展示品
43 アッカー(プトレマイオス,サン・ジャン・ダクル)
 度重なる破壊の後,アッカーの街中で先人の旅行家たちが語っている壮麗な教会堂や宮殿の遺跡を探しても無駄であったのは驚くべきことだろうか? 確かに,大混乱を生き抜いた3つの遺跡は今なおはっきりと見られる。それは町の西側部分にあるサン・ジャン[聖ヨハネ]大聖堂,東側部分にあるサン・ジャン・バプティスト[洗者ヨハネ]教会,そして,その教会の方に幾らか近いがほぼ中心部にあるテンプル騎士団員の宮殿跡である。しかしそれらの場所を別とすれば,アッカーの街は住人で溢れかえる新しくて頑丈な建物がぎっしり並んでいながらも,あらゆる時代の残骸が足で踏み固められて堅固な塊に変わってしまった巨大な層に過ぎない。あちらこちらに円柱の柱身が突き出しているのが見えるだけである。我々は外交文書を携えていたので,トルコ人将校の監視の下で城壁を訪れる許可をパシャから確実に得ることが出来た。城塞の壁の上を散策するのは多くの点で興味深い。それは,この場所の堅固さについて正しい理解を与えてくれると同時に,周囲の平原全体の素晴らしい眺めを一望出来るからである。岸沿いのアッカー湾,南の地平線を青みがかった頂きで閉じているカルメル山,そして東にそびえる,村と遺跡に覆われた緑豊かな丘など。南東には町から遠くないところに高台が見える。十字軍が1189年にサン・ジャン・ダクルの攻囲を開始した際,グイド王の下でそこに陣営を張ったと言われている。その同じ地点から我々はアッカーを描いた(図版43)。
■十字軍が陣営を張ったとされる高台からアッカー旧市街を望む, 2011年12月(撮影:錦田愛子)

十字軍時代の遺跡が残る町アッカーは、古くからの港町として知られる。その旧市街は世界遺産にも登録されている。この町には、イスラエル建国後も残ったパレスチナ人が比較的多く住むが、近年ではユダヤ系住民との間にときおり衝突が起きている。