です。この仮想の国際ジーンバンクから植物遺伝資源を入手して、新品種を育種して育成者権を得て、研究して特許権を得てそこから生じる金銭的な利益をFAOを通じて、開発途上国を中心に植物遺伝資源の保全と利用に役立てるということを考えています。この仮想の国際ジーンバンクには、今のところ、誰でもアクセスできるとしています。
植物遺伝資源のアクセスの現在と今後 (図)
本日の話の前半に、植物遺伝資源の方法には、生息域外保存と生息域内保存の二つがあるということを説明しました。生息域外保存の遺伝資源は、ふつう交換分譲で入手します。
生息域内保存の植物遺伝資源は、探索収集調査で入手します。現在は、生息域内保存の植物遺伝資源でも、生息域外保存のものでも、生物多様性条約に従って交換分譲し、あるいは探索収集しています。
近い将来は、ジーンバンクなどに保存されている主要な農作物遺伝資源に関しては、遺伝資源条約で交換分譲することになります。主要な農作物以外の遺伝資源については、今までのように、生息域外であれ、生息域内であれ、生物多様性条約に従って入手します。
生息域内保存の植物遺伝資源で農作物関係のものを遺伝資源条約で探索収集するかどうかは確定していません。
農業生物資源研究所のジーンバンクで行っている遺伝資源のアクセスの方法 (図)
農業生物資源研究所のジーンバンクで行っている遺伝資源のアクセス、入手の方法を具体的に紹介します。ここでは主に、生息域内、自然条件で自生している野生種や農家の圃場で農家が栽培している農家品種の探索収集についてです。
まず、相手の国の機関、国によって違いますが、調査収集の事前打診を行います。交渉に時間がかかることがありますが、両方で合意できるまで協議します。必要ならばMOU,あるいはMOAとよばれる協定書を結びます。さて、探索収集が実行できる運びとなったら、生物多様性条約大15条の5項に基づいて日本の外務省を通して相手国に事前通報をします。探索の期間、対象生物種、派遣者氏名などです。また、日本の植物防疫所に事前に探索収集して帰る日時、便名、材料名を伝えます。これにより輸入時の検疫態勢を整えてもらいます。そして、実際の調査探索収集になります。帰国前に探索した材料のMTAにサインします。探索の前にMTAのサインを交わすこともあります。相手国の植物防疫所で輸出検疫をしてもらいます。飛行機で帰国し、最寄の空港にある植物防疫所で輸入時検疫をしてもらいます。それから、生物研に持ってきます。
MOU、MOAは英語の略称で、Minutes of Understanding 、 Minutes of Agreement といいます。
MOUの例を紹介します。これは、今年、ロシアのバビロフ研究所との間で締結した植物遺伝資源の保全と利用に関する共同研究協定です。探索収集、評価研究まで幅広い植物遺伝資源に関する日本とロシアの間の共同研究を可能とする共同研究協定書です。5年間有効の協定です。サインは生物研、バビロフ研双方から2名です。
MTA、材料移転合意の例を紹介します。これは、今年度実施するトルコでの果樹探索収集で使うMTAです。内容は、対象遺伝資源に関する情報の交換、遺伝資源とそれに関する情報に知的財産権を設定しない。商品開発は事前に同意する必要があること、輸出入は双方の国の法律に従うことなどが書かれています。
日本の植物防疫法の注意 (図)
最後に、蛇足になりますが、植物遺伝資源を日本に持ち込むとき、日本の植物防疫法上の注意を紹介します。
植物防疫法は、わが国の農業に被害を引き起こす恐れのある外国からの病害虫を水際で食い止めるための法律であり、決して遺伝資源を日本に持ち込ませないための法律ではありません。
分譲交換、探索収集したものは必ず植物防疫所で輸入時検疫を受けます。ほとんどの植物遺伝資源はこの輸入時検疫ですみますが、イネモミ、イモ類、多くの果樹類の穂木、球根類は日本に輸入することが禁じられています。研究用に利用する場合は、農水大臣に特別許可をもらってから輸入します。その後は、無毒化するまで隔離栽培をします。イネモミは生物研に隔離温室が、カンショは作物研究所に隔離温室が、果樹類は果樹研究所と植物防疫所大和圃場に隔離温室があります。隔離解除後、研究者に材料が渡ります。もし、このような輸入禁止品を研究材料として輸入したい場合は、ぜひこの法律にしたがって輸入してください。
生物研のホームページに掲載されている遺伝資源の国際情勢のページを紹介して、本日の講演を終わります。
ご清聴ありがとうございました。
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