海外学術調査フォーラム

分科会  BR1

講師田中雅一(国際ファッション専門職大学)

  田中雅一講師の報告「なぜ今エッジワークなのか?―共同研究に開かれたフィールドワークを求めて」について質疑応答と議論がおこなわれた。論点は主に4点、「ダークコモンズ」と「エッジワーク」概念に関するものが中心である。またこれら概念を用いた取り組みの限界についても議論された。
  論点の1点目は、エッジワーク概念についてである。報告では十分に触れられなかった事例(沖縄の米軍基地にかかわる人びとの日常実践、水俣の汚染地区における実践等)が紹介され、概念の共有が図られた。人びとが新しい縁(エッジ)を創出する日常実践に焦点をあてる試みがエッジワーク概念への着目であり、それによって従来とは異なる世界の在り方を想像できるようになるという。そしてこうした取り組みは、人びとが営んできた暮らしが否定され以前のような生活を送れなくなった世界、すなわちダークコモンズと認識されるフィールドに対して希望を提示すると論じられた。 さらにエッジワークは、ダークコモンズを克服する従来の方法(国家や市場に対して展開される政治運動、権力者側からのインフラ構築や経済支援、公的行事や公物を通じた謝罪や追悼等の表明)とは異なり、ダークコモンズの内と外の境界で新たな繋がりを生み出す活動であり、〈かれら〉と〈私たち〉を接続し既存の枠組みを乗り越える共同性を創造する取り組みとして着目されることも示された。
  そして2点目は、「エッジワーク」と「中心-周縁」概念の異同についてである。国家だけでなく、グローバル資本主義という権力構造のもとでもダークコモンズが生じる状況が指摘され、中心の生活が周縁の犠牲によって成立している点が「犠牲区域」の例とともに確認された。この現実をふまえたうえでダークコモンズという語を使うことによって、従来とは異なるかたちのコモンズを想起することが可能となると論じられた。またさらに、周縁に位置付けられた人びとがいかに自らを語り、次の世代へ暮らしを受け継ぐのかという事もエッジワークとして捉えられるという観点も共有された。
  3点目はダークコモンズやエッジワークと、「死の空間」、「死者」の関係についてである。「死の空間」というダークコモンズの喩えは、連続する日常が何等かの形で断絶され終わってしまうことを意味しており、生物等の死のみを表しているわけではない点が明確化された。さらにエッジワークにおける「死者との交流」については、日々の小さな実践をつうじて死霊のようなものとの対話・交流を重ねるなかで希望が見いだされ、ダークコモンズが克服されると説明された。
  そして4点目は、〈われわれ〉の社会に生じているコロナ禍のような状況をいかに捉えるかという点についてである。新型コロナ感染症の流行によって自己監視が強化されている現在の状況は、社会自体が全体主義的な状態、いわばアサイラム*になっていると捉えられるという視点が述べられた。そうしたアサイラム、ないしダークコモンズとも捉えられる自らの社会において、ダークコモンズやアサイラム状況を生成・再生産する事象をフィールドワークすることは、権力の及ばない領域としての新しいコモンズ(すなわち権力が及ばない領域であるアジール)の形成に貢献するエッジワークに繋がると論じられた。
  また最後に、エッジワークという概念の限界と発展について議論された。エッジワーク概念は「日常的抵抗」という概念と重なる部分があり、人類学者としてはそうした実践に着目したいが、それが現実社会でもつ力については注意が必要であると指摘された。例えばこうした実践を表す際に用いられる「黙認耕作地帯」といった表現も、「境界を引いた側による黙認」という権力者側の支配から抜け出せておらず、その優位構造を克服できてないともいえ、そうした点をふまえると、共同研究に開かれたフィールドワークという点については更なる議論が必要であると論じられた。これに対し、エッジワークが現実社会をひっくり返すなどことなどないことを理解しているからこそ「希望」といった言葉を使っており、司法などの議論に収束させないためにも、こうしたエッジワークが希望を生み出すことに着目して働きかけることが重要であるという見解が示された。
* ゴフマンのtotal institution(全制的施設)にかんする論集で用いられた「アサイラム(asylum)」は、社会から断絶された収容・隔離施設(フーコーのパノプティコン的な権力作用が人びとの施設(物理的側面・制度的側面両方)への適応を通じて達成される場)を意味するものであり、「権力の及ばない聖域」を表すギリシャ語ásulonを語源とする「アサイラム(asylum)」や「アジール((仏)asile(独)asyl)」とは異なる。報告では、社会から人びとを隔離し操作環境下で報酬や罰を与えて管理することで、権威者の望むかたちに行動を変容させ人格を根本的に変えるというtotal institutionの再社会化の技術が、近代的な人の管理に適用されていると指摘された。

(報告: 河合 文(AA研))