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ニラム・チャヤの物語

テキスト提供:山川るみさん

 

パャクンブ地方に、タエ・シマランガンとよばれる平野があります。そこに、ニラム・チャヤという身分の高い婦人が、幼い娘、ランブンと住んでいました。ニラム・チャヤは先祖代代豊かな財産を受けついでいて、広い田畑や、たくさんの家畜を持ち、大そう裕福に暮していました。けれども、夫のスータン・バデワは、なによりも賭け事が好きで、昼となく夜となく闘鶏をして過し、少しも家へ帰ってきません。ありあまるほどあった財産は、すっかり使い果たされ、ニラム・チャヤは、やがてその日の暮しにも困るようになりました。

どんなに妻と娘が困っていても、スータン・バデワは知らぬ顔で遊んでいるので、ニラム・チャヤはしかたなくよその畑へ働きに出ることにしました。けれども、ニラム・チャヤはその時身ごもっていましたから、人なみに働くこともなりません。ニラム・チャヤは考えこみました。

「この村にいて恥ずかしい思いをしているよりは、いっそ森へ入って死んでしまいましょう。恐ろしい獣のエサになろうと、どうせいつかは死ぬ身です。いま死ぬほうを選びましょう。夫だって、私が死ねば喜びこそすれ、悲しむことはないでしょうから」

そう心を決めると、ニラム・チャヤは森へむかって歩き始めました。ジュマ・アット(金曜日)の昼下り、村中がひっそりと静まり返っているときです。涙は、玉をつないである糸が切れたように、あとからあとからとめどなくこぼれ落ちました。

残してきた娘、幼いランブンのことを思うと、足が自然に止まってしまいます。深い蔭をつくっている大きな木の下に立ち止り、ランブンの住む屋根のあたりをじっと見つめて、心の中で別れの言葉を呟くと、ニラム・チャヤは涙をぬぐって、また歩き続けました。

丘を越え、谷を下り、河を渡って、一と月か、それとも二た月ぐらい歩いたでしょうか。

大きな木の根のほらあなを見つけて、そこに住むことにしました。ある日の暮れがた、赤ん坊が生れました。男の子で、ブジャン・パマナイと名づけました。

ブジャン・パマナイは、若竹のようにすくすくと成長し、わずかな間にリッパな若者になりました。ニラム・チャヤは、読み書きや故郷の習慣を教えこみ、ある日息子にむかっていいました。

「ブジャン・パマナイや、お前はもうリッパな若者になりました。もう、世の中に出てゆくこともできます。善いことと悪いことの判断もつくはずですし、この母が受けた恥ずかしい思い出も消してくれることが出来るでしょう」

息子は、母の顔を見つめてききました。

「お母さん、教えてください。むかしどんなことがあったのですか。私たちの故郷はどこなのですか。なぜ、こんな深い森の中に二人で住むようになったのですか」

ニラム・チャヤは、すべてを話してやりました。故郷のタエ・シマランガンのこと。父のスータン・バデワのこと。そして、今も夢にさえ忘れたことのない、ランブンのこと。

じっと聞いていたブジャン・パマナイはいいました。

「お母さん、もう少し待っていてください。私は学問をしに旅に出たいと思うのです。どうぞ行かせてください」

ニラム・チャヤは淋しさをおさえて、息子を旅立たせてやりました。ブジャン・パマナイはどんどん歩いて、ある村にさしかかりました。通りのむこうから荷をかついで来る男に会ったのでたずねてみました。

「このあたりに、コーランの教えや、そのほかの学問を教えてくださる偉い先生はおいでになりませんか」男はすぐ教えてくれました。

「おお、それならサリというかたがこの村に住んでいなさる。この先の、大きなブリンギンの木があるところにお住いがある。誰にきいてもわかる大きな木じゃ」男にお礼をいって、教えられたとおり歩いてゆくと、大きなブリンギンの木蔭に、ニツパヤシの葉の屋根で棟木には彫刻がほどこされ、部屋が九つもある美しい家が見つかりました。

ブジャン・パマナイは、入門を許されて、師のサリについて、一心に修業を積みました。

さて、ランブンはどうしていたでしょうか。

母の、ニラム・チャヤがいなくなって、毎日泣き暮らしていたランブンは、父のスータン・バデワを探してみようと思いたちました。

道で商いをしている男にきくと、闘鶏場へ行って探せばよいと教えてくれました。ランブンは闘鶏場へ行きました。そこでは、闘鶏の最中で、おおぜいの人がごった返し、鶏の羽毛が舞い散り、たくさんの賭け金が騒ぞうしい音をたててぶちまけられ、その間をぬって物売りが叫び、ときおりどっとどよめきがあがり、耳をおおいたくなるようなやかましさです。ランブンは、人ごみの中に、一羽の鶏をかかえている父を見つけました。

「父さま、家へ帰ってきてください。お母さまはいなくなってしまったの。森で死んでしまったのかもしれない」スータン・バデワは眉をしかめて、

「うるさい、お前は私の子ではない」と振り払いました。けれども、ランブンが声をあげて泣き出したので、きゅうにやさいい声をつくっていいました。

「おお、泣かないでもよい。いっしょに帰ろう」

帰るとちゅう、大きな河のそばまで来ると、スータン・バデワは、ランブンを待たせておいてバナナの幹を切り倒し、小さなイカダを組みました。そして、娘を呼んでイカダにしばりつけ、声をたてられないように口をふさぐと、そのまま河に押し流してしまったのです。鬼のような父親は、闘鶏場へ急ぎ足で引き返して行きました。

