展示品
6 シドンのサン・ルイ城
 アッシリア,マケドニア,ペルシア,シリア,エジプト,そしてローマの軍勢が,フェニキアの中心都市であるシドンに対して順番に破壊行為を行ってきた。サラセン人や他のマホメット教の征服者たちによって行われた略奪もそれらに劣らず凄まじいものであった。シドンは,十字軍の支配下にあったしばらくの期間,立て直しを試みたが無駄であった。フランスのルイ9世によって建てられたと言われている,町の南の高台にある城跡(図版6)にその努力の痕跡が見られる。名高いドルーズ派の首長ファフルッディーン(在位1595-1603)は,隊商宿や他の金がかかる建築物(その中には自身のための宮殿も含まれていた)を建てることで,シドンにかつての重要性を取り戻させようとしたが無駄であった。麻痺状態の政体が重くのしかかり撓め続けたのであった。これらの原因に加えて,他の理由もまたシドンの復興を妨げた。かつてのティールがその豊かな品揃えの市場に大規模な地中海貿易を引き寄せることで,シドンから栄華の一部を奪っていたのと同様,現在ではベイルートが台頭し,シドンを押しのけて日々重きをなしている。地上に生る殆どすべての果実を栽培出来るという,昔から名高い豊穣の地の真ん中にあるという素晴らしい状況も,自然港としての,或いは少なくともダマスクスに最も近い港としての地位も,好敵手であるベイルートが発展している現状では,最早シドンを優位に立たせることはないのである。
■シドンの現在のサン・ルイ城、より近い地点から, 2012年6月(撮影:黒木英充)
シドンはトリポリと並んでレバノンの主要貿易港として栄えたが、1830年代からベイルートが頭角を現し、ヨーロッパ諸国の領事館もそこに集中するに至った。この海岸線にはイスケンデルン、ラタキア、ティール、ハイファなどの貿易港があったが、いずれも付近に暗礁・岩礁が多く、大型船を着けるのは難しかった。