ずっと川下で、釣糸をたれていたトゥンガン・マラワンという漁師が、イカダを見つけ、河に飛び込んでランブンをたすけました。

話を聞いて気の毒に思ったトゥンガン・マラワンは、自分の母親の家へランブンを連れて帰りました。女の子を持たなかった母親は、大そう喜んでやさしく世話をし、ランブンはその家で暮らすことになりました。

いっぽう、ブジャン・パマナイは、さまざまな学問を身につけ、修業も終えようとしていました。母から教えられた知識に、いちだんと磨きがかかったのです。師のサリは、わが子のように熱心に愛情をそそぎ、指導してくれました。ある日、ブジャン・パマナイは師の前に出ていいました。「お師匠さま、私は、世間を見てまいりまいのです。どうか行かせてください」

師のサリは、まな弟子を手ばなすことをたいへん惜しがりましたが、ブジャン・パマナイは、自分が見聞を広めた後は、また戻ってくることを約束して旅立ちました。歩き続けているうちに、村に着きました。ヤシの並木がきちんと続き、ピナンの枝が風にそよぎ、道の両側には家や倉がたちならび、今まで見たこともないような、それはたいへん美しい村でした。その村には、スータン・バデワのいいなづけの、ランブン・クスットが住んでいたのです。美しいランブン・スクットに、スーダン・バデワは結婚を申し込み、家柄のよいところから、その申し出はかなえられて、今はいいなずけになっていたのでした。ランブン・クスットは、ちょうどハタを織っていましたが、通りかかったブジャン・パマナイを見て思わず声をかけました。

「お若いかた、どこからおいでになったの」

「森の奥から」と若者は答えました。「ただ働くところを見つけたくて、歩いているのです」

ランブン・クスットは、自分の家で働くようにすすめました。けれども、ブジャン・パマナイが住みこむようになってから三日めにいいなずけのスータン・バデワがやってきました。

りりしい若者がいるのを見て、スータン・バデワは驚き、今にもいいなずけを奪われてしまうのではないかと不安でたまらなくなりました。

「あれはいったい誰の息子なのだろう。あの美しい顔立ちはどうだ。長くこの家に置いておけば、きっとランブンの心はあの若者に移ってしまう。そうだ そうならないうちに殺してしまえばよいのだ」

その夜、家中が寝静まるのを待って、スータン・バデワは、サヤをはらったクリスを手にして、ぐっすり眠っているブジャン・パマナイの寝床のソバにしのび寄りました。ところが、ツボにつまずいて、大きな音をたててしまいました。驚いて目をさましたブジャン・パマナイが、すばやく身をかわしたので、力いっぱいつきかかったスータン・バデワのクリスは、深くカベにつき立ってしまいました。

「どうして私を殺そうとするのですか」

ブジャン・パマナイは叫びました。けれど相手は何も答えず、もう一度襲ってこようとしています。

ブジャン・パマナイは、誰かわからない男に組みつき、首をしめ上げ、とうとう殺してしまいました。

物音に驚いて、ランブン・クスットや、家の人たちが起きてきました。事件はたちまち伝わって、太鼓が打ち鳴らされ、その夜のうちに、ブジャン・パマナイを裁くため、村中の人が集められました。

「なぜ人をあやめたのか。アラーの神をおそれないのか」ブジャン・パマナイは、眠っている間におそわれたこと、殺さなければ、自分が殺されていたことを語り、最後にこうつけ加えました。「私は、何ひとつ持たない貧しいものですが、ここへ参ったのは、スータン・バデワという私の父を探すためののです。生れてからまだ一度もあったことのない父親です」

長老は驚いてたずねました。「若者よ、お前はいったい誰なのだ」

「私は、タエ・シマランガンのニラム・チャヤの息子、ブジャン・パマナイと申します。ランブンという姉がいるそうです」

村人たちの間から、「ニラム・チャヤの息子、ニラム・チャヤの息子」というささやきが、風の通りすぎるようにあちこちでいいかわされました。

「若者よ、お前の殺したその男がスータン・バデワじゃ」ブジャン・パマナイは耳を疑いました。

「何という恐ろしい罪を犯してしまったのだ。父を自分の手で殺してしまうとは」

長老たちをはじめ、村の人たちは、すべてこれをアラーのおぼしめしであると考えました。そこで、スータン・バデワの亡骸を弔ったあと、学識ゆたかなブジャン・パマナイを、その地方の宗教をつかさどる役人に取り立ててやりました。むかし、ニラム・チャヤの持物だったリッパな邸や、田畑も戻されました。プジャン・パマナイは森の奥から母のニラム・チャヤを迎えて邸に住まわせました。

さて、ある日、漁師のトゥンガン・マラワンが息を切らせてランブンのところへやってきました。ニラム・チャヤの息子、ブジャン・パマナイが、スータン・バデワを殺し、今は偉い役人になっていることを人の噂できいたのです。ランブンは、世話になった人たちと別れを惜しみながら、トゥンガン・マラワンにともなわれて、故郷へ旅立ちました。

それから、親子三人は、故郷のタエ・シマランガンの平野に住み、平和で、幸せな生活を送ったということです。

 


